
ライターI(以下I):『豊臣兄弟!』第33回では、柴田勝家(演・山口馬木也)と市(演・宮崎あおい)が北庄城(北ノ庄城)天守からダイブする最期が描かれました。
編集者A(以下A):大河ドラマで幾度も描かれた柴田勝家と市の最期ですが、これまでにない展開になりました。9層にも及ぶと伝えられる北庄城の威容も想起させられたということで、大河史に刻まれる名場面になったかと思います。
I:となると、実際にはどういう最期だったのか、知りたくなりますよね。史実は史実、物語は物語ということで……。
A:柴田勝家と市の最期に関しては、秀吉の側近くに仕えた大村由己筆による『柴田退治記』(『群書類従』合戦部21輯)に詳細に記されています。『別所長治記』を確認したくて購入した同書に『柴田退治記』も含まれていたので参照したいと思います。なお『柴田退治記』は『柴田合戦記』ともいわれます。同書によると、勝家は、天守の九重目、つまり最上階に昇って「これから切腹する。心あるものは見学しろ」と敵に向かって言い放ったそうです。当該部分の読み下しが、小和田哲男先生の『秀吉の天下統一戦争』(吉川弘文館)に掲載されていますので、該当部分を引用したいと思います。
小谷の御方を始め、十二人の妾、三十余人の女房達、唯今の最後を期して、念仏称名の声の裡(うら)にも亦(また)涙欄干(らんかん)たり。譬(たと)へば、緑鬢(りょくびん)紅顔、楊柳(ようりゅう)の風に随ふ如く、桃花の露を含むに似たり。
如何なる邪見の人も剣を取りこれを害せんや。勝家思ひ切り取りて寄せ、引き伏せ、一々差し殺し、勝家が腹の切り様を見よとて、左手の脇に差し立て、右手の背骨に引き著け、返す刀にて心の下より臍の下にいたるまで、長って、五臓六腑を掻き出し、文荷を呼びて、首を打て、と請ふ。文荷、後に廻り、首丁と打ち落とす。其の太刀にて腹を切って死す。其の外、股肱の臣八十余人、或は差し違へ或は自害し、天正十一年四月二十四日申の剋、かの城に楯籠る柴田が一類、悉く相果つるものなり。
A:小谷の方というのが市のことですね。文荷というのは勝家家臣の中村文荷斎のことになります。
I:勝家と市との結婚生活は10か月ほどということになりますが、妾が12人もいたとは驚きです。
A:いやいや、勝家は還暦を過ぎていたともいわれますから、妾が何人かいてもおかしくありません。12人もいたのであれば、長年誼を通じた女性もいたはずです。むしろそうした女性たちとの別れに時間を割きたかったかもしれないですね。
I:でも、過去の大河ドラマでも、勝家と市の最期の場面で、12人の妾が描かれたことはありません。「勝家の不都合な真実」ということなのでしょうか。
A:『柴田退治記』によると、皆で念仏を唱え、ひとりひとり引き寄せて、勝家自身が刺し殺したと記述されています。つまり市も勝家の手によって刺し殺されたということでしょう。
I:市と12人の妾ですが、どのような順番だったのでしょう。
A:やはり、最初に正室の市だったと思います。ドラマでは描かれることのない非業の最期を遂げたということになります。ただ過去の大河ドラマでも勝家が市に刀を向けた作品があるにはあります。1981年の『おんな太閤記』では勝家(演・近藤洋介)がお市(演・夏目雅子)を介錯しようと刀を構えるところまで描かれました。2006年の『功名が辻』、2014年の『軍師官兵衛』でも勝家が市を刺し殺す場面が描かれました。
I:そうなんですね。実際にいた12人の妾は描かれていないのですね。
A:話は『柴田退治記』での描写に戻りますが、勝家はその後に、「勝家が腹の切りよう見よ」と発して、「心(むね)の下より臍(ほぞ)の下にいたるまで、たちきって」、五臓六腑を掻き出したとあります。情景を思い浮かべるだけでも正視できない思いがします。現場にはもっとたくさんの人がいて、勝家の最期を見届けた後は、それぞれ刺し違えたり自害したり皆々果てたようです。1991年の『太平記』で鎌倉幕府が滅亡した回のように、執権北条高時(演・片岡鶴太郎)が切腹した後に、家臣らがそれぞれ果てていった場面と同じような展開になったと思われます。
I:ところで、『柴田退治記』に記されたこの描写は、いったい誰が証言したのでしょうか?
A:前出の小和田哲男先生の『秀吉の天下統一戦争』(吉川弘文館)に答えがあります。かつては小和田先生も同様の疑問を持たれていたそうです。該当箇所を引用してみます。
ルイス・フロイスが、インド管区長パードレ・アレッサンドロ・バリニャーノ宛てに送った書簡に「柴田は諸人の意見を聞いた上、死するに先だち、談話が巧妙で身分のある老女を選び、この状況を目撃した後に城の門より出てその見たるところを敵に語らせた。
勝家は、いかに自分たちが武士らしく死んだかを秀吉側に伝えるべく、最期の場面を目撃した語り部を用意していたのである。恥をきらい、名を残すことを考えた戦国武士の「死の演出」、「死の美学」をみることができるように思われる。
I:勝家がそこまでして「遺した」最期の場面ですが、大河ドラマでも再現してあげたらいいのにと思いますけど、難しいんでしょうか。
A:やっぱり、市との別れ、浅井三姉妹との別れの場面は「聞くも涙、語るも涙」の鉄板なんだと思います。妾12人や五臓六腑を掻き出す切腹シーンと対比した場合、どちらを選択するかは自明の理。でも後者を描いてくれる制作者の登場も期待したいですね。
福井城跡には県庁と警察本部
I:北庄城は九層の天守をたたえた名城だったといわれます。信長の安土城は七層ですから、その威容は想像できます。同じNHKの『歴史探偵』では、CGで再現するなど、北庄城がどれほど凄い城だったのかを強調していました。
A:柴田勝家が築いた北庄城は、賤ヶ岳合戦から柴田勝家自害の流れのなかで焼失します。江戸時代にこの地をおさめたのが、徳川家康次男結城秀康の系統になります。嫡男松平忠直です。松平家の築いた福井城は、北庄城再建時に、位置を移動させた形になります。紆余曲折があって幕末時には福井藩32万石の城下町を形成していた福井城になります。越前は、室町時代の初期に足利一族の斯波氏が守護として治めていました。斯波氏は尾張の守護でもありましたから、越前は守護代として朝倉氏が一乗谷を本拠として治めていたわけです。その朝倉氏を滅ぼした後に、織田軍は一乗谷を「放置」。朝倉一族の出城があった北庄に新たに城を築いたのが、柴田勝家なのです。
I:最終的にその地に入ったのが、家康次男の系統というのが感慨深いですね。
A:そうなんです。織田家の本拠だった尾張清須城も家康四男忠吉が襲封し、忠吉没後は家康九男義直に譲られました。義直は家康58歳のときの子で、その誕生は関ケ原合戦の後になります。織田家ゆかりの清須城から「清須越え」を経て、名古屋に城を築きます。築城は諸大名を動員しての「天下普請」でした。
I:信長と勝家をはじめとする家臣団が必死の思いで奪い取った所領が、結局最後は、家康の息子たちに与えられたんですね。そう思うと、アンチ徳川の人たちはもやもやするのでしょうね。
A:北庄城跡から福井城跡は徒歩圏内です。福井城は、お濠も石垣も残っていて往時の姿を想像する術が残っているのですが、城跡には福井県庁、福井県警察本部が屹立している「不思議空間」となっています。
I:無理を承知でいいますが、柴田勝家の夢の跡=北庄城、復元してほしいですよね。
※宮崎あおいの「崎」は正しくは「たつさき」。
●編集者A:書籍編集者。かつて『完本 信長全史』(「ビジュアル版逆説の日本史」)を編集した際に、信長関連の史跡を徹底取材。本業では、11月10日刊行の『後世に伝えたい歴史と文化 鶴岡八幡宮宮司の鎌倉案内』を担当。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好き。愛知県出身なので『豊臣兄弟!』を楽しみにしている。神職資格を持っている。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり











