文/敦賀市文化振興課 藤田裕介

処刑の地に位置する国史跡武田耕雲斎等墓

大河ドラマ『青天を衝け』でも描かれた「天狗党の最期」。処刑の地・敦賀(福井県)では150年以上にわたって地元の方々によって天狗党慰霊の行事が続けられている。敦賀市文化振興課の藤田裕介氏がリポートする。

* * *

尊王攘夷の志を掲げ、筑波山で挙兵した天狗党は、一橋慶喜を通じて朝廷に素志を伝えるため、京都を目指すが、敦賀の地で悲劇的な最期を遂げる。

NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、天狗党が敦賀で陣を構えているところに一橋家家臣の渋沢喜作(演・高良健吾)が武田耕雲斎(演・津田寛治)と藤田小四郎(演・藤原季節)に密書を届け、降伏を促す様子や耕雲斎が斬首される場面が描かれたが、その後、彼らの死がどのように扱われ、受け止められたのかは、ほとんど知られていない。

ここでは、敦賀における天狗党のその後を紹介したい。

幕末における天狗党の供養と埋葬地の修築

降伏後の天狗党は、追討軍の先鋒であった加賀藩により本勝寺・本妙寺・長遠寺(元町)の3か寺に収容され、丁重な扱いを受ける。しかし、元治2年(1865)1月29日に、幕府軍に身柄が引き渡されると鯡肥料を保管していた荷蔵16棟に移され、劣悪な環境下で拘束されることになり、扱いが一変する。

その後、天狗党353名は5日に分けて斬首される。この処刑の地が、国史跡武田耕雲斎等墓が位置する来迎寺野と呼ばれた場所である。処刑の度に穴を掘り遺体を埋葬したため、5つの塚となったとされる。

では、このような悲劇的な最期を迎えた天狗党と、敦賀の人々はどのように向き合ったのか。特に興味深いのが、敦賀の各寺院による供養の申し出である。

天狗党を収容した3か寺や加賀藩の本陣となった祐光寺、後に天狗党に従軍していた子どもを引き取った永厳寺(金ヶ崎町)など約14か寺が、埋葬地に供養に訪れる者が誰もいないことを不憫に思い、法要の実施を願い出ているのである。

しかし、降伏後の天狗党は、世を乱した罪人として処刑されたため、表立った法要は困難であったと思われる。実際に、寺院から天狗党の法要を希望する書状を受け取っていた敦賀奉行所は、幕府に判断を仰いでいるが、幕府の回答は表向き天狗党の供養を聞き届けることは難しいため、実施するならば、現地の判断で勝手に行なうようにとするもので、幕府側は関与しない姿勢をとっている。

これを受け、各寺院は、3月4日と4月15日に5つの塚の前で法要を行い、両日とも多くの人々が供養に訪れていたという。

また、翌年の慶応2年(1866)頃には、同じく敦賀の寺院が中心となり、5か所に分かれていた土塚を1か所に集約し、松の木を植えるなどの修築を行なった。また、墳墓には天狗党を弔う人々や墳墓で祈れば願いが叶うという噂を信じて参拝する者などで溢れていたと、敦賀に訪れていた薩摩藩士の記録では述べられている。(『汾陽光遠越航日記』慶応2年3月2日条/鹿児島県立図書館蔵)

明治以降に行なわれた墳墓修築の動き

大政奉還以後、新政府に政権が移譲される中で、慶応4年(1868)には、戊辰戦争への対応のため敦賀に滞在していた北陸鎮撫総督の高倉永祜(たかくらながさち)が、敦賀の浄蓮寺(元町)と永覚寺(金ヶ崎町)に対して、天狗党の永代供養と墳墓修築を命じ、明治元年(1868)9月に15基の墓石を備えた墓地へと修築されている。

新政府の意図は不明だが、勤王の志士を顕彰する側面があったのではないかと考えられる。翌年に来迎寺(敦賀市松島町)で行われた法要には、前回と同様に大勢の敦賀の人々が参拝に訪れていたという。

水戸烈士墳墓立体図(敦賀市立博物館蔵)。明治元年当初の墓石はコの字に配置されていた

その後、明治18年(1885)に墳墓は東向きから西向きに修築され、大正3年(1914)には、敦賀町の片山政治郎(元福井県会議員)が発起人となり大規模な修築が行われた。

墓石の並びをコの字型から現在の前列8基、後列7基の2列に変更し、石玉垣が増築される。この修築には、幕末当時に天狗党と関わりのあった前田侯爵家(旧加賀藩主)、松平侯爵家(旧福井藩主)、酒井伯爵家(旧小浜藩主)や旧水戸藩士の香川伯爵家、そして一橋慶喜率いる追討軍に参加していた渋沢栄一(渋沢男爵家)が寄附を行なっている。

武田耕雲斎等墓に建てられている紀功碑。「渋澤男爵家」の文字が見える

敦賀で受け継がれる慰霊

敦賀の各寺院を中心とした天狗党の供養の動きは、松原神社例祭というかたちで引き継がれる。

明治8年(1875)、旧水戸藩士の根本彌七郎らと敦賀の修験であった行壽院俊三によって武田耕雲斎ら天狗党を祀る松原神社が創建される。

例祭は、明治天皇が北陸地方を巡行していた明治11年(1878)10月10日に、祭祀料500円の下賜を受けたことを記念して、毎年10月10日に行なわれることになる。例祭には、敦賀の人々だけでなく、天狗党の遺族や水戸の関係者も参加しており、より多くの人々によって慰霊が行なわれている。

敦賀の地で悲劇の死を遂げた天狗党は、処刑直後から敦賀の寺院により供養され、現在も敦賀の人々によって絶え間なく慰霊の営みが続けられている。

敦賀市には、天狗党を物語る史跡や建造物が多く残っている。彼らの足跡を辿ることで、天狗党の最期に思いを馳せてはいかがだろうか。

参考文献
川瀬教文『波山始末』伊藤岩治郎、1899
山本元『武田耕雲斎等墓に関する調査』敦賀史蹟保存会、1936
若狭路文化研究会編刊『水戸天狗党敦賀関係史料』第12 集、2014

文/敦賀市文化振興課 藤田裕介

 

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