
はじめに-筒井定次とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する筒井定次(つつい・さだつぐ、演:貴堂寛之)は、筒井順慶(つつい・じゅんけい、演:永沼伊久也)の養子として筒井家を継ぎ、豊臣秀吉(演:池松壮亮)の時代には伊賀(現在の三重県西部)上野を中心に20万石を領した大名です。
秀吉から「羽柴」の姓を与えられ、関白拝賀にも供奉するなど、豊臣政権下で一定の地位を築きました。一方、文禄元年(1592)の朝鮮出兵では肥前(現在の佐賀県及び壱岐・対馬を除く長崎県)名護屋城に駐屯し、その間に長崎へ赴いてキリスト教の洗礼を受けています。
関ヶ原の戦いでは徳川家康(演:松下洸平)に従い、戦後も所領を安堵されました。ところが慶長13年(1608)、家臣から不行跡を訴えられて改易…。
豊臣から徳川へと天下が移る中、大名から流転の身となった筒井定次。その波乱に満ちた生涯をたどります。
『豊臣兄弟!』では、秀吉による領地配分で、伊賀国へ国替えされる人物として描かれます。

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筒井定次が生きた時代
筒井定次が生きた16世紀後半から17世紀初頭は、戦国の争乱が終わり、全国を支配する統一政権が形づくられていった時代です。
織田信長が勢力を広げた後、豊臣秀吉が天下統一を進め、大名たちは領地替えや軍役、朝鮮出兵などを通じて中央政権の統制を強く受けるようになりました。
さらに秀吉の死後は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを経て徳川家康が主導権を握り、慶長8年(1603)には江戸幕府を開きます。
定次が生きたのは、戦国大名が独自に争う時代から、豊臣・徳川による全国統治の時代へと大きく移り変わる時期だったのです。
筒井定次の生涯と主な出来事
筒井定次の生年は永禄5年(1562)、慶長20年(1615)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
慈明寺氏に生まれ、筒井順慶の養子となる
筒井定次は、永禄5年(1562)、大和国慈明寺城に生まれました。父は慈明寺順国です。本姓は慈明寺で、幼名を四郎といいました。
元亀3年(1572)、10歳ほどのころ、従兄にあたる筒井順慶の養子となります。
順慶は大和を代表する武将で、のちに織田信長に従い、大和郡山城を本拠としました。実子に恵まれなかった順慶にとって、定次は筒井氏の家督を継ぐ存在となったのです。
天正12年(1584)に順慶が死去すると、定次はその遺領を継承し、大和郡山城主となりました。

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大和から伊賀へ…20万石の大名となる
翌天正13年(1585)、定次は大和を離れ、伊賀上野城へ移りました。
『新カトリック大事典』(研究社)によると、伊賀に加え、山城(現在の京都府南部)、伊勢(現在の三重県東部)の一部8万石を加えられ、合わせて20万石を領したとされます。
定次は従五位下伊賀守に任じられ、さらに「羽柴」の姓を与えられました。さらに豊臣秀吉が関白となった際の拝賀にも供奉し、のちに従四位下侍従へ進んでいます。
こうした待遇を見ると、定次が秀吉政権の大名として一定の位置を占めていたことがわかります。

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朝鮮出兵中、長崎でキリスト教の洗礼を受ける
文禄元年(1592)、秀吉による朝鮮出兵が始まりました。定次は肥前名護屋城に駐屯します。
この年の秋、定次は長崎へ赴き、イエズス会巡察師ヴァリニャーノ(Valignano, Alessandro)から洗礼を受けました。こうして定次は、キリシタン大名の一人となります。
当時の長崎はキリスト教布教の重要な拠点でした。秀吉自身はすでに天正15年(1587)に伴天連追放令を出しましたが、それでもキリスト教信仰は大名や武士たちの間に残っていました。
定次もその一人だったのです。
関ヶ原の戦いでは徳川家康に従う
慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成らが対立し、関ヶ原の戦いへと発展します。このとき、定次は家康に従いました。関ヶ原本戦に先立つ上杉景勝征伐にも従軍し、東軍側に立ちます。
戦後、定次は本領を安堵されました。豊臣秀吉のもとで20万石を領した定次は、秀吉の死後には徳川家康側へ転じ、新たな政権のもとでも大名として生き残ることに成功したのです。
しかし、その安泰は長く続きませんでした…。
家臣の訴えによって改易される
慶長13年(1608)、定次の運命は大きく暗転します。家臣の中坊秀祐が、定次の不行跡を訴えました。
その結果、定次は改易され、20万石の大名という地位を失います。そして奥州(現在の福島、宮城、岩手、青森の各県と秋田県の一部)岩城の鳥居忠政のもとに預けられました。
具体的にどのような不行跡が問題になったのかについて詳しい記載はありませんが、『国史大辞典』(吉川弘文館)などでは、定次がキリシタンであることが露見したため改易されたという説が紹介されています。
旧臣が大坂方へ…再び疑いを受ける
改易後の定次は鳥居忠政に預けられ、大名として政界に復帰することはありませんでした。それから7年後の元和元年(1615)、大坂の陣のさなかに、定次は再び厳しい立場へと追い込まれます。
かつて定次に仕えていた旧臣の中から、豊臣方に加わる者が出たのです。そのため定次自身も、豊臣方と通じているのではないかとの疑いを受けました。
息子・順定とともに自害
元和元年(1615)、定次は子の順定とともに死を命じられました。そして3月5日、自害します。54歳でした。
順慶の後継者として大和を継ぎ、秀吉のもとで伊賀20万石を領し、羽柴姓を与えられた定次。
関ヶ原では家康方を選び、その所領もいったんは認められました。それでも改易によってすべてを失い、最後は豊臣方との関係を疑われて命を絶つことになりました。
なお、定次の妻は織田信長の娘だったと『国史大辞典』(吉川弘文館)は伝えています。
織田家の娘を妻とし、豊臣政権下で栄え、徳川政権下で没落する…。その生涯は、織田・豊臣・徳川という三つの時代をまたいだものでした。
まとめ
筒井定次の生涯から見えてくるのは、戦に勝つだけでは生き残れなかった、織豊期から江戸初期という時代の厳しさではないでしょうか。20万石の大名から改易、そして死へ…。その浮き沈みの激しさこそ、筒井定次という人物を知る上で大きな特徴だといえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『新カトリック大事典』(研究社)











