七回忌に、背中を追い続けたさだまさしさんが思いを馳せる

『大往生』『上を向いて歩こう』など、数々の「言葉の名作」を世に送り出した永六輔さんが亡くなって早6年。長く親交があり、七回忌に『永六輔 大遺言』を刊行するさだまさしさんの思いとは。

えい・ろくすけ 昭和8年、東京生まれ。テレビ草創期から活躍し、テレビ番組の作家・司会、ラジオのパーソナリティ、作詞家、作家とさまざまな顔を持つ。作詞に『こんにちは赤ちゃん』など多数。享年83。
最尊寺 (東京・浅草)の住職・忠順と母・登代(写真)の次男として誕生する。
小学6年生の頃。疎開先の長野の国民学校で日本の終戦を知る。
大学に入るも放送作家の仕事が忙しくなり、講義の合間も執筆三昧。売れっ子になっていく。
『夢であいましょう』が始まった20代後半の頃。この番組から数々のヒット曲が生まれた。
同じく20代後半の頃。放送作家がテレビやラジオに出始めたのも、永さんが嚆矢だった。

歌手デビューの前から親交があり、永六輔さんの“弟子”を公言するさだまさしさんは、しみじみと振り返る。

「僕にとって永さんは、仕事や人生の目標ともいうべき大きな存在でした。作詞の面でいえば、例えば永さんが作詞した『遠くへ行きたい』(作曲・中村八大)。あれを超える旅の歌を作りたいと思うけれど、いつになってもかなわないでしょうね」

永さんは『上を向いて歩こう』(作曲・中村八大)や『見上げてごらん夜の星を』(作曲・いずみたく)など、数々の名曲の作詞を手掛けたが、作詞だけの人ではない。テレビ放送が始まった時代から放送にかかわった放送文化の開拓者であり、ラジオのパーソナリティを長く続け、歌もうたった。CMやテレビにもタレントとして登場し、ベストセラー作家でもあった。

「とにかく好奇心の塊の人なんです。肩書で行動するんじゃなくて、心の赴くままに行動する。つい先日お目にかかったと思ったら、その数日後に旅先から葉書が届くなんてことがしょっちゅうありました」(さださん)

ずっと背中を追い続けたい

さまざまな「言葉の名作」を作り出しては、世間を驚かせ続けた永さん。本誌にも時折、登場し、以下のような具合で、印象的な言葉を残している。

《僕が政治家なら思い切って暖かい沖縄に、高齢者のための巨大な医療施設を作ります。米軍の基地を利用しない手はありません。なんて言ったってジェット機の着く病院です。北海道からだってアジアからだってすぐです》(1997年1月1日号)

さださんはこう分析する。

「永さんの話は、幅が広く、教養も高く、洞察も鋭いから、いつ聞いても面白い。何より、何事も楽しく前向きに、決して愚痴を言わなかった。ご本人のパーキンソン病のことだって、本当は大変なはずなのに、そういう重い話も軽やかに笑いに変え、世間の関心を集めた。かと思えば、単なる笑い話かと思って聞いていると、どんどん教養深くなって、いつの間にか勉強させられている。あまりに先を行く“言葉の天才”ともいうべき存在だったけど、ずっと背中を追い続けたい」

永さんはこうも語っていた。

「(故人の遺志を)誰かが受け継いでいれば、その人は生きている」

さだ・まさし 長崎県生まれ。シンガーソングライター、小説家。永六輔さんとの親交は長く、没後に対談本も刊行している。新アルバム『孤悲』、新ライブアルバム『さだ丼~新自分風土記III~』が好評発売中。

【特別対談】コロナ禍とウクライナ問題 永六輔ならこう向き合う

“弟子と孫”が語る「言葉にすること」の重み

永さんとの対談を没後に刊行したさださんと、永さんの言葉を没後に一冊にまとめた孫の拓実さん。七回忌の今年7月、『永六輔 大遺言』を刊行したふたりが、改めて永さんの存在について語る。

永六輔さんの弟子を公言するさだまさしさんと、永さんの孫の永拓実さん(25歳、右)。「永六輔」という大きな存在をめぐり、ふたりの話は尽きることがなかった。

拓実 今年の7月で、祖父・永六輔の七回忌になります。

さだ もうそんなに経ちますか。つい昨日のことのようです。きっと永さんが近くにいるような気がしているからだろうな。

拓実 僕もそう思うことが多いです。ふとした拍子に祖父の存在を感じます。祖父にもっと話を聞いておけば良かったな、と思います。

さだ 永さんはみんなが忖度して口を閉ざすことだって、決して黙っちゃあいない。例えばウクライナ問題についても、言いたいことはあるだろうね。

拓実 ウクライナ問題には、祖父も心を痛めると思います。親交の深かった野坂昭如さんの「二度と餓えた子どもの顔は見たくない」という言葉が、祖父の反戦の思いの原点にありましたから。実際、ウクライナでは、小さな子どももたくさん犠牲になっています。

さだ とんでもない世の中になりました。だって、戦争の実況中継をテレビやユーチューブでやっているんですよ?

拓実 これが本当に現実に起きているのかと、たまにわからなくなります。日常になってしまうのが怖い。戦争という日常が当たり前になっていくというか。

さだ 戦争をこんなふうに消費していいのか、と思いますね。インターネットによって世の中は便利になったけれど、一方で、こんな事態も招いてしまうのか、と。永さんは、インターネットについては、何か言っていました?

拓実 祖父はパソコンもやりませんでしたし、スマホ以前に、携帯すら持っていない人だったんですけど、インターネットによって、無名の人が世界に発信できるようになった、ということを喜んではいました。

さだ 永さんらしい反応だなあ。さすが、無名の人の言葉を編集して『大往生』という大ベストセラーを世に送り出した人です。

亡くなった年の8月30日、永さんを偲しのび、『ばらえてぃ「永六輔を送りまSHOW」』が、東京・赤坂BLITZで、涙あり笑いありで開催された。中央にさださんの姿も。

深刻なことも“笑い”に変える

さだ 新型コロナのことも聞いてみたいけど、永さんが亡くなったのは2016年だから、コロナ騒動は知らずに逝ったわけだね。

拓実 語弊があるかもしれませんが、コロナ禍を経験しなかったことはある意味、祖父にとって幸せだったかもしれません。自由を制限されることをもっとも嫌っていましたから。行動制限なんてストレスだけだったと思います。でも、もしコロナ禍を経験していたら、きっと前代未聞の世の中を観察しながらいろいろな考えを巡らせ、思いもよらない観点で何か発言したんじゃないかと思います。

さだ コロナ禍では、困っている人や奮闘している人がたくさんいた。永さんならどう思ったかな。

拓実 コロナ禍でも、いろいろ工夫してがんばっている飲食店のニュースを見ました。そういうのを見ていて、きっと祖父なら、こうした「工夫」に目を向けるんじゃないかと思いました。

さだ なるほど、「あいつはマスクをしてない!」と叩くんじゃなくて、「あそこはがんばっている」というところに着目する。

拓実 祖父は、深刻に何かを訴えるというよりも、「笑い」を交えて表現することを大事にしていました。たいへんなことには変わりありませんが、叩いたり嘆いたりするだけでは、笑いは生まれませんから。

さだ そうだね、永さんの「面白がる」ってそういうことかもしれない。今の時代だからこそ、永さんの生き方を真似したいね。

64歳の永さん。この頃も、全国各地を飛び回っていた。その忙しい合間を縫って、孫の拓実さんを自転車に乗せ、軽やかに家の近所を走る。

『永六輔 大遺言』

さだまさし、永拓実/著
小学館文庫 368ページ 836円

「活躍の根底にあるのは言葉だった」(黒柳徹子さん)
「自由に自分を生かすことを学んだ」(久米 宏さん)
「発想力と知恵にいつも驚かされる」(タモリさん)
――著名人たちの反響も続々

『大往生』『上を向いて歩こう』など、国民的なヒットを生み続けた永六輔さんが亡くなって6年。最後の対談相手に指名されたさだまさしと、没後に1年かけて祖父の足跡を辿りその功績を一冊にまとめた孫の永拓実。永さんの薫陶を受けた“弟子と孫”が、七回忌に改めて「永六輔の今に生きる言葉」を発信。仕事や人間関係、生きがい、老い、病などの悩みを解決するヒントになる、永六輔流の知恵とユーモアが満載。

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取材・文/角山祥道 撮影/横田紋子
※この記事は『サライ』本誌2022年8月号より転載しました。

 

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