2023年の大河ドラマは、徳川家康の生涯を描く『どうする家康』。マネジメント課題解決のためのメディアプラットホーム「識学総研(https://souken.shikigaku.jp/)」では、その徳川家康から組織論を考察します。
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鳴かぬまで 待っただけでは 勝てません
戦国時代に終止符を打った徳川家康。彼はいかにして天下を取り、260年続く江戸幕府の礎を築いたのでしょうか。家康の業績から、勝ち続けられる組織に必要なことを考察していきます。
家康の生涯
家康は、言わずと知れた江戸幕府の初代将軍です。1542年、現在の愛知県岡崎市で、岡崎城主松平広忠の嫡男として誕生しました。
家康が6歳のとき、今川家へ人質に出されることになります。松平広忠が、近隣諸国から自国を守るべく今川家に助けを求めたところ、今川家当主の今川義元が忠誠の証として人質を要求し、広忠がこれに応じて息子の家康を差し出したのです。
ところが、家康を今川家へ護送する際、付き添いの戸田宗光が裏切り、家康を織田信長の父である信秀のもとへ連れていってしまいます。家康は以降約2年間、信秀が創建した織田家の菩提寺である万松寺で過ごすことになります。
一方、裏切りに激怒した今川義元は戸田家を滅ぼし、次いで織田軍にも攻め込みます。信秀の息子であり信長の兄である織田信広を捕らえた今川義元は、信広と人質を交換する形で家康を呼び寄せました。
家康が18歳になった1560年、桶狭間の戦いが起きます。この戦で今川義元が織田信長に敗れると、家康は今川家を離れ岡崎に戻ります。その後、織田信長と同盟を結んだ家康は三河国を統一。次第に勢力を拡大していきます。
1582年に本能寺の変で信長が死んだ後、家康は一度秀吉と争いますが、すぐに改め秀吉の天下統一を手助けする側に回ります。
1598年に秀吉が死ぬと、1600年に関ヶ原の戦いで石田三成を討ち、今度こそ晴れて天下人となるのです。1603年、征夷大将軍に任命された家康は、江戸幕府を開きます。
わずか2年で子の秀忠に将軍職を譲位しますが、その後も大御所という立場で政権を握りました。そして、1614年から1615年にかけ大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした後、1616年、73歳でその生涯を閉じたのです。
家康が天下を取れた理由
家康が天下人になれたのは、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いに勝ったからです。
ただ、実はこれ以前にも一度、家康は天下を取りに出た過去があります。それは、有名な小牧・長久手の戦いです。これは、信長の死に乗じ嫡孫の織田秀信を担いで天下取りに乗り出した秀吉と、信長の次男である信雄に頼られた家康が争った戦いでした。
先述の通り、家康は秀吉に臣従することになったわけですが、家康は決して秀吉に敗れたわけではありませんでした。むしろ、実戦で優勢だったのは家康だったと言われています。それなのに、なぜ家康はこの戦いを終わらせ、和議を結び臣従したのでしょうか。
その理由として、真田家の抵抗に遭い北条氏との同盟条件を満たせなかったこと、1583~84年にかけ、大雨や地震による天災の影響で戦況維持が困難になったことなどが考えられています。
戦で負けたわけではなかったのです。
いずれにせよ、私はこのとき臣従の決断ができたからこそ、家康は後に関ヶ原で勝利を得ることができ、天下を取れたのだと思っています。そして、その決断をどのように導き出したかは、現在のリーダーたちにも非常に参考になるはずです。
家康に学ぶ
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」
家康の戦略立案やマネジメントを表現する際に用いられる有名な川柳です。家康は待つことができた、言い換えると、時機を見極める能力に秀でていたということになります。
小牧・長久手の戦いの頃、信長がクーデターによって急逝したことで訪れたチャンスを掴むべく、全国の猛者たちが台頭するチャンスを窺っていました。天下を取るにはそんな彼らを全て屈服させなければなりません。いかに一対一なら最強の三河武士であっても、徳川家単独で日本全国を相手取って武力で上回ることは不可能です。
ですから、外交が不可欠になります。その外交を優位に進める決め手が、まだ家康にはありませんでした。
それに対し、秀吉は信長を殺した明智光秀を倒しています。かつ、信長の嫡孫である秀信を担ぎ出すことに成功していました。この状況では、ここでたとえ秀吉に勝っても天下を取るには膨大なエネルギーが必要であると家康は考えたのではないでしょうか。
小牧・長久手の戦いでは、江戸時代後期の歴史家である頼山陽に、「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ヶ原にあり。関ヶ原にあらずして小牧にあり」と言わしめたほどの見事な戦いで、2万~3万の軍勢で10万の豊臣軍に圧勝しています。
それが可能な武力と知力を持っていながら、それでも時機を見て引くところは引く選択ができた点に家康のすごさがあります。
そして偉業へ
しかし、ただ引いていたのでは勝つことはできません。時期を見極めて勝てると確信し、家康は動きました。実際、関ヶ原の戦いに勝利して見事に天下を取りました。
では、ここで家康が勝てると見極めた背景は何だったのでしょうか。
それは、組織が仕上がったことだったと思います。
戦いに勝って、さらにその体制を維持していくことができる組織を持てたことが家康に決断をもたらしました。ここでの組織力はその大きさもさることながら、いかに本質にのっとって組成されたものであるかということです。
識学では「人と人の繋がりは有益性によって成り立っている」と説明しています。家康が組織を率いる際に意識していたのはまさにこれではないでしょうか。
先ほどもお伝えしたように、天下を取るには外交が必要ですが、交渉では自らが得ようとするものを手に入れるために相手にも与えなければなりません。秀吉と対峙したとき、家康が持っていたものは、現在の愛知県三河地方と静岡県、長野県、山梨県あたりまでのわずかな領土でした。
長宗我部氏と北条氏と組んだとはいえ、ほぼ対等な同盟関係で、それを維持するための条件に常に翻弄されているような状況でした。それに対し、秀吉はすでに畿内全域と北陸を抑え、中国地方も傘下に収める寸前でした。
この状況を打開しようと、現在中立の諸将を取り込み維持するためには相当の有益性を提供しなければなりませんが、当時の家康にはまだそれがありませんでした。緒戦の勢いのまま戦況を拡大させても、戦線や戦力を維持することが難しい状況だったのです。そこから数年のときを経て、家康は後に関ヶ原の戦いに勝利します。
石田三成ら西軍が過去に秀吉から受けた恩や義理、人情によって軍の統率を図ろうとしたのに対し、家康は「どちらに与することにより利があるか、大義があるか」を説いて仲間を増やし、結束を強めていきました。
最後は秀吉から寵愛されていた小早川秀明の家康軍への寝返りによって勝負が決したことを思えば、組織が何によって成り立ち、どう維持していくかの本質を見極めていたからこそ家康が天下を取れたと言えるのではないでしょうか。
本質にのっとった強い組織を作る
打って出て勝てる最適なタイミングを図る。
そのタイミングが来たときは躊躇なく実行する。
そして、その機会を絶対に逸しないための確実に勝てる強い組織づくりを行う。
当たり前のようですが、これが、家康が天下を取れた理由です。
現代においては特にこの組織づくりが重要になっています。
正しく勝機を見極めるためには情報収集が必要であり、家康も忍びを囲って情報収集には余念がありませんでした。この時代のトップクラスのアンテナを持っていたことが他大名との差につながりました。
しかし、現代は情報収集がもちろん大切であるものの、情報が伝播するスピードは戦国時代とは比べようもないほど早いので、情報だけで他社を圧倒する差はつきにくくなっています。そうであれば、情報を活かすことができる組織を持っているかどうかがより重要になります。
組織は有益性のつながりによって成り立っています。これだけを聞くとドライな印象を受けるかもしれませんが、どこまでいってもこれが本質です。
もし今、組織づくりにお困りになっているのであれば、好きか嫌いかではなく、ぜひそこに目を向けて立て直してみていただきたいと思います。
【この記事を書いた人】
有手啓太/シニア講師。中央大学商学部を卒業後、大学受験予備校の営業として5年ほど従事。 その後、大学受験塾を10年ほど経営したのち、識学に入社し、8か月で課長に就任。2019年7月からは名古屋支店の支店長として従事する。
引用:識学総研 https://souken.shikigaku.jp/