
はじめに
戦国時代、刀や槍を持って戦っていたのは、武士だけではありません。農民も武器を所有し、ときには一揆を起こして領主に抵抗していました。
そんな時代に、農民から武器を取り上げようとしたのが豊臣秀吉です。天正16年(1588)、秀吉は全国に向けて「刀狩令(かたながりれい)」を発しました。
刀狩といえば、農民から刀を没収した政策として知られています。しかし、実際には刀だけでなく、槍や鉄砲なども対象でした。しかも、武器の所持がすべて禁止されたわけではありません。
秀吉はなぜ刀狩を行ったのでしょうか? そして、この政策によって日本の社会はどのように変わったのでしょうか? 見ていきましょう。
秀吉はなぜ刀狩を行ったのか?
戦国時代の農民は、必ずしも田畑を耕すだけの存在ではありませんでした。当時は武士と農民の区別が現在のイメージほど明確ではなく、農民が武器を所有することも珍しくなかったのです。領主の軍勢に加わって戦う者もいれば、武器を手に一揆を起こす者もいました。
室町時代から戦国時代にかけては、農民たちが結束して領主に要求を突きつける土一揆や、宗教的な結びつきを背景とする一向一揆も各地で発生しています。そのため、領主にとって、武装した農民の存在はときに大きな脅威となりました。
ですから、武器の没収は秀吉が初めて考えたものではありません。天正4年(1576)ごろには、柴田勝家が北陸で「刀ざらへ」と呼ばれる武器の没収を行ったとされています。
秀吉は紀伊征伐でも武器を取り上げていた
秀吉が刀狩を進め始めたのは、全国的な刀狩令を出すよりも前のことです。
天正13年(1585)、秀吉は紀伊国(現在の和歌山県全域と三重県南部)で根来・雑賀の勢力を攻めました。その際、占領した地域の農民に対して、弓矢・槍・鉄砲・腰刀などの所持を禁じ、鋤(すき)や鍬(くわ)といった農具を用いて耕作に専念するよう命じています。
また、高野山や大和国(現在の奈良県)の多武峯(とうのみね)など、武装していた寺院の僧侶からも武器を取り上げました。
秀吉は、征服した地域で武装した勢力が再び抵抗することを防ぎ、自らの支配を安定させようとしていたのです。

写真:photoAC
肥後で起きた大規模な一揆
天正15年(1587)、九州征伐を終えた秀吉は、佐々成政(さっさ・なりまさ)を肥後国(現在の熊本県)の領主としました。ところが、肥後では検地に反対する国人や農民らによる大規模な一揆が発生します。
武装した地域勢力が領主に抵抗する状況は、全国統一を進める秀吉にとって看過できないものでした。
『世界大百科事典』(平凡社)は、こうした武装勢力の存在が豊臣政権にとって危険となる中で、農民から武器を没収する構想が具体化したと説明しています。
翌年、秀吉は全国に向けて刀狩令を発することになります。
刀狩の内容とは?
全国に出された3か条の刀狩令
天正16年(1588)7月8日、秀吉は3か条からなる刀狩令を発しました。その内容は、大きく分けて次の3つです。
第一条:農民の武器所持を禁止する
諸国の農民が刀・脇差・弓・槍・鉄砲などの武具を所持することを禁じました。また、領主や代官らに対し、農民の武器を取り集めて差し出すよう命じています。
第二条:集めた武器を大仏建立に利用する
取り上げた武器は、京都の東山に建立する大仏のため、釘や鎹(かすがい)などの材料にすると説明しました。さらに、農民が武器を差し出すことは、現世だけでなく来世の幸福にもつながると説いています。
第三条:農民は農業に専念する
農民は農具を持って耕作に励めば、子孫まで長く安定した暮らしができるとしました。農民には農業に専念させ、年貢を納める存在として位置づけようとしたのです。
集めた刀を大仏の材料にするという秀吉の説明
刀狩令の中でも興味深いのが、取り上げた武器を大仏建立に使うという説明です。秀吉が京都の東山に建立を進めていたのは、後の方広寺(ほうこうじ)の大仏です。

写真:photoAC
秀吉は、刀や槍を差し出せば、それが大仏建立に役立ち、農民自身も仏の功徳を受けられると説きました。
武器を取り上げるという強制的な政策を、信仰上の利益と結びつけて説明したのです。もっとも、当時の人々がその説明を額面どおりに受け止めていたとは限りません。
奈良・興福寺の僧侶が記した『多聞院日記』には、刀狩の内実は一揆を防ぐためだという世間のうわさが記されています。
大仏建立という名目の背後に、武装蜂起を防ぎたいという政治的な狙いがあったことがうかがえます。
刀狩はどのように行われた?
刀狩令を受けた各地の大名は、村ごとに武器を集め、秀吉の奉行に差し出しました。
実際に、加賀国(現在の石川県南半部)の江沼郡では、刀1073腰、脇差1540腰、槍160本など、多数の武具が集められた記録が残っています。
ただし、全国で一斉に武器が没収されたわけではありません。地域によって実施時期に差があり、刀狩はその後も数年にわたって進められました。
その後|刀狩で日本の社会はどう変わった?
刀狩令によって、農民が持つ武器が完全になくなったと思われがちですが、実態は異なります。
例えば、神事に用いる刀を祭具として保管することや、鹿・猪などの害獣を追い払うために槍を持つことが認められた例があります。また、地域の治安を守るために武器の所持が許可されることもありました。
そうしたことを踏まえると、刀狩は農民からすべての武器を取り上げる政策というより、武器を持つことや使用することを、領主の管理下に置く政策であったといえます。
太閤検地とともに「兵農分離」を進めた
刀狩の大きな意義は、武士と農民の身分を区別する「兵農分離(へいのうぶんり)」を進めたことにあります。
それまでの戦国社会では、農業を営みながら戦いにも参加する者がいました。しかし秀吉は、武士には軍事を担わせ、農民には耕作と年貢の納入を求める体制を整えようとしました。
この政策は、田畑の面積や収穫量、耕作者などを把握する「太閤検地」とも深く関係しています。
太閤検地によって農民を土地と結びつけ、刀狩によって武装を制限することで、豊臣政権は農村に対する支配を強めていきました。
こうした仕組みは江戸時代にも引き継がれ、武士と農民を区別する身分秩序の形成につながりました。
ただし、江戸時代になっても農民や町人による武器の所持が一律に禁止されたわけではなく、用途や形状などに応じた規制が続けられました。
海でも進められた武装の統制
刀狩令が出された天正16年(1588)7月8日には、海上賊船禁止令も発せられました。これは、海賊行為を禁じ、船頭や漁師らに誓約を求めるものでした。『世界大百科事典』(平凡社)は、この禁令を「海における刀狩令」と位置づけています。
秀吉は陸上の農民だけでなく、海上で活動する人々についても、武力を統制しようとしていたのです。
まとめ
天正16年(1588)に豊臣秀吉が発した刀狩令は、農民の武器所持を禁じ、農業に専念させようとする政策でした。集めた武器を大仏建立に利用すると説明した一方、その背景には、一揆を防ぎ、豊臣政権による支配を安定させる狙いがありました。
ただし、刀狩によって農民の武器がすべてなくなったわけではありません。用途によっては所持が認められ、領主の管理のもとで武器を保有する仕組みが整えられていきました。
太閤検地とともに兵農分離を進めた刀狩は、戦国時代から江戸時代へと社会が移り変わる上で、大きな意味を持つ政策だったのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
Instagram:@kyoto_monokaki
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
アイキャッチ画像/photoAC(一部加工)







