羽柴秀吉と柴田勝家が激突した「賤ヶ岳の戦い」。その名から、賤ヶ岳の山頂を舞台に両軍が激しくぶつかった戦いを想像する人も多いのではないでしょうか?
しかし実際の戦場は、賤ヶ岳の山頂だけではありませんでした。現在の滋賀県長浜市北部、北国街道沿いの木之本(きのもと)や東野(ひがしの)、柳ヶ瀬(やながせ)などを含む広い地域で両軍が対峙した戦いだったのです。
この記事では、「賤ヶ岳の戦い」の舞台となった「賤ヶ岳」について見ていきましょう。

「賤ヶ岳」の読み方と名前の由来
まずは、読み方から確認しましょう。
「賤ヶ岳」の読み方は……
「しずがたけ」です。
「しずがだけ」と呼ばれることもあります。
現在の滋賀県長浜市にある標高約422メートルの山で、北には余呉湖(よごこ)、南には琵琶湖を臨みます。山頂からの眺望にも優れ、現在は琵琶湖八景の一つ「新雪 賤ヶ岳の大観」としても知られています。
名前の由来については諸説ありますが、ここではその中から一つの伝承をご紹介しましょう。行基(ぎょうき)がこの山に精舎を建てようとした際、山の賤が白髪の老樵夫(ろうしょうふ)の姿で現れ、精舎の守護神になると告げました。そこで「大音(おおと)大明神」として祀り、山を賤ヶ岳と呼ぶようになったと伝えられています。
賤ヶ岳の戦いの戦場は山頂だけではなかった?
「賤ヶ岳の戦い」という名前から、賤ヶ岳で激戦が繰り広げられたように思えます。しかし、実際の戦場はもっと広い範囲に及んでいました。なぜ、この一帯が秀吉と勝家の決戦の舞台になったのでしょうか。まずは、賤ヶ岳の地理的な重要性から見ていきましょう。
北国街道を押さえる重要な場所
賤ヶ岳は、北に余呉湖、南に琵琶湖を望み、その東麓には近江から越前へ向かう北国街道が通っていました。つまり、北陸と畿内を結ぶ交通の要衝だったのです。
天正11年(1583)、秀吉と勝家が争った際にも、この地形が戦いを大きく左右しました。
両軍は賤ヶ岳だけでなく、木之本、東野、柳ヶ瀬など北国街道に沿った高地にそれぞれ砦を築き、向かい合いました。秀吉は木之本を本営とし、弟の秀長をはじめ、丹羽長秀、中川清秀、高山右近、堀秀政ら多くの武将を率いて北上。一方の勝家も、佐久間盛政や前田利家、金森長近らを率いて南下しました。

賤ヶ岳の戦いとは、一つの山を奪い合った戦いというより、北国街道をめぐって複数の陣地が連なる一帯で展開された攻防だったのです。
最後に
現在の賤ヶ岳は、琵琶湖と余呉湖を一望できる風光明媚な山です。しかし天正11年(1583)、その周辺には両軍の砦が連なり、北国街道をめぐる緊張が続いていました。
そして賤ヶ岳の戦いでの勝利によって、秀吉は柴田勝家との後継者争いに決着をつけ、織田家中で圧倒的な地位を築いていきます。
「賤ヶ岳の戦い」と聞いたとき、山だけでなく、木之本や余呉、柳ヶ瀬へと続く広い戦場を思い浮かべてみると、この戦いの姿がより立体的に見えてくるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)











