舘野 鴻(画家、絵本作家・57歳)
─関係の視点で〈自然〉のありさまを探る絵本作家─
「死や排泄から目を背けてはいけない。人が不快なことも生命のありようです」

──地味な生き物に光を当ててこられました。
「たしかに、パッとしないものばかり描いてますよねえ。シデムシにガロアムシ、ヒメツチハンミョウ。うんこ虫とも呼ばれるセンチコガネもそうです。
僕が中一の時、友人に頼まれて入部した生物部で出会い、夢中になったのがオサムシです。オサムシは羽が退化して飛ぶことができない甲虫です。歩いてしか移動できないので、山や川を境に固有の特徴を持った種類が多いのです。美麗なので輝きのバリエーションも幅広く、昆虫を愛好する人たち、いわゆる“虫屋”の間では昔から人気があります」
──オサムシは描かないのですか。
「大好きな虫だけど、それほど描きたいとは思わないんですよ。オサムシは虫屋の世界ではミーハー種といわれるくらい人気があり、研究し尽くされています。でも、誰かの観察結果よりも自分の眼で発見して驚いたり、感動したりしたことを絵にしたい。それに、どんな生き物にも一生を生きる物語がある。あえて地味な虫を選んでいるのは、人に意識されていない、言い換えると目に見えない事実を自分なりに可視化したいからです」
──一作に相当な時間をかけるそうですが。
「ヒメツチハンミョウをテーマにした『つちはんみょう』は、描こうと思ってから絵本になるまで10年かかりました。この虫も飛べないのですが、巧妙な繁殖戦略を持っています。メスはコハナバチという蜂が地面に掘った巣穴近くに卵を産みます。羽化したコハナバチが地表に出てくると、同じタイミングで孵化していたヒメツチハンミョウの幼虫たちがその体へ一斉にしがみつくのです」
──寄生するのでしょうか?
「人の想像力を超えた寄生です。コハナバチが飛び立って花を目指すと、ヒメツチハンミョウの幼虫は花の上に散らばります。次の相手を待つためです。新たな標的はヒメハナバチという蜂。乗り換えに成功したヒメツチハンミョウの幼虫は、花粉に紛れ土中のヒメハナバチの巣穴へ運ばれ、蓄えられた花粉団子を食べて大きくなる。それを食べ尽くすと今度は別な巣穴へ移動し、そこにいるヒメハナバチの幼虫を食べて花粉団子を奪うのです」
──じつに複雑で巧妙な生きざまです。
「あまりにも複雑すぎて、そもそも生態に関する論文がほとんどなかったんです。ファーブルが『昆虫記』に書いたフランスでの観察例が最初ですが、彼は生活史のすべてまで追えなかった。日本でも何人かの昆虫学者が挑戦しました。新たにわかったこともありますが断片的で、全容解明には至っていなかった。なので、自分自身が地面に這いつくばったり、スコップで土を掘ったり、花をのぞき込んだりして観察してみるしかありませんでした」
「子どもの頃は熊田千佳慕先生の家で気ままに描いていました」

──研究しながら絵筆を進めたのですね。
「1年ではわからなくても、ヒメツチハンミョウは毎年生まれます。僕らに見えていないだけで彼らの営みは日々続いている。どうすれば見えるかを考え続ければ道は開けると信じました。初期生活の一部は今も仮説のままですが、8年かけて、やっと誕生から命を残すまでのサイクルを明らかにできました」

──絵にはいつ頃から興味をもったのですか。
「物心ついた頃から描いていました。僕は横浜生まれで、近所に画家の熊田千佳慕(くまだちかぼ)先生が住んでいました。戦前の対外宣伝グラフ誌『NIPPON』を、名取洋之助、山名文夫、亀倉雄策、土門拳といった錚々たるメンバーと作っていた巨匠ですが、近所の人たちから見れば“昔ちょっと名が知られていたらしい絵描きのお爺さん”くらいの存在でした。
僕が絵を描くようになったのは、熊田先生のところへ母が絵を習いに行き始めたのがきっかけです。僕は自分で捕まえて籠に入れてきた虫を勝手に描いたりしていました。先生はそれをニコニコと見ているだけ。いいとも悪いとも言わず、アドバイスもしない。ですから正式な師弟というわけでもなく、それが幼い私の〈環境〉でした」
──学校ではどんな少年でしたか。
「引っ込み思案でした。3月生まれのせいか、同級生と話をするのが苦手で。4月生まれの子なんかは1歳上じゃないですか。それもあって絵を描いていることが多かったのですが、寂しくはなかった。描いた絵をみんなが褒めてくれるんですよ。リクエストに応えて描いた絵をプレゼントすると喜んでくれる。この感覚は今も同じ。僕はワークショップに来られる方々に絵を描いてあげることも多いです」
──将来の夢も絵を描くことでしたか?
「それはまったく思いませんでした。中高は私立の一貫校でしたが、大学進学で挫折しました。現実から逃げるように向かった先が北海道で、そのまま札幌の大学に進学しました。入学早々に学内の左翼団体に勧誘され、学生自治会に参加したり立て看板を描いたりしました。アングラ演劇や舞踏にもはまりました。バイトはテレビ局の報道カメラマンの助手や舞台美術。その頃はジャズにどハマりしていて、付き合った女の子からテナーサックスを買ってもらって、調子に乗ってジャズミュージシャンになろうと思ってました。刺激的な時代でしたね」
──青春を謳歌していましたね。
「いやいや、むしろ鬱屈していたんですよ。いろんなことに首を突っ込んだのは反動です。正直、どれも自分が本当にやりたいこととは思えなかった。ふと我に返るたび、言いようのない敗北感がのしかかってきました」
──卒業はされたのですか。
「1年で中退して、正味6年北海道で暮らし横浜へ帰りました。また逃げたのです。左翼活動と演劇・舞踏はやめましたがジャズは続け、横浜のジャズクラブでアルバイトをしながらサックスを吹いていました。でも飯を食っていける自信はありません。基礎を学んでいないしプロは無理そうだなと思いました。
じつは絵も時々描いていたんですよ。いつも思い浮かんだのが熊田千佳慕先生です。あんなふうな細密画を描きたいと、稽古を重ねていました。
そうして描きためた絵を先生に見せると、“ネイチャープロダクションの人に見てもらったら?”とだけ言いました。ネイチャープロダクションとは、自然写真家やイラストレーターの作品を管理していたエージェントです。持って行ってみたのですが、酷評に次ぐ酷評でした。熊田先生は基礎の大切さを教えるために“見てもらったら?”と言ったのかもしれません。恥をかいて井の中の蛙(かわず)ぶりを痛感してこいということだったのかな」
──その後は絵をどう学んだのですか。
「美術学校に入り直す時間もお金もない。そう思った時、北海道で一緒に虫採りをした先輩が生物調査の仕事をしていることを思い出しました。仕事で生き物に接すれば勉強になるのではないか。再び熊田先生に相談すると博物館の方を紹介してくださり、その方が環境アセスメント会社に繋いでくれたのです。
工事に先がけ、予定地の自然に影響がないかを調査するのが環境アセスメントです。じつは絵も描きたいのですと伝えると、じゃあ報告書に載せる図も担当してくれと言われました。ここでは主に現場の調査を中心に、生物画から地図、植生断面図まで引き受けたことで経験値が一気に上がりました。仕事が人を育てるといいますが、僕は環境影響調査で人と自然環境の関係を学んだのです」
──報告書の絵は個性を求められませんね。
「見たものを忠実に描くのが任務ですからね。芸術ではない。ただし、大手出版社の図鑑の仕事では、技術的にうまくないとほかの人に仕事を奪われますから、職人的な精進も忘れませんでした。調査は学者と組むことが多いので、生き物を正しく描くうえでの視点も鍛えられます。ところが、技術が上がって絵が精巧になるほど、自分の描くものが無味乾燥とした標本画に見え始めたのです」

「忠実な再現だけが目的だったら絵は自然写真に勝てません」
──迷路に入り込んでしまった。
「この絵は僕がずっと描き続けたい世界観なのだろうか。毎日の仕事に疑問を感じ始めた頃、仕事で一緒だったベテランの写真家に絵本制作を勧められました。それまでの図鑑写真はフィルムカメラで撮ったもので、今のデジタルカメラのように全部にピントを合わせる深度合成ができませんでした。その限界を補うのが絵だったのです。深度合成技術が発達する2000年代に入ると、僕のようなリアルイラストを描く画家の仕事が激減し、僕も廃業を考えていました。そこに〈科学絵本〉という道が現れたのです」
──科学絵本のどこに興味を覚えたのですか。
「リアルだけれど、必ずしも学術の厳密なルールだけに縛られない点です。知育絵本とも呼ばれ大正時代から確立している出版ジャンルです。僕が横浜に帰ってきて熊田先生に語った夢は、どこまでも客観的で冷徹なスーパーリアリズムを目指したい、という生意気なものでした。
環境調査の仕事で冷たくリアルな絵を描く力はつけた。けれどその冷たさに自分自身が飽き、違う絵を模索している。そんな時、目の前に現れたのが科学絵本という扉でした。
ですが、対象となる生き物の特徴を忠実に再現することがスーパーリアリズムの定義だとすれば、深度合成の効いた写真には勝てない。僕はその新しいリアリズムは〈関係性〉だと考えました。生き物の習性だけでなく、棲む場や人間との関わりなども含めたうえで理解し表現する。
山を背景にするならなんという山か。その山はいつ頃誕生しどんな理由で今の形になったのか。そこの植生は人間がどの程度手を加えたものか。描こうとするものすべての存在を咀嚼したうえで主人公になる虫に光を当てる。本来は、そこにあるもの、描かれたもの全てが主人公になり得るのです。それが僕の目指したいスーパーリアリズムだと確信したのです」
──仏教の曼荼羅のような世界観ですね。
「僕の絵本が地味なのは、死や排泄、循環を主題にしているからです。象徴的な作品が『しでむし』と『うんこ虫を追え』です。シデムシは動物の死骸を子どもに与えて育てます。僕はアカネズミを飼育し、その死に立ち会うところから観察を始めましたが、腐臭漂う死肉を利用するシデムシの周囲には、驚くべき種類の生命が複雑に関わり合っていることを実感しました。生態系に上下はないし、善悪もない。あるがままそのままなのが〈自然〉です。その時空の一端に、本当は人間もいる。不快だという単純な理由で自然の摂理から目を背けることは、未来を生きる子どもたちのためにもならないと思っています」


──今はどんなことを構想していますか。
「自然科学と人文科学を繋ぎ合わせた絵本を作りたい。三部作の構成で、ひとつは2020年に出した『がろあむし』。2冊目は今取り組んでいるもので、主役は小笠原諸島に棲むグリーンアノールという外来トカゲです。
3作目のテーマはじつはツチノコです。本当にいるのか。架空の生き物なら、見たという人が昔から各地にいるのはなぜか。それを科学絵本の観点を交えてどう物語化するか。僕のスーパーリアリズムの総括です」

舘野 鴻(たての・ひろし)
1968年、神奈川県横浜市生まれ。幼少時より画家の熊田千佳慕氏と交流を持つ。中高時代は生物部に所属。札幌学院大学在学中に学生運動、演劇、舞踏、音楽と出会う。1年で中退し各種アルバイトを経験。環境調査の仕事に就いたのを機に独学で細密画を学ぶ。2005年より絵本制作を開始。主な作品に小学館児童出版文化賞を受賞した『つちはんみょう』(偕成社)など。最新刊は『うさぎのしま』(共著・世界文化社)
取材・文/鹿熊 勤 撮影/藤田修平











