天文18年(1549)にザビエルがキリスト教を伝えて以来、多くの日本人が海を渡った。信仰を守るために故郷を捨てたのだ。彼らにとって、信じることが生きることだった。大航海時代に翻弄されつつ生き抜いた日本キリシタン。長崎からマカオへとその足跡を辿る。
【五島列島(長崎県)】
天主堂は、海を渡ったキリシタンの記念碑
長崎本土の西に、大小140余りの島が連なる五島列島。古くは遣唐使船の寄港地で、空海もここから唐へ旅立った。12世紀に平清盛が開いた日宋貿易の拠点ともなった。大陸への玄関口だったのだ。
五島にキリスト教が伝わったのは永禄9年(1566)。ザビエルの鹿児島上陸からわずか17年後のことだ。領主の保護もあって瞬く間に信者は増え、教会も建った。
だが、徳川幕府の下で弾圧が本格化。18世紀に入る頃、五島のキリシタンは壊滅したという。
3000人の大移住
五島最大の島、福江島の隣に浮かぶ久賀島。静かな海辺に木造瓦屋根の旧五輪教会が佇む。創建は明治14年(1881)で、日本に現存する教会建築としては、大浦天主堂(長崎市)に次いで古い。
「建てたのは久賀島の4人の船大工。2年前に完成していた大浦天主堂を見学して、見よう見まねでしょう。聖体拝領台の意匠は大浦とほぼ同じ。船大工だから木を曲げるのは得意だったと思います」
そう教えてくれたのは長崎巡礼センターのガイド・山下博美さん(68歳)。静かに手を合わせていると、波の音が堂内に優しく響く。
現在、五島列島には50を超える教会建築があり、4つは世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に含まれる。キリシタンがいなくなった五島に、なぜこれほど多くの教会が存在するのか。
18世紀に入り、五島藩では災害や疫病で人口が減って農業が立ちゆかなくなる。いっぽう長崎本土の大村藩は、潜伏キリシタンの処遇に頭を悩ませていた。両藩の思惑が一致して寛政8年(1796)、「千人もらい」の密約が成立。本土から五島に、約3000ともいわれる人々が移住した。大半が外海地方の潜伏キリシタンだった。
外海は遠藤周作の小説『沈黙』の舞台で、五島灘をはさんで五島と向き合う。大村城下からは交通不便で監視が行き届かず、キリシタンが多数潜伏していた。
「外海は山がちの痩せ地。極度の貧困から逃れるため、キリシタンはみな五島へ行きたがりました。ところが来てみると、米麦に適した平地や漁業に適した港には仏教徒が暮らしている。キリシタンは急峻な斜面や漁に不向きな海辺に居付き、あばら家で耐えるしかなかったのです」(山下さん)
明治6年(1873)のキリスト教解禁以降、キリシタンは雪崩を打って信仰を告白し、自分たちの集落に天主堂を建てた。険しい斜面や波をかぶりそうな海際に多いのは、かつてそこにキリシタンが潜伏していた証だ。
五島の教会群は、250年にわたる禁教下を生きたキリシタンの苦しみと、解放された喜びの記念碑。自らの信条を貫き、生き抜くことの美しさを教えてくれる。
世界遺産を巡る日帰りクルーズ
旧五輪教会を訪ねるには福江港発着のガイド付きツアー「五島列島キリシタン物語 久賀島・奈留島編」がお奨め。同じく世界遺産を構成する江上天主堂(奈留島)にも立ち寄る。昼食付き1名1万2000円(3日前までに要予約)。問い合わせ:五島市観光協会 電話:0959・72・2963
【五島列島】19歳で殉教、遺骨となってマカオへ渡る
“ヨハネ五島”の数奇な運命
慶長2年(1597)2月5日、今の長崎駅にほど近い西坂の丘で、スペイン人らを含む26名のキリシタンが、秀吉の命で磔刑に処された。最高権力者による処刑は、西欧に大きな衝撃を与えた。
この26名は後年、カトリックの聖人に列せられたが、そのひとりにヨハネ五島がいる。五島のキリシタンの家に生まれ、幼い頃、キリシタン迫害に転じた五島から一家で長崎へ移住。スペイン人のモレホン神父に随行して大坂に滞在中、神父の身代わりとなって捕らえられ、長崎に送られた。処刑の直前にイエズス会に入会している。前出の山下さんは言う。
「処刑の日、面会に来た父に“神の教えを信じ、怠りなく神にお仕えください”と言って自分のロザリオを渡したそうです」
わずか19年の生涯だった。
殉教者の遺骨は80日もの間放置され、烏についばまれて散逸しかけた。それを宣教師らが集めてマカオへ送った。ヨハネ五島の遺骨は、彼に命を救われてマカオへ戻っていたモレホン神父と、奇跡の再会を果たす──そんな物語が伝わっている。
「26聖人の遺骨のその後についてはさまざまな説があり、はっきりしません。でも事実はともかく、ヨハネ五島のものとされる遺骨が400年以上も守り伝えられてきたことに、意義があるのではないでしょうか」(山下さん)
件の遺骨はマカオからマニラへ送られたのち、昭和38年、長崎に「帰国」を果たす。
信じることは、生きること
福江島の堂崎天主堂は、ヨハネ五島ら26聖人に捧げられた教会だ。煉瓦造りの堂々たる建築は明治41年(1908)竣工。内部はキリシタン受難の歴史を伝える資料館となっている。宗門改めに用いた踏絵のレプリカや潜伏期のマリア観音から、素朴だが揺るぎない信仰の姿が伝わってくる。
五島でのキリシタン迫害は幕末・維新期に激化し、凄惨な拷問で多くの殉教者を出した。棄教すれば助かるのに、なぜ信仰を貫いたのだろう。山下さんは言う。
「この世は涙の谷である、神の国では永遠に楽しく生きられる──神父はそう説きました。貧困のどん底にあった五島のキリシタンたちは、神の国を信じるほかなかったのです」
彼らにとっては、信じることこそが、生きることだったのだ。
【食】製麵所直送の五島うどん
五島は手延べうどんの名産地で、遣唐使が中国から伝えたとされる。当店は製麺所直営。写真はアゴ主体のつゆでいただく「地獄炊き」2人前1040円。他にかけ330円、地魚天120円など。
【泊】6月開業、五島の幸でおもてなし
海の青と椿の赤。五島を表す2色で旅人を出迎える新規開業のホテル。ステンドグラスや染そめ付つけのタイル装飾が、マカオとの縁の深さを彷彿させる。
【買】キリシタンの芋を焼酎に
キリシタンは斜面に薩摩芋を植えて飢えをしのいだ。甘みの強いこの芋を焼酎にした「五島芋」(左)。焼き芋の香りと優しい甘みが特徴。900ml箱入り1467円。右は五島産の椿酵母を使った麦焼酎「五島椿」500ml 1100円。原料はすべて五島産。問い合わせ:五島列島酒造 電話:0959・84・3300
●巡礼ガイド問い合わせ先/長崎巡礼センター電話:095・893・8763
提供/長崎県観光連盟
【マカオ】故郷を捨ててまで信仰に生きた日本人たち
キリシタンの痕跡をマカオに訪ねる
中国広東省南部、南シナ海に面するマカオ。16世紀にポルトガルの拠点となり、宣教師の大半はマカオから来日した。日本が禁教へ転じると、今度は日本キリシタンがマカオへ逃れてくる。
秀吉、家康、家光と、日本ではキリシタンへの迫害が徹底され、多くの殉教者、棄教者を出した。生きて信仰を守る人々は仏教徒に擬して「潜伏キリシタン」となったが、宣教師らとともに国外へ脱出した者もいる。その行き先が、中国広東省南部のマカオだった。
マカオの象徴ともいえる聖ポール天主堂跡。観光客でにぎわう巨大なファサード(建物正面)の裏に、地下納骨堂がある。入口に掲げられているのは、ここに埋葬された日本殉教者59人の名簿。日本語で姓名と殉教地が記してある。マカオで亡くなったのは1名のみ。ほかは長崎、熊本など日本で殉教している。遺骨となって海を渡ったのは、ヨハネ五島だけではなかったのだ。
天主堂設計者も日本で殉教
禁教下の日本から、生きてマカオに渡った人々もいる。聖ポール天主堂の裏にはかつて日本人街があり、最大約300名が暮らしたという。彼らの一部は天主堂ファサードの彫刻に携わったと伝わる。
1630年代、長崎に出島が築かれると同時に、日本人女性との間に生まれた子女287名がマカオへ追放されており、300という数字は誇張ではなさそうだ。天主堂に近い繁華街の一角には「ミソ」(味噌)の名を冠した通りもある。日本のキリシタンはマカオでも味噌を醸し、南シナ海の幸で味噌汁を作ったのだろう。
聖ポール天主堂と日本のかかわりはこれだけではない。天主堂を設計したイエズス会士のカルロ・スピノラは、1602年に来日。禁教令ののちも長崎に潜伏し、1622年に火刑に処されている。
聖ポール天主堂を含むポルトガル統治時代の遺構は2005年、「マカオ歴史市街地区」として世界遺産に登録された。その“歴史”には、日本とキリシタンの痕跡が克明に刻み込まれている。
【マカオ】今なお香る大航海時代の息吹
壮麗な建築群は、日本の銀で造られた
マカオは対岸の香港と同様、中華人民共和国の特別行政区だが、1999年まではポルトガルが統治していた。ポルトガルはなぜ、地球の裏側までやって来たのか。
1492年、スペインの援助を受けたコロンブスが西廻り航路で新大陸を発見、大航海時代が始まる。1498年にはポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが、喜望峰を越える東廻りインド航路を開拓。両国とも、イスラム商人が独占するインド方面産の香辛料を求めての行動だった。
ポルトガルはインド西海岸のゴアを占拠して胡椒を入手。さらにクローブ(丁字)やシナモン(肉桂)を求めて東南アジアのマラッカへ進出する。次いで目をつけたのが中国( 明)のシルクと美しい染付磁器だった。思想家の渡辺京二さんは『バテレンの世紀』の中で、この段階まで《彼らの眼中には日本はなかった》と指摘している。
しかしポルトガルは、明との交易を拒まれる。明が鎖国政策を取っていたためだ。反面、密貿易は盛んで倭寇(中国の海商が主体)が席巻し、九州には年間数百隻の中国船が来航していた。ポルトガル商人は倭寇の中国船に便乗して細々と商売するうち、《日本を発見》する(渡辺京二・前掲書)。
16世紀半ば、明は取り締まりを強化し、中国沿岸の倭寇の拠点を壊滅させた。空白となった東シナ海に、ポルトガルだけが残った。
日本の銀が世界へ流通
日本は戦国時代。諸大名が富国強兵に励み、石見銀山(島根県)は最盛期を迎えていた。ポルトガル商人は、日本銀が世界相場に比して圧倒的に安いことを知り、倭寇が退場した東シナ海で、日本銀と中国シルクの仲介貿易を始める。当時の日本は生糸を中国に頼っていた。国内産業として勃興するのは江戸幕府の鎖国政策以降である。
中国でシルクを買い付け、長崎で銀と交換。その銀を中国に持っていくと、前回の何倍ものシルクが手に入る。この仲立ちは莫大な利益をもたらし、ポルトガル商人を通じて大量の日本銀が流出。世界流通量の3分の1を占めるまでになる。この収益がイエズス会を支え、マカオに壮麗な教会群を現出させた。石見銀山が世界遺産に登録されたのも、ポルトガルのおかげである。
以後、マカオはポルトガルとイエズス会の貿易・布教の拠点として発展。ローマ法王に謁見した天正遣欧少年使節もその行き帰り、風を待って長くマカオに留まった。マカオ市街を歩けば、戦国日本を巻き込んだ大航海時代の息吹を随所に感じられる。
【食】マカオ名物「カレーおでん」
セナド広場に通じる大堂巷は通称「おでん横丁」。魚のつみれや牛モツを、牛出汁の効いたピリ辛のカレーソースで供する露店が並ぶ。べらぼうに美味い。カレーソースがなぜマカオ名物になったのかは次の“【マカオ】塩蔵タラとアジアのスパイス、南シナ海の海鮮が出会う 舌で味わう大航海時代の記憶”参照。
【マカオ】塩蔵タラとアジアのスパイス、南シナ海の海鮮が出会う
舌で味わう大航海時代の記憶
●マカオ料理
長らくポルトガル統治下にあったマカオには、ポルトガル系のレストランが多くある。本国と異なるのは、ひと皿ごとに大航海時代の記憶が埋め込まれていることだ。
かつて、東洋をめざしてポルトガルを出る船には、保存食として大西洋のタラの塩漬けや、新大陸から伝わったジャガイモなどの根菜類が積み込まれた。航海には年単位の月日がかかる。アフリカ東海岸のモザンビークでは鶏を仕入れ、インドのゴアでは胡椒やターメリック、マラッカではココナッツやクローブ、シナモンを積んでマカオに向かった。寄港先では新たに船員も雇い入れており、船内ではアフリカ、アジアのさまざまな言葉が飛び交っていただろう。
各地の多様な食材と文化が、南シナ海の豊富な魚介類と出会い、マカオ独自の料理を発展させた。だからひとくちにポルトガル系といっても、本国に近いものから、中国や東南アジアの影響が強いものまでさまざま。ココナッツミルク入りのカレーを出すポルトガル料理店も珍しくない。
マカオに住み着いたポルトガル人の末裔を「マカエンセ」と呼ぶ。旧花街の福隆新街にある『老地方』のオーナーシェフ、アンナさんもそのひとり。代々マカオで暮らすうち、アジアの食文化が取り込まれ、ポルトガル料理と一線を画す「マカオ料理」が生まれた。
「母から受け継いだレシピで作っています。マカオ料理はあくまで家庭料理。家ごとに味が違うんですよ」(アンナさん)
豚の挽肉を卵やジャガイモと炒めた「ミンチィ」はマカオ料理の大定番。ご飯にのせれば主食になるため、子だくさんの家庭で重宝された。食パンに海老と豚のすり身をのせて揚げた「蝦多士(ハトシ)」は、名前も中身も長崎名物の「ハトシ」とほぼ同じだ。
「今は息子にレシピを教えているんです」とアンナさん。マカエンセは、マカオの人口のわずか1%とされる。世界に類のないこの食文化が、次世代へ受け継がれることを願ってマカオを発った。
響き合う長崎とマカオ
長崎とマカオは、似ている。マカオ名物エッグタルトとカステラは、ともにポルトガルの影響で生まれたお菓子。坂の多いところ、見晴らしのきく丘に砦や屋敷(長崎ならグラバー邸)があるところ、『三国志』の英雄・関羽を祀る関帝廟が多いのも同じ。ともに夜景が美しく、中国料理が名物だ。
双方に通底するのは、大航海時代が生んだ、類稀な世界混淆の文化。両地を旅すれば、人類の営みの壮大さを体感できる。
●ポルトガル料理
本国に近い料理を供する『アルベルゲ1601』。手前はダックライス。家鴨を丸ごと煮出したスープで米を炊き、ほぐし身と合わせたもの。奥はピリピリ・チキン。グリルした手羽に唐辛子ソースを添える。ピリピリはスワヒリ語で唐辛子のこと。ポルトガル船がモザンビークに寄港した際に仕入れた言葉か。ワインはポルトガル特産の「ヴィーニョ・ヴェルデ」。未熟な緑色の葡萄から造り、アルコール度数10%前後。微発泡で酸が立つ。冷やすほど美味しく、湿度の高いマカオにぴったり。
【買】お土産にはワインを
酒税がないマカオのお土産は、ポルトガル・ワインがお奨め。左は入手しやすい「アヴェレーダ」のヴィーニョ・ヴェルデ。右2本は日本ではあまり見かけない濃厚な赤ワイン。
参考文献/本間貞夫「キリシタンの里」(東京新聞連載)
取材・文/小坂眞吾(本誌) 撮影/横田紋子(長崎)、小倉雄一郎(マカオ)
提供/マカオ政府観光局
※この記事は『サライ』本誌2019年10月号より転載しました。