どこから出てきたのか。足軽あがりのその者には稀なる才が宿っていた。その才を持って、民草(たみくさ)から天下人へと駆け上がった、日本史上ただひとりの男。豊臣秀吉。その謎に満ちた生涯を、解き明かす。

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城下町大坂の基礎は秀吉が整備し、現在の大阪市街の基盤となった。徳川家が建てた大坂城天守は寛文5年(1665)の落雷で焼失。昭和6年(1931)再建の天守が現在の大阪城天守閣。写真/アフロ

「信長の一代記『信長公記』には、大坂本願寺を中心とする大坂の様子が詳しく記されています。なぜそこまで記述されたのかといえば、信長が安土の次に意識したのが大坂だったからです。大坂の重要性について秀吉も信長から聞かされていたに違いありません」(前出(https://serai.jp/hobby/1257304)・中井さん)

大坂は淀川水系の河口部に位置し、上町台地の北端にあって地盤が安定している。さらに当時の大坂は、瀬戸内海を介して世界と結ばれる港湾を擁し、水陸交通の要衝として比類なき地理的優位を誇っていた。

類例のない大プロジェクト

秀吉が大坂城の築城に着手するにあたって、障壁はなかったのだろうか。中井さんはこう語る。

「安土城は山の上に築かれ、山を削って得た石材で石垣を築くことができました。しかし、大坂城は平地に築かれたため、石垣に用いる石材は遠隔地から運搬しなければなりませんでした。さらに、大坂城は南面に広大な平野が広がるため、深い堀を掘る必要もありました。つまり、安土城の比にならないほど、膨大な土木量が求められたのです」

それでも秀吉は、この未曾有の大工事を成し遂げた。しかも城郭のみならず、周囲には巨大な城下町を造成し、城下町を堀で囲む惣構まで構築する。さらに全国の大名の屋敷も軒を連ね、事実上、大坂は日本の首都へと変貌したのである。加えて秀吉は京都に聚楽第と伏見城を築き、居城とした。複数の居城を構えるというのは前例のないことだった。

こうして栄華を誇った大坂城も、秀吉の死後には運命を大きく変える。徳川家康が台頭するにつれ、豊臣家の勢力は急速に衰退し、ついに大坂夏の陣で大坂城は炎上し、豊臣家は滅亡した。その後、石垣や堀は徳川家によって埋め立てられ、豊臣家の大坂城とはまったく異なる、徳川家の手による新たな大坂城が再びこの地に築かれた。

「徳川家にとって、秀吉の築いた城は存在そのものが邪魔物だったのでしょう。大坂城に限らず、秀吉が手がけた城で遺構が見られるものはほとんどありません」

それでも、秀吉の大坂城と同じ場所に徳川家は大坂城を再築し、城下町を再整備した。そして現在も大阪城をシンボルとする大阪は、国内外の人々が行き交う巨大都市として発展を続けている。

次々に明らかになってきた“秀吉時代”の大坂城

焼失した豊臣期大坂城の唯一の遺構の可能性が高い建造物が、琵琶湖に浮かぶ竹生島に残る。それは、竹生島に鎮座する宝厳寺の唐門(国宝)である。

「当時の文書を照合すると、大坂城に架かっていた極楽橋の一部が秀吉の子・秀頼によって京都の豊国神社へ移築された後、さらに秀頼によって竹生島へ移築されたと考えられます」(中井さん)

平成18年、オーストリアのエッゲンベルグ城で、豊臣期の大坂城を描いた『豊臣期大坂図屏風』が発見された。そこに描かれた極楽橋の一部が、宝厳寺の唐門だと考える説が有力になっている。

「竹生島は北近江の戦国大名・浅井家と深い縁があり、浅井家の血を引く淀殿(秀頼の母)にとって特別な地です。この関係も豊臣家と竹生島のつながりを考える上で重要です」

石垣が物語る秀吉の築城術

豊臣期の大坂城の石垣は地上に残っていないが、一部が昭和59年(1984)に地中から発見された。

「発見されたのは、本丸に隣接する詰ノ丸という曲輪の石垣です。本丸は詰ノ丸と、一段低い下段という二段構成で、詰ノ丸にはプライベート空間の奥御殿が、下段には儀礼や政治の場である表御殿が設けられました。秀吉はふたつの御殿を用途で使い分けたのです」

安土城の天主(天守)は居住性を備え、信長は私的空間として用いたと考えられている。これに対し、豊臣期の大坂城の天守にも居住性はあったが、秀吉はそこに住まず、本丸御殿を居所とした。秀吉の大坂城以降の天守には、居住性は取り入れられず、畳すら敷かれなくなる。それにもかかわらず、天守の外観は城ごとの個性を際立たせ、壮麗さを競った。つまり、天守は内部の機能を失って、城下の人々に向けた権威を発信する装置へと変貌したのだ。

中井さんは石材にも注目する。

「詰ノ丸の石垣から約530個の石が検出され、そのうちわずか3石に矢穴が確認されました。矢穴とは石を割るためにくさびを打った痕です。自然石だけではなく、人工的に割った石が大坂城に用いられたことを示します」

さらに、安土城は湖東流紋岩という単一の石材で高石垣が築かれたのに対し、大坂城は六甲山地や生駒山地など、様々な産地の多種類の石材が用いられたという。

「石材の調達に苦労した秀吉は、単一の石材で統一することはしなかったのでしょう。また、多様な石材が交ざっていても、秀吉は気にしなかったのかもしれません」

石垣、瓦、天守を備えた近世城郭の理念を信長から継承しながらも、秀吉は独自の発想で平地に大坂城を築き、城を中心とした都市をつくり上げた。そして、秀吉の大坂城を祖型とした城郭が全国に築かれていく。豊臣家の一族や家臣はもちろんのこと、次の天下人である徳川家康にも、秀吉の築城術が継承されていったのだ。

琵琶湖の竹生島に移築された大坂城の門

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宝厳寺の唐門は、慶長8年(1603)に建立された桃山時代の代表的建築。令和2年に解体修理が完了し、極彩色の姿がよみがえった。写真/PIXTA
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大阪城天守閣で上映される「豊臣大坂城“三国無双”の名城がよみがえる」のCG。黒漆塗りの天守をはじめ、千畳敷御殿や山里丸、極楽橋などが再現されている。写真/大阪城天守閣

地中で眠っていた秀吉時代の石垣

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大きさも種類も様々な石材が積み上げられた詰ノ丸の石垣。写真/大阪城天守閣
秀吉が築いた大坂城の本丸を描いた『豊臣時代大坂城本丸図』。江戸幕府の京都大工頭・中井家に伝わった図を模写したもの。大阪城天守閣蔵 写真/大阪城天守閣

秀吉時代の石垣を展示する「豊臣石垣館」

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写真/大阪城天守閣

令和7年春に開館した、秀吉が築いた大坂城の詰ノ丸の石垣を公開する施設。本物の石垣を見ながら大坂城に思いを馳せる石垣展示ホール(地下階)と、豊臣期の石垣をわかりやすく解説するガイダンスルーム(地上階)で構成される。

住所:大阪市中央区大阪城1-1
電話:06・6941・3044(大阪城天守閣)
開館時間:9時〜18時(最終入館は17時30分まで)
料金:1200円(大阪城天守閣観覧料含む)
定休日:12月28日〜1月1日
交通アクセス:JR大阪城公園駅・森ノ宮駅、地下鉄谷町四丁目駅より徒歩約20分

取材・文/藪内成基

※この記事は『サライ』本誌2026年2月号より転載しました。

2月号は大特集『謎解き「豊臣秀吉」』

 

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