
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
はじめに-狩野永徳とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する狩野永徳(かのう・えいとく、演:片岡鶴太郎)は、織田信長(演:小栗旬)や豊臣秀吉(演:池松壮亮)に重用され、安土桃山時代を代表する画家となった人物です。
永徳の最大の特徴は、巨大な松や花鳥、人物などを大画面いっぱいに描く、力強く豪壮な表現です。
その画風は、新しい時代の覇者となった信長や秀吉の好みに合い、安土城、大坂城、聚楽第など、当時を代表する建築物の障壁画を次々に手がけました。
しかし、その多くは建物とともに失われてしまいます…。
現存作品が決して多くないにもかかわらず、なぜ永徳は「桃山時代を代表する画家」とされるのでしょうか。その生涯を追ってみましょう。
『豊臣兄弟!』では、大坂城などの障壁画を描く狩野派の絵師として描かれます。
狩野永徳が生きた時代
狩野永徳が生きた16世紀後半は、長く続いた戦国の争乱から、織田信長、豊臣秀吉による天下統一へと社会が大きく変化した時代です。
城郭や御殿も、これまで以上に権力を示す巨大で華麗なものとなり、その内部を飾る障壁画にも壮大さが求められるようになりました。
また、金地に鮮やかな色彩を施し、巨大な樹木や花鳥を大胆に配する華麗な絵画は、新しい権力者たちの威勢を示す空間演出とも結びついていきます。
永徳が生み出した豪壮な「大画」の様式は、まさにそうした時代の空気と重なりました。
狩野永徳の生涯と主な出来事
狩野永徳の生年は天文12年(1543)、天正18年(1590)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
狩野派の名門一家に生まれる
狩野永徳は天文12年(1543)、山城国に生まれました。父は狩野松栄、祖父は室町時代を代表する絵師・狩野元信です。
幼名・通称は源四郎、名は州信といい、「永徳」は号・法名とされています。
永徳は幼いころから祖父・元信の指導を受け、早くから才能を期待されていたようです。
天文21年(1552)、帰洛した将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)のもとへ、祖父の元信とともに挨拶に出向いたことが知られています。このとき永徳はまだ10歳ほどでした。
24歳で大徳寺聚光院の障壁画を描く
永禄9年(1566)、24歳の永徳は、父・松栄とともに京都・大徳寺聚光院の障壁画制作に取り組みました。
ここで描いたのが、国宝に指定されている「花鳥図」と「琴棋書画図(きんきしょがず)」です。中でも「花鳥図」は、襖16面にわたって、松と鶴、芦と雁、梅と小鳥などを大胆に配置した作品になります。
画面から飛び出すかのように巨大な樹木を描き、力強い動きを感じさせる構図は、それまでの狩野派の技法をさらに発展させたものでした。
この作品は、のちに桃山時代を象徴することになる壮麗な障壁画の始まりを告げる作品として評価されています。
織田信長に認められる
永徳の豪放な画風は、やがて織田信長の目に留まりました。
天正2年(1574)、信長は上杉謙信に永徳の「洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」を贈っています。

この作品は狩野永徳ではなく、永徳の子・光信の作かといわれている。
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この作品には、金雲の間に京都の町並みが広がり、およそ2,000人に及ぶ人々の暮らしが細かく描き込まれています。
巨大な対象を大胆に描く「大画」を得意とした永徳ですが、細かな人物や町の情景を描き込む「細画」にも優れていたことがわかります。
安土城を彩った「天下一」の画家
天正4年(1576)から、信長は近江に安土城を築き始めました。永徳はこの大事業に抜擢され、一門を率いて天守や御殿内部の障壁画制作を担当。
『信長公記』によれば、安土城の内部には、花鳥や名所、風俗など、さまざまな画題が華麗な色彩で描かれていたとされています。
『世界大百科事典』(平凡社)では、永徳は安土城での働きにより、褒美として300石の知行を与えられたとも伝えられています。
しかし天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れると、安土城もほどなく焼失しました。永徳が力を注いだ障壁画も、城とともに失われてしまったのです。
信長亡き後、秀吉に重用される
信長の死後、永徳を起用したのが豊臣秀吉でした。
秀吉は天正11年(1583)から大坂城の築城を進め、その後も正親町院(おおぎまちいん)御所、聚楽第、天瑞寺(てんずいじ)、新造御所など、大規模な建築事業を次々に行いました。
永徳は、こうした主要建築の障壁画制作を次々に任されます。
特に天正15年(1587)に完成した聚楽第は、秀吉が京都に築いた壮大な政庁兼邸宅です。その内部を彩る障壁画も、永徳の指導のもと、狩野派の絵師たちによる集団制作で進められました。
こうした大規模な仕事を重ねる中で、永徳は一人の絵師というだけでなく、狩野派という巨大な絵画工房を率いる中心人物となっていきます。
永徳が秀吉の建築事業を次々と任されたことによって、狩野派は桃山時代の画壇で中心的な地位を築くことになりました。
『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、秀吉から山城国大原郡に100石の領地を与えられていたとも考えられています。
「唐獅子図屏風」などに見る豪壮な画風
永徳の代表作として知られるものの一つが、「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」です。

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巨大な獅子を画面いっぱいに描いた作品で、永徳らしい力強く大胆な表現を見ることができます。
また「許由巣父図(きょゆうそうほず)」も、永徳の作とされる貴重な作品です。
一方、「檜図屏風(ひのきずびょうぶ)」や南禅寺本坊大方丈の障壁画については、永徳作である可能性が高いといわれていますが、確定しているわけではありません。

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永徳の作品は、その名声の大きさに比べ、現存するものが多くありません。これは、永徳が城や御殿といった建築物そのものに描く障壁画を数多く手がけたためです。
安土城をはじめ、建物が失われると、そこに描かれていた作品もともに消えてしまいました。
48歳で突然の死
永徳は晩年も、秀吉に起用され、大坂城や聚楽第、天瑞寺、御所など、相次ぐ大規模な建造に伴う障壁画制作を命じられました。
そして天正18年(1590)9月、御所の襖絵(ふすまえ)制作を一部残したまま急死します。48歳でした。
『国史大辞典』(吉川弘文館)では、相次ぐ大規模な仕事によって健康を損ねた可能性も示されていますが、死因ははっきりしていません。
まだ画家としてさらに活躍が期待される年齢での死でした。墓は京都市上京区の妙覺寺にあります。

永徳の墓は左から3番目のもの。
写真:貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
桃山絵画そのものを変えた永徳
永徳の死後も、その画風は大きな影響を残しました。
巨大な樹木や花鳥を大画面いっぱいに描く豪快な構図は、弟の狩野宗秀や子の狩野光信など狩野派の画家だけでなく、海北友松(かいほう・ゆうしょう)や長谷川等伯(はせがわ・とうはく)といった他派の絵師にも影響を与えました。
永徳が確立した大画面様式は、桃山時代の花鳥画や障壁画の基本的な表現となっていきます。
まとめ
狩野永徳は、単に信長や秀吉に仕えた人気絵師だったわけではありません。巨大な権力を象徴する建築空間にふさわしい、新しい絵画表現を生み出し、狩野派のみならず桃山画壇全体に大きな影響を与えた人物でした。
48歳という若さでその生涯を閉じましたが、永徳が切り開いた豪壮な大画面の世界は、まさに桃山文化を象徴する表現として後世に受け継がれていったのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
協力/妙覺寺
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
アイキャッチ画像/出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)











