はじめに-佐久間盛政とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する佐久間盛政(さくま・もりまさ、演:遠藤雄弥)は、織田信長(演:小栗旬)に仕え、のちに柴田勝家(演:山口馬木也)のもとで活躍した武将です。勇猛さから「鬼玄蕃(おにげんば)」の異名で知られ、加賀の一向一揆鎮圧などで武功を重ねました。
盛政の名がとりわけ取り上げられるのが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いです。羽柴秀吉が陣を離れた隙を突いて大岩山を奇襲し、秀吉方の中川清秀(なかがわ・きよひで)を討ち取るという大きな戦果を挙げました。ところが、柴田勝家から出されていた撤退命令に従わず、その場にとどまったことが運命を変えます。
果たして「鬼玄蕃」佐久間盛政とは、どのような武将だったのでしょうか? その生涯をたどります。
『豊臣兄弟!』では、織田家家臣で柴田勝家の甥として描かれます。

佐久間盛政が生きた時代
佐久間盛政が生きた16世紀後半は、織田信長が尾張から急速に勢力を拡大し、畿内から北陸へと支配を広げていた時代です。
一方、北陸では一向一揆の勢力が根強く、信長にとって加賀(現在の石川県南半部)・越前(現在の福井県北部)方面の平定は大きな課題でした。その攻略を担った中心人物の一人が柴田勝家です。
盛政の母は勝家の姉であり、盛政にとって勝家は叔父にあたります。盛政も北陸で一向一揆の鎮圧に奔走し、信長の北陸支配を支えていきました。
しかし、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が急死すると、それまで同じ織田家を支えていた家臣たちの間で主導権争いが始まります。その中心となったのが、柴田勝家と羽柴秀吉でした。
佐久間盛政の生涯と主な出来事
佐久間盛政の生年は天文23年(1554)、天正11年(1583)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
「鬼玄蕃」と呼ばれた猛将
佐久間盛政は、天文23年(1554)、尾張国(現在の愛知県西半部)御器所(ごきそ)城で生まれました。父は佐久間盛次(さくま・もりつぐ)、母は柴田勝家の姉です。
幼名を理助といい、のち修理亮(しゅりのすけ)、玄蕃允(げんばのじょう)と称しました。その勇猛さから「鬼玄蕃」と呼ばれたとされています。
父の盛次とともに織田信長に仕えた盛政は、能登・加賀方面で一向一揆の鎮圧に奔走しました。その功績によって、加賀半国の守護職を与えられています。

佐久間信盛の失脚により蟄居する
ところが天正8年(1580)、盛政に思わぬ危機が訪れました。
叔父にあたる佐久間信盛(さくま・のぶもり)が信長の勘気を受け、高野山へ追放されたのです。信盛の失脚にともない、盛政も蟄居しました。

ただし、盛政自身の武功まで否定されたわけではありませんでした。加賀制圧での功績によってほどなく許され、その後は叔父の柴田勝家に属します。
盛政は加賀の尾山城の城主となり、再び北陸で軍事活動を担いました。

本能寺の変後も北陸の反乱鎮圧に奔走
天正10年(1582)6月、本能寺の変によって信長が横死すると、北陸でも情勢が不安定になります。
能登国(現在の石川県北部)石動山の一向宗衆徒らが、温井実正らとともに反乱を起こしました。盛政は前田利家に従い、これを鎮圧しています。

この時点では、盛政と利家は同じ柴田勝家のもとで北陸を支える武将でした。しかし翌年、この利家の動きが、盛政の運命にも大きく影響することになります。
柴田勝家と秀吉の対立
信長の死後、織田家の主導権をめぐって柴田勝家と羽柴秀吉の対立は急速に深まりました。
そして天正11年(1583)、両者は近江で対峙します。いわゆる賤ヶ岳の戦いです。

盛政は当然、叔父・勝家の側に立ちました。
一方の秀吉は、柴田方と対陣している最中、織田信孝の動きに対応するため美濃(現在の岐阜県南部)方面へと兵を動かしました。秀吉本隊が近江(現在の滋賀県)の戦線を離れたことで、勝家方に好機が訪れます。
この機会を逃さなかったのが、盛政でした。
大岩山を奇襲、中川清秀を討ち取る
天正11年(1583)4月16日、盛政は秀吉方の大岩山砦を奇襲しました。そこを守っていたのは、中川清秀です。
盛政の攻撃は成功し、中川清秀を討ち取ります。秀吉方に大きな打撃を与える、鮮やかな戦果でした。

ここだけを見れば、盛政の判断は成功しています。のちの敗北から「無謀な突出」と評されることもありますが、最初の奇襲そのものは秀吉軍の隙を突いたもので、実際に敵将を討ち取る成果を挙げているのです。
問題は、その後でした。
勝家の撤退命令に従わず
柴田勝家は盛政に対し、大岩山を攻撃した後はすぐに兵を引くよう命じていました。しかし、盛政は撤退しませんでした。
一方、美濃方面にいた秀吉は、盛政の攻撃を知ると急いで近江へ戻りました。
秀吉の素早い帰還によって、戦況は一変します。

秀吉の急反撃と賤ヶ岳での敗北
翌朝、秀吉軍は盛政らに猛攻を加えました。
盛政は急ぎ兵を退こうとしますが、すでに秀吉本隊が迫っています。さらに、柴田方に属していた前田利家が戦線から離脱したことも、勝家方に大きな打撃となりました。
盛政らは賤ヶ岳で秀吉軍と戦いましたが、敗北。
大岩山への奇襲で秀吉方の武将を討ち取りながら、その直後の判断によって一転して追われる立場となったのです。
賤ヶ岳の敗北によって柴田勝家の勢力は崩壊。勝家は越前北庄城へ退き、やがて自害しました。
盛政も逃走しましたが、捕らえられます。
秀吉の誘いを拒絶する
捕らえられた盛政に対して、秀吉は降伏を勧めたとされています。
しかし、盛政はその誘いを拒みました。叔父・柴田勝家が北庄で自害した後も、秀吉に従って生き残る道を選ばなかったのです。ここに、最後まで勝家方の武将として生きようとした盛政の姿を見ることができます。
30歳で迎えた最期
盛政は京都の町を車に乗せられて引き回されたのち、天正11年(1583)5月12日に処刑されました。30歳でした。
処刑地については資料によって違いがあります。『国史大辞典』(吉川弘文館)は山城国(現在の京都府南部)槇ノ島で斬殺されたとし、『日本大百科全書』(小学館)では京都三条河原としています。法名は善俊です。
盛政の辞世として、
「世の中を 廻(めぐ)りも果てぬ 小車は 火宅の門を 出づるなりけり」
という歌が伝えられています。
車に乗せられて引き回された自らの境遇と、「この世」という苦しみから抜け出すことを重ねた歌とも読めます。最期まで屈することなく死を受け入れた盛政らしい辞世として伝えられています。
まとめ
佐久間盛政は賤ヶ岳の戦いで、中川清秀を討ち取ることには成功しました。しかし、勝家の撤退命令に従わず、秀吉の反撃を受けて敗れます。
この失敗だけを見れば、血気にはやった猛将という印象になるかもしれません。しかし、大岩山への攻撃そのものは成功しており、一時とはいえ秀吉方を大きく揺さぶりました。
捕らえられた後も秀吉への降伏を拒み、30歳で処刑された盛政。最期まで勇猛な人生であったように思います。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)











