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ライターI(以下I):『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』(以下『べらぼう』)第9回前後の世界情勢を見渡せば、アメリカは独立したばかりで、フランスは有名な「フランス革命」前夜という情勢でした。産業革命が進展するイギリス、乾隆帝のもとで隆盛を誇った清国。ドイツでは、蔦重と1歳違いの詩人で小説家のゲーテが『若きウェルテルの悩み』を刊行して欧州のベストセラーになっていました。
編集者A(以下A):『若きウェルテルの悩み』などは現在も文庫で気軽に読むことができます。では、蔦重が刊行にかかわった本でそんなに気軽に読めるものがあったでしょうか? などと思うのですが、それはさておき、今週は、『べらぼう』の時代の日本の他藩の様子に注目してみたいと思います。
I:他藩ですか?
A:『べらぼう』の時代から約80年後にはペリー艦隊がやってきて幕末の動乱につながっていくわけです。この時期の薩摩藩、長州藩はどういう状況だったのかといいますと、薩摩藩の藩主は島津重豪(しげひで)。幕末の島津斉彬の曽祖父になります。重豪の「重」の字は9代将軍徳川家重からの偏諱になります。
I:幕末の薩摩藩のことを考えるうえで、島津重豪という人は重要な存在なんですよね。
A:俗に「蘭癖(らんぺき)大名」といわれた藩主で、幕末の薩摩藩の近代化路線のルーツは重豪になります。借金も増やして功罪相半ばするのですが、ひ孫の斉彬をめちゃくちゃかわいがったといいます。そういう意味でも重要人物ですよね。
I:「蘭癖」のもとは田沼時代の自由な空気が生み出した『解体新書』などの刊行ともつながってきますから、感慨深いですね。江戸は田沼意次失脚でこうした雰囲気が縮小していきますが、薩摩では重豪の研究成果が幕末に実るという展開になります。
長州藩藩主毛利重就が諱の読みを変えた理由
I:さて、薩摩ときたら長州です。『べらぼう』の時代の長州藩主は毛利重就(しげなり)といいます。
A:この重就は吉川弘文館の人物叢書に取り上げられている人物でもあります(島津重豪も)。長州藩中興の祖とも称される藩主となります。『べらぼう』の時代の藩主の業績が幕末に活かされたといってもいいのでしょうか。そして面白いのは重就は11代将軍に徳川家斉が就任した際に家斉の「なり」が自身の「しげなり」と読みが一緒になったことを憚って、「しげたか」と読み方を変えたというエピソードが伝えられています。
I:それだけ将軍の権威が強かったということですね。
A:幕末に12代将軍徳川家慶から偏諱を受けた毛利慶親は、幕府から長州征伐で攻められた際に「慶」の字をはく奪されて毛利敬親と名を変えました。『べらぼう』の時代には想像もつかない事態が起こったことになります。
I:現状では絶対にありえないと考えられることが、未来には発生する。歴史ってほんとうにおもしろいですね。
●編集者A:書籍編集者。『べらぼう』をより楽しく視聴するためにドラマの内容から時代背景などまで網羅した『初めての大河ドラマ べらぼう 蔦重栄華乃夢噺 歴史おもしろBOOK』などを編集。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好きで、猫の浮世絵や猫神様のお札などを集めている。江戸時代創業の老舗和菓子屋などを巡り歩く。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり
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