
小泉セツ&小泉八雲の夫婦がモデルとなった朝の連続テレビ小説『ばけばけ』が注目されています。実はその小泉夫妻と、明治の文豪・夏目漱石と妻・鏡子は、不思議と重なり合う縁で結ばれていた、というのをご存じでしょうか。
夏目漱石の研究家として知られ、『心を癒す漱石の手紙』などの著書を持つ、作家で雑誌編集記者の矢島裕紀彦さんによると、二人の文豪とその妻たちには奇縁と呼ぶしかないような不思議なつながりがあると言います。
多数の文献や手記を紐解きながら、二組の夫婦の知られざる素顔を全26回の連載にて紹介します。
第21回では、相撲と漱石、八雲の繋がりをご紹介します。関取の筋肉の美しさを称えた漱石は自らも体を鍛え、子供達とも相撲を取るほど相撲好きに。一方の八雲は腕相撲では地元の若い漁師相手でも負けない怪力を披露していたそうです。
文・矢島裕紀彦
相撲に美しさを見出した漱石は自らも鍛えていた

明治42年(1909)6月14日、42歳の夏目漱石の姿は東京・本所(現・両国)の国技館にあった。高浜虚子とともに、大相撲を観戦していたのである。この日の漱石の日記。
陰。烈風。朝虚子と国技館に行く。九時から六時迄居る。(略)相撲の筋肉の光沢が力瘤の入れ具合で光線を受ける模様が変つてぴか/\する。甚だ美しきものなり。
一日中、相撲を堪能し、相撲の中に一種の芸術性を見出している漱石なのである。
国技館はこの少し前、大相撲の常設館として回向院の境内に完成し、6月2日に開会式が挙行されたばかりだった。総坪数約1000坪。鉄骨造りで客席は4階まであり、1万2000人を収容できたという。設計者は東京駅の設計でも知られる辰野金吾だった。
漱石の贔屓の角力は、太刀山だった。突っ張りが得意で、「四十五日間の鉄砲」というあだ名があった。ひと突き半(ひと月半)で相手を突き出してしまうというのである。豪快な荒技、呼び戻しも得意で、この5月に大関に昇進したところだった。太刀山はこののち、43連勝、56連勝という驚異的な連勝記録をつくり、横綱にまで昇りつめていく。
漱石が「エキザーサイサー」を買い求めたのは、大相撲観戦から2週間も経たない6月27日のことだった。エキザーサイサーはこのころ器具販売会社から売り出された体操器具で、柱にとりつけ、紐を使って筋力を鍛えるもの。「近代ボディビルダーの父」と言われ、筋肉トレーニングや栄養学について研究を深めていたユージン・サンドウの創案という。漱石は早速、これを縁側の柱に下げて使った。
このとき漱石は、朝日新聞紙上に長篇4作目となる『それから』を連載中だった。執筆に追われ運動不足になりがちな自身の健康管理に、この器具を役立てようとしたとの見方が一般的だが、もしかするとそれ以上に、角力たちの、ぴかぴかするほど逞しい筋肉の光沢が、漱石の頭の隅に散らついていたように思える。ちょいと体を鍛えて、高浜虚子や鏡子夫人、若い門弟たちに逞しい力瘤のひとつも披露してやろうかなんて、茶目っ気を出したのかもしれない。
ユージン・サンドウは、古代ギリシアやローマの文化にふれ、美しく逞しい肉体の彫像に憧れたことから体を鍛えはじめ、ダンベルを使ったさまざまなトレーニング法も考案。ちょうど漱石英国留学中の明治34年(1901)、ロンドンのアルバートホールで世界初の「ボディ・コンテスト」を開催した。このときの審査員には、『シャーロック・ホームズ』の作者コナン・ドイルも名を連ねていたという。漱石がこのコンテストを見たという記録は見当たらないが、アルバート・ホールには足を踏み入れているし、「西洋の相撲」(レスリング)を観戦しその模様を正岡子規宛ての手紙にしたためてもいる。
小泉八雲も松江で相撲を見ている。明治24年(1891)4月3日、大橋開通式のあとのことであった。セツは記している。
角力は松江で見ました。谷の音が大関で参りました。西洋のより面白いと申していたようでした。谷の音という言葉はよく後まで出まして、肥ったという代りに「谷の音」と申すのでございます。(小泉節子『思い出の記』)
腕相撲自慢で、暴漢にも怯まない叩き上げの八雲

小柄で目も悪かったし、自ら相撲に挑戦してみることはなかったが、腕相撲には自信があり、好んでやった。若い元気ざかりの書生たちや、焼津の漁師の若者たちを相手に腕相撲をして、相手がうんうん唸って汗だくになっても、八雲は顔色ひとつ変えず、「ホー、ホー、もう少しです」などと言いながら、畳から生えたかの如く、腕柱を揺るがせもしない怪力の持ち主だった。
八雲は《太く逞しき腕の崇拝者》だった。50歳を過ぎても、20ポンド(約9キロ)の鉄アレイを振り回し、子どもたちの似顔の落書きの横に、好んで筋骨隆々たる腕の絵を描いていたという。ギリシア生まれで読書家の八雲だから、ユージン・サンドウの著書も読んで参考にしていた可能性もある。
八雲の腕っぷしは、若者相手の腕相撲以上の実戦的迫力を蔵していた。
こんな逸話がある。晩年、東京に暮らしていた八雲が一雄と連れ立って散歩していて、新宿の盛り場付近へ迷い込んだことがあった。道を変えようとしていると、向こうからおでんの串を手にした柄の悪い三人連れがやってきた。八雲父子は素知らぬ顔ですれ違おうとしたが、相手方が八雲に気がついて「やあ、異人がきやアがった!」とからみついてくる。その上、串刺しのコンニャクを八雲の鼻先で触れんばかりに振り回し、「ベーロベロのベンベロベー!」と侮辱した。
次の瞬間、そのコンニャク男は路上へ尻餅をついていた。目にも止まらぬ早さで、八雲の腕っぷしが機能したのだろう。八雲は一雄に「カム、オン、ダアリング」と声をかけ、そのまま急ぎ足で歩いていく。
「畜生!」「やい、異人、待てっ!」「1銭5厘のおでんをおじゃんにしやがったな!」男たちが口々に罵りながら八雲を追いかけてくる。その時に見せた八雲の豹変ぶりは、一雄を驚かせた。『父「八雲」を憶う』に一雄は綴る。
父は突然立ち停って振り返りました。両手の拳を固めて身構えつつ彼等三人を睨みました。私が父の面を見上げた時、実に戦慄を覚えました。これが本当の私のパパの顔だろうかと思ったほどに――今まで一度も見たことのない――実に恐しい形相でした。
相手は睨み竦められて身動きできず、八雲は「何ぼう無礼の人」とつぶやいて、踵を返して一雄を連れて歩き去ったという。
文無しで英国ロンドンの貧民窟をさまよい、米国ニューオリンズでは新聞記者として恐ろしい事件現場に進んで身を投じた。そうやって叩き上げてきた、八雲の知られざる「真骨頂」だったのだろう。
漱石は家庭でも、子どもたち相手によく相撲をとった。はじめは男児ふたり(長男・純一と次男・伸六)が父に組み付くのだが、まだ小さいため、ふたりがかりでも父には叶わない。そのうち「助けを求む」という男の子の叫びに応じて、すぐ上のふたりの姉(三女・栄子と四女・愛子)がどこからともなく加勢にかけつける。漱石は顔を真っ赤にして力み、帯もほどけ、胸元をはだけた姿になって、4対1の大相撲を繰り広げていたと、漱石の長女の筆子が回想している。
40代半ばの文豪、なかなかの腰の強さである。
大正5年(1916)1月も、漱石は国技館に足を運んでいる。当時の相撲は、春夏2回の1場所10日制である。漱石は初日(1月14日)から千秋楽(1月23日)までを観戦するつもりで、朝日新聞の桟敷席を借りて連日通いつめていたが、6日目(1月19日)で中断された。激しい腕の痛みがあり、ペンを握ることはおろか、夜眠ることもままならなくなったのである。リウマチらしいと本人は自己診断していたが、のちにこれは糖尿病のためであることが医師の診断によって明らかになった。
この間、1月18日には国技館内で、京都帝国大学(現・京大)で教鞭をとるドイツ文学者の藤代禎輔に遭遇した。漱石と藤代は大学の同窓であり留学生仲間であった。明治33年(1900)秋、ふたりは同じ汽船に乗って欧州大陸へ向かった。帰国後、漱石は東大講師を経て作家となり、藤代は京大で教壇に立ち続けていた。
「おい、夏目!」
遠くから呼びかける声の方に顔を向けると、そこに藤代がいた。漱石は驚いた。だが、混み合う館内で皆が自分の席へと向かう人流がある中で、立ち話をする余裕はない。「失敬!」と挨拶を返すのが精一杯で、互いに自分の席へと向かった。これが、漱石と藤代が交わす最後の言葉となるとは、このときふたりとも思ってもみなかった。
* * *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com
(この連載を通しての主な参考文献)
『漱石全集』全28巻、別巻1(岩波書店、1993~1999年)/夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫、1994年)/夏目伸六『父・夏目漱石』(文春文庫、1991年)/夏目伸六『父・漱石とその周辺』(芳賀書店、1967年)/高浜虚子『回想子規・漱石』(岩波文庫、2002年)/松岡陽子マックレイン『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新書、2007年)/荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社、1984年)/江藤淳『漱石とその時代』第1部~5部(新潮新書、1970~1999年)/『新潮日本文学アルバム夏目漱石』(新潮社、1983年)/『別冊國文学 夏目漱石事典』(学燈社、1990年)/『夏目漱石の美術世界』(東京新聞、NHKプロモーション、2013年)/出久根達郎『漱石先生とスポーツ』(朝日新聞社、2000年)/江戸東京博物館・東北大学編『文豪・夏目漱石』(朝日新聞社、2007年)/平岡敏夫『「坊つちやん」の世界』(塙新書、1992年)/恒松郁生『漱石 個人主義へ』(雄山閣、2015年)/小泉節子、小泉一雄『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』(恒文社、1976年)/小泉八雲、平井呈一訳『日本瞥見記』上・下(恒文社、1975年)/小泉八雲、平井呈一訳『東の国から・心』(恒文社、1975年)/小泉八雲、平川祐弘編『怪談・奇談』(講談社学術文庫、1990年)/小泉八雲、池田雅之編訳『虫の音楽家』(ちくま文庫、2005年)/『明治文学全集48 小泉八雲集』(筑摩書房、1970年)/小泉時共編『文学アルバム小泉八雲』(恒文社、2000年)/小泉凡監修『小泉八雲、開かれた精神の航跡。』(小泉八雲記念館、2016年)/池田雅之監修『別冊太陽 小泉八雲』(平凡社、2022年)/池田雅之『小泉八雲』(角川ソフィア文庫、2021年)/田部隆次『小泉八雲』(北星社、1980年)/長谷川洋二『八雲の妻』(今井書店、2014年)/関田かをる『小泉八雲と早稲田大学』(恒文社、1999年)/梶谷泰之『へるん先生生活記』(恒文社、1998年)/池野誠『松江の小泉八雲』(山陰中央新報社、1980年)/工藤美代子『神々の国』(集英社、2003年)/工藤美代子『夢の途上』(集英社、1997年)/工藤美代子『聖霊の島』(集英社、1999年)/平川祐弘編『小泉八雲回想と研究』(講談社、1992年)/平川祐弘『世界の中のラフカディオ・ハーン』(河出書房新社、1994年)/熊本大学小泉八雲研究会『ラフカディオ・ハーン再考』(恒文社、1993年)/西川盛雄『ラフカディオ・ハーン』(九州大学出版会、2005年)/西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち』(洛北出版、2024年)/池田雅之『日本の面影』(NHK出版、2016年)/ラフカディオ・ハーン『小泉八雲東大講義録』(KADOKAWA、2019年)/芦原伸『へるん先生の汽車旅行』(集英社インターナショナル、2014年)/嵐山光三郎『文人暴食』(新潮文庫、2006年)/河東碧梧桐『子規を語る』(岩波文庫、2002年)/『正岡子規の世界』(松山市立子規記念博物館、1994年)/『子規全集』18巻、19巻(講談社、1979年)/『志賀直哉全集』第8巻(岩波書店、1999年)/『芥川龍之介全集』第4巻(岩波書店、1996年)/瀬沼茂樹『評伝島崎藤村』(筑摩書房、1981年)/矢島裕紀彦『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫、2009年)/矢島裕紀彦『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(NHK生活人新書、2003年)/矢島裕紀彦『文士が愛した町を歩く』(NHK生活人新書、2005年)/矢島裕紀彦『文士の逸品』(文春ネスコ、2001年)











