文/濱田浩一郎

豊臣秀吉(1537〜1598)は、少年期に父・弥右衛門と死別します。江戸時代初期に成立した『太閤素生記』によると、天文20年(1551)に秀吉は出生地の尾張国中村(名古屋市中村区)を出たとのことです。その時、秀吉が所持していたのは、父・弥右衛門の遺産(一貫文)の一部だったとされます。
同書では、その後、秀吉は針売りとなり、東海地方を放浪したと記されているのです。イエズス会の報告書など海外の書物では、秀吉は薪を扱う仕事(薪売りなど)をしていたと書かれています。どちらが正しいのか判別する手段はありませんが、若い頃の秀吉が様々な仕事をこなしていた可能性もあるでしょう。
ちなみに、有名な『太閤記』においては、秀吉は諸国を放浪していたと書かれてはいますが、「人の奴婢たらむ事を要とし」とあるのみで、その際の具体的な仕事については記載されていません。ただし、主人に仕えて何らかの作業に従事していたであろうことは想像できます。
さて『太閤素生記』には「垢が付いた白い木綿」の衣服を着た秀吉が行商で訪れたのが、遠江国浜松とあります。当時、浜松の城主は、今川氏に仕えていた飯尾氏(飯尾豊前)でした。浜松の近隣に久能(久野)というところがあり、そこの小城の城主が松下加兵衛という武将だったのです(加兵衛は飯尾氏の配下だったと考えられています)。同書によると、この加兵衛が久能から浜松に行く途次に「猿」を見付けたとあります。もちろん、この「猿」というのは、秀吉のことです。加兵衛には秀吉が「猿かと思えば人、人かと思えば猿」のように見えたとのこと。
「異形」(普通と違った姿)の男に興味を持った加兵衛は「どこの国から来た何者ぞ」と家臣をして問わせます。するとその猿のような男は「私は尾張国より来ました」と答えたと言います。再度の質問は「このような遠くまで、なぜやって来たのか」というものでした。その質問に対し、秀吉は「奉公を望んで来ました」と答えます。回答を聞いた加兵衛は、笑いながら「私に仕えるか」と尋ねたようです。秀吉に拒否する理由はありません。願ってもないチャンスと思ったことでしょう。
加兵衛は、秀吉をそのまま浜松に連れて行きます。そして、飯尾豊前に「道において異形なる者を見付けました。猿かと思えば人、人かと思えば猿のような者でございます。ご覧あれ」と言い、秀吉と面会させるのです。豊前の幼い娘などは秀吉の姿形に興味津々。豊前の側にいた者は、秀吉の姿を見て、笑ったということです。皮の付いた栗を取り出して、皮を口で剥く仕草は、猿そっくりであったと『太閤素生記』は記します。秀吉はその剽軽な顔立ちから、皆に愛され、人気者になったようです。
沐浴をさせてもらい、小袖や絹紬の衣装、袴などを着せてもらうと、秀吉の姿形はそれまでと一変。「清らか」なものとなったのでした。ひょんなことから松下加兵衛に仕えることになった秀吉。最初は草履取りをしていたとのこと。加兵衛のお気に入りとなった秀吉は、主人から御用を言い付けられることもあったようですが、1つとして加兵衛が不満に思うようなことはなかったと言います。つまり、それほど働き振りが良かったということです。
さらに加兵衛は、納戸(衣類・家財などをしまっておく部屋)の出し入れまで秀吉に命じるのでした。納戸役に抜擢されたのです。それほど、秀吉を信用していたということです。ところが、加兵衛に気に入られていく秀吉を快く思わない者たちがいました。秀吉より先に加兵衛に仕えていた小姓らでした。小姓たちは「部屋から様々な物(小刀・印籠・巾着・鼻紙など)が無くなった」と言っては「猿(秀吉)が盗んだ」と騒いだのです。小姓たちには、秀吉に対する嫉妬の感情が渦巻いていたのでしょう。
松下加兵衛は、慈悲深い人でしたので、針の筵(むしろ)の中に秀吉を置いておくことはできないと考えたようです。そして「本国へ帰れ」と銭を与えて、暇を出したのでした。ちなみに『太閤記』にも、秀吉は遠江国の住人・松下加兵衛尉に仕えていたとあります。しかし、秀吉がこの松下加兵衛に仕えていたことは疑わしいとの説もあるのです。理由の1つは、松下氏は久野の城主ではなく、頭陀寺城(浜松市)の城主であったこと。理由の2つ目は、松下加兵衛之綱は秀吉と同い年(15歳)であったことなどに拠ります。よって秀吉が仕えていたのは、之綱ではなく、その父・長則ではないかとする見解があるのです。之綱は天正18年(1590)、秀吉から久野(静岡県袋井市)1万6千石を与えられますが、これは秀吉から松下氏への恩返しと考えられています。
【主要参考文献一覧】
・渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013年)
・柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下一統』(NHK出版、2025年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)
文/濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)

兵庫県相生市出身。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師、大阪観光大学観光学研究所客員研究員を歴任。現在、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。
著書『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『中学生からの超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)その他多数。











