はじめに-中川清秀とはどのような人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する中川清秀(なかがわ・きよひで、演:すがおゆうじ)は、摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)茨木(いばらき)城主として知られる戦国武将です。

はじめは池田氏に仕え、その後は荒木村重(演:トータス松本)の配下となりましたが、のちに織田信長(演:小栗旬)方へ転じ、本能寺の変の後は羽柴秀吉(演:池松壮亮)に従って山崎の戦いで功を立てました。

知名度では、豊臣秀吉や黒田官兵衛(演:倉悠貴)、あるいは賤ヶ岳七本槍のような人物たちに及ばないかもしれません。しかし、畿内の緊迫した情勢の中で立場を選び取り、最後は賤ヶ岳の戦いで命を落としたその生涯は、戦国武将らしい激しさに満ちています。

この記事では、中川清秀が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。

『豊臣兄弟!』では、荒木村重の配下として秀吉が重用されることに不満をぶつける人物として描かれます。

中川清秀
中川清秀

中川清秀が生きた時代

中川清秀が生きたのは、織田信長が畿内を掌握し、足利義昭を奉じて上洛したのち、各地の反信長勢力と戦いながら勢力を広げていく時代でした。摂津はその中心に位置し、三好氏、本願寺、毛利氏、荒木村重ら多くの勢力がせめぎ合う土地でした。

この時代の武将は、一つの主君に一生仕えるとは限りません。情勢の変化に応じて主を替え、時に一族や縁者との関係も踏まえて、どちらにつくかを決める必要がありました。中川清秀もまた、そうした時代の中を生きた人物です。

特に天正6年(1578)の荒木村重の謀反と、その後の本能寺の変、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いへと続く流れの中で、清秀の歩みは大きく動きました。

秀吉が台頭していく過程を、摂津の武将の側から見せてくれる存在ともいえるでしょう。

中川清秀の生涯と主な出来事

中川清秀の生年は天文11年(1542)、天正11年(1583)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

池田氏に仕え、のちに荒木村重の配下へ

中川清秀は天文11年(1542)に生まれました。父は中川重清、通称は瀬兵衛です。

はじめは池田勝政(勝正)に仕えていましたが、その後、元亀元年(1570)ごろには縁者である荒木村重の旗下に入りました。

荒木村重
荒木村重

元亀3年(1572)には、摂津茨木城主となったと伝わっています。この年の8月、摂津高槻城主・和田惟政(わだ・これまさ)を討ち取っています。

摂津の一角を担う城主となったことで、清秀もまた地域の有力武将として地歩を固めていきました。

荒木村重の謀反で岐路に立つ

清秀の生涯で最大の転機となったのが、天正6年(1578)の荒木村重の謀反です。村重は本願寺や毛利氏と結んで織田信長に反抗しましたが、このとき清秀は村重から信長方へと転じました。

その背景には、信長の家臣であり、清秀にとっては妹婿であった古田左介景安(のちの古田織部)の説得があったとされます。戦国武将の去就には打算だけでなく、一族や婚姻関係も深く関わっていたのです。清秀の転身も、そうした人間関係の中で決断されたものだったのでしょう。

結果として、清秀は村重から離れて織田信長に味方し、旧主である村重を攻める側に立つことになります。この決断は、のちの清秀の運命を大きく開く一方で、戦国の厳しさをも感じさせます。

信長の家臣として各地を転戦

荒木村重から離反した後、清秀は信長の家臣として行動します。天正10年(1582)3月には、武田勝頼攻めにも従軍しました。

このころには、清秀は単に摂津の一武将ではなく、信長の軍事行動の一端を担う家臣として位置づけられていたことがわかります。

荒木村重の謀反という大きな事件の後も没落せず、むしろ新たな立場を得て戦功を重ねていたのです。

本能寺の変後、秀吉に属して山崎で功を立てる

天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が討たれると、清秀は羽柴秀吉に属して山崎の戦いに参加します。清秀は先鋒隊の二番に編成され、明智光秀軍を破り、功をあげました。

このことは、秀吉が本能寺の変後に一気に主導権を握る流れの中で、清秀も重要な働きをしたことを意味します。

山崎合戦之地
山崎合戦之地

秀吉方として賤ヶ岳の戦いへ

本能寺の変後、清秀はそのまま秀吉に従いました。天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いもまた秀吉方として戦います。

しかし、賤ヶ岳の戦いは清秀の最期の戦いとなりました。清秀が大岩山の砦を守っていたところを、柴田勝家方の佐久間盛政に急襲されて討死したと伝えられています(自殺という説もあり)。

史蹟 賤ヶ岳にある「賤ヶ岳合戦図」
史蹟 賤ヶ岳にある「賤ヶ岳合戦図」。
中川清秀は大岩山砦(赤枠で囲んだところ)にいた。

享年42歳でした。山崎の戦いで秀吉に従って功を立てながら、わずか一年後の賤ヶ岳で倒れる…。清秀の生涯は、まさに激動の戦国そのものといえるでしょう。

賤ヶ岳山頂にある武将の像
賤ヶ岳山頂にある武将の像

子孫と中川家

清秀の嫡男・秀政は天正13年(1585)に播磨(現在の兵庫県南部)三木へ移り、その後文禄の役で朝鮮の水原城において没しました。家督は次男・秀成(ひでしげ)が継ぎ、文禄2年(1593)に豊後国(現在の大分県)岡を与えられます。のちの岡藩では、清秀が太祖とされました。

つまり清秀自身は賤ヶ岳で倒れましたが、中川家はその後も豊臣政権のもとで続き、近世大名家の基礎を築くことになります。

まとめ

中川清秀の生涯は、戦国の武将が時代の変化の中でいかに立場を選び、戦い続けたかをよく示しています。秀吉の台頭を支えた重要な人物の一人として、その名を覚えておきたい人物です。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki

肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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