はじめに-清水宗治とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する清水宗治(しみず・むねはる)は、備中(現在の岡山県西部)高松城の城主として知られる戦国武将です。羽柴秀吉(はしば・ひでよし、演:池松壮亮)による「高松城水攻め」の中で最後まで城を守り、城兵の助命と引き換えに自ら命を絶った人物として、後世に強い印象を残しました。
主家への忠義を守りながら、籠城する兵たちを救うため、自ら切腹を受け入れた決断は、今なお語り継がれています。
この記事では、清水宗治が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。『豊臣兄弟!』では、難攻不落の城の城主として描かれます。

清水宗治が生きた時代
清水宗治が生きた16世紀後半は、織田信長が勢力を大きく広げ、西国では毛利氏がなお強大な力を保っていた時代でした。中国地方は、信長方と毛利方が真正面からぶつかる、きわめて緊張した地域だったのです。
備中は、その境目にあたる重要な土地でした。各地の国衆や城主たちは、どちらに味方するかによって命運を左右される立場に置かれていました。宗治もまた、そうした乱世の只中で高松城を守る武将の一人でした。
清水宗治の生涯と主な出来事
清水宗治の生年は天文6年(1537)、天正10年(1582)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
備中の武将として頭角を現す
清水宗治は、天文6年(1537)に生まれました。通称は長左衛門、はじめは才太郎と称したといいます。
かつては備中国賀陽郡幸山に拠り、備中国沖郡の旗頭である石川久孝(いしかわ・ひさたか)の幕下に属していました。宗治は久孝の娘を妻に迎え、長谷川氏・鳥越氏らとともに行動していたとされます。
ところが、久孝とその跡継ぎが相次いで亡くなり、城主をめぐる争いが起こります。『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、長谷川氏が高松城主になろうとしたのに対し、宗治はこれを城中で倒し、自ら高松城主となったといいます。乱世らしい激しい権力争いの中で、宗治はみずから城主の座をつかみ取ったのです。

毛利方の武将として高松城を守る
その後、宗治は小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)の下に属し、毛利方の武将として働くようになります。宗治の働きによって備中国奥郡も毛利支配下に入り、その押さえとして穂田元清が猿懸城に置かれる一方、宗治は引き続き高松城を任されました。

秀吉の誘いを拒み、毛利への忠義を貫く
天正10年(1582)4月、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国経略を進めて岡山に至ると、宗治のもとにも転機が訪れます。

秀吉は蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)と黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)を使者として送り、信長方に属して中国攻めの先鋒になれば、備中・備後(現在の広島県東部)を与えるという誓紙を示して内応を勧めました。

しかし宗治は、これを断ります。さらに、その誓紙を毛利方へ届けたといいます。
この場面は、宗治が最後まで毛利方としての立場を崩さなかったことをよく示しています。損得だけを考えれば織田方に転じる道もあったはずですが、宗治はそうしませんでした。
この判断が、のちの高松城籠城戦へとつながっていきます。
高松城水攻めに抗する
秀吉は備中への進攻を進め、毛利軍が備前と備中の国境に位置する防衛線として強化した「境目七城」と呼ばれるうちの宮路山城や冠山城などを落としたのち、高松城を攻囲しました。城内には清水氏・中島氏・林氏らの軍勢6千、さらに百姓5百余が籠っていたと伝えられます。
秀吉は当初、力攻めで高松城を落とそうとしました。しかし、高松城は周囲を沼沢地に囲まれた要害でした。さらに北に龍王山、西に足守川があり、天然の地形を生かした守りの堅い城高松城にはうまくいきませんでした。そこで採ったのが、有名な「高松城水攻め」です。
約3万の兵を持つ秀吉軍は、5月7日に蛙ヶ鼻へ本陣を移し、長さ約2.6キロメートルに及ぶ堤を築き、足守川をせき止めて城の周囲に水を流し込みました。

高松城はもともと低湿地に築かれた城でした。その地形を逆手に取った黒田官兵衛の進言による作戦だといわれています。それにより、城は水中で孤立。宗治はこの過酷な状況の中でも、毛利方の援軍を信じて抗戦を続けました。
毛利方は来援するも、城は救えず…
高松城が水没の危機に瀕する中、毛利方も1万の兵を率いて救援に動きます。しかし、秀吉方の守りは厳重で、毛利軍は城を救い出すことができませんでした。敵味方の大軍がにらみ合う中、高松城だけが水の中に取り残されるような形になっていったのです。
毛利方は講和を模索し、安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)を使者として秀吉との交渉にあたらせました。ところが、その最中に本能寺の変が起き、信長が討たれるという事態が発生します。

本能寺の変の陰で、自刃を決意する
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起こります。しかし秀吉はその報を秘したまま、毛利方との講和を急ぎました。いまここで講和をまとめ、ただちに軍を返して明智光秀を討つ必要があったからです。
秀吉は毛利軍に対し、「3日中に和睦を結べば領地については譲歩し、宗治の首を差し出せば城兵を助ける」という和睦案を提示します。このことを伝え聞いた宗治は、独断で自らの切腹と引き換えに城兵の救命を申し出るのです。
宗治は人質となっていた息子の景治に辞世の和歌三首を遺し、秀吉から送られた酒肴で最期の盃を交わしました。そして天正10年(1582)6月4日、兄の月清入道、さらに隆景からの検使である末近信賀とともに自刃しました。46歳でした。


3行の遺言
死の前日、宗治は息子に遺言をしたためました。戦国武将の生き方と親としての教えを伝えているので、ご紹介しましょう。
身持ちの事
清水宗治書状(光市文化センター寄託)
恩を知り 慈悲正直にねがいなく 辛労気尽し 天に任せよ
朝起きや上意算用武具普請 人を遣ひてことをつつしめ
談合や公事と書状と異議法度 酒と女に心みたすな
六月三日 清鏡宗心
これは戦国武将の生き方と親としての教えを伝えるものです。「恩義や思いやり、正直さを大切にし、仕事は勤勉かつ慎重に行い、欲望に流されず身を正せ」ということを伝えたかったのだと解釈できます。武士の生活訓であると同時に、現代にも通じる処世訓だといえるでしょう。
まとめ
清水宗治は、備中高松城の城主として毛利方を支え、羽柴秀吉の大軍に対して最後まで抗戦した武将でした。秀吉からの誘いを退けて毛利への忠義を貫き、高松城水攻めの中でも城を守り続けた姿は、戦国武将らしい気骨を感じさせます。
しかし、宗治が後世、特に高く評価されるのは、その最期にあります。自ら切腹することで講和を成立させ、城兵の命を救った決断は、主君と部下のために自分の命を差し出した行為でした。
秀吉にとっても、宗治はただの敵将ではなかったのでしょう。最期の酒肴が送られ、「武士の鑑(かがみ)だ」と賛辞を送ったという話からは、敵味方を超えて宗治の覚悟が重く受け止められていたことが感じられます。
高松城水攻めは、本能寺の変と中国大返しへとつながる歴史的事件として有名ですが、その中心にいたのが清水宗治でした。戦国の世において、最後まで筋を通し、城兵を救うために散った武将として、宗治は今なお強い印象を残しています。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)
備中高松城址資料館の掲示物











