どこから出てきたのか。足軽あがりのその者には稀なる才が宿っていた。その才を持って、民草(たみくさ)から天下人へと駆け上がった、日本史上ただひとりの男。豊臣秀吉。その謎に満ちた生涯を、解き明かす。

六甲山系の山ふところに抱かれた有馬温泉(兵庫県神戸市)は、和歌山県の白浜温泉、愛媛県の道後温泉と並んで日本三古湯のひとつに数えられる歴史ある温泉地だ。奈良や京の都から最も近い湯治場として、飛鳥時代の舒明天皇、孝徳天皇をはじめ、藤原道長、白河法皇、後白河法皇など、時の権力者たちも多く訪れている。
秀吉も有馬温泉をこよなく愛したひとりで、有馬一帯を直轄領にして、たびたび湯治に訪れている。

公式な文書の上で確認できる秀吉の最初の有馬温泉訪問は天正11年(1583)8月のことで、この年の4月、秀吉は織田家中最大のライバル、柴田勝家を攻め滅ぼしている。天下取りの主導権を握り、合戦に次ぐ合戦でたまった疲れを癒やしたのかもしれない。
天下人となれば、養生して、できるだけ長生きをしたくなるのが道理だろう。秀吉の有馬湯治は記録に残るだけで9回を数える。その多くは1週間から20日ほどの日程で、それぞれが秀吉の人生の節目にあたることが興味深い。秀吉の2回目の有馬訪問は天正12年8月。徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いが膠着状態となり、いったん大坂に帰った秀吉は方策を練るためか湯治に出かけている。
天正18年7月、秀吉は小田原攻めで北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げると直後の9月に湯治に出かけている。派手好きの秀吉らしく、有馬湯治に総勢52名のお供を同行させたこともあり、正室の寧々や側室の女性たちも有馬を訪ねている。
しかし人生はよいことばかりではない。翌天正19年1月には弟の秀長が死去。8月5日には側室の淀殿が生んだ最初の子の鶴松が3歳で夭折した。鶴松の死は秀吉に大きな悲しみをもたらしたのだろう、同8月には清水寺に詣で、有馬へ湯治に出かけている。有馬の湯に浸っているとき、そこには泣きも笑いもする人間秀吉の飾らない顔があったことだろう。
秀吉の楽園「湯山御殿」
秀吉は当初、湯治の宿舎として寺院の建物を利用し、千利休や津田宗及らの茶人を招いて茶の湯を催していたが、文禄3年(1594)、有馬湯治のための御殿「湯山御殿」をつくらせている。御殿造営の際に65軒の家々が強制退去させられているので、その敷地はかなりの広さであっただろう。ところがこの御殿は2年後の慶長元年(1596)に大地震で倒壊してしまい、秀吉は翌年、再建を命じている。慶長3年5月、秀吉は地震後に新たにつくられた湯山御殿に湯治に出かける計画を立てたが、体調の悪化により果たせず、8月に亡くなった。
秀吉の湯山御殿は、豊臣家が滅んだのちに徳川幕府によって破却されて埋められ、その上に極楽寺が建立された。それから約400年、阪神・淡路大震災で極楽寺の庫裡が損壊して建てなおすことになり、その際、発掘調査が行なわれ、岩風呂や蒸し風呂などを設けた湯山御殿の遺構が発見された。ただし、これらは秀吉が入ることができなかった風呂ということになる。現在、湯山御殿跡には「太閤の湯殿館」が立ち、岩風呂や蒸し風呂の遺構が公開されている。
秀吉の湯治通いによって、それまで災害や戦乱などで荒廃していた有馬温泉は息を吹き返した。江戸時代には近畿を代表する温泉場の地位を確立し、現在に至る。




秀吉効果で江戸期に繁栄

●有馬温泉 太閤の湯
住所:兵庫県神戸市北区有馬町池の尻292-2
電話:078・904・2291
●太閤の湯殿館
住所:兵庫県神戸市北区有馬町1642
電話:078・904・4304
※この記事は『サライ』本誌2026年2月号より転載しました。












