文/一乗谷かおり

ここに、一枚の絵があります。『童子経曼陀羅』といって、小児の命を守り寿を祈願する修法の本尊として古くから密教で大切にされてきた曼荼羅の一種です。

〈紙本著色訶梨帝母乾闥婆王像(童子経曼荼羅図)

絵の下部におそろしい形相で座っている主尊の乾闥婆王(けんだつばおう)は、胎児や小児に禍を成す十五鬼神を縛すとされており、その右手に掲げられた戟の先には、十五鬼神の首が突き刺さっています。

その乾闥婆の周りには、恐れをなしてその様子を眺めている十五鬼神が描かれています。十五鬼神の中には、牛やら馬やらなじみ深い動物もいます。どうしてこれらが小児に害をなすとされたのかは、よくわかりません。

そして乾闥婆の左側下段にご注目ください。そこには「猫」が描かれています。

明王院所蔵の『訶梨帝母乾闥婆王像(童子経曼荼羅図)』に描かれた猫鬼神。赤い首輪をつけておどけているようで、むしろかわいらしい。

我らが愛すべき猫も、子供に害をなす悪しき鬼神のひとつとして挙げられているのです。いったい何故?

■仏教では嫌われ者だった猫

実はもともと猫は、仏教ではあまり歓迎されない動物でした。『猫の古典文学誌』の著者・田中貴子さんによると、猫のことを良く書いてある仏典は皆無に等しいそうです。むしろ、悪いことをすると猫に生まれ変わる、といったようなことが記されているものがほとんどだとか。

(実際には猫好き僧侶は歴史を通して国内外に多くいたようですが……)

また古来、中国では子供を苦しめる「猫鬼」の存在も恐れられており、鎌倉時代には既に日本に伝えられていたといいます。中国では子供の夜泣きは猫の怪異によるものだといわれ、日本では猫鬼は病気を媒介するとされました。後には「猫又」なる化け猫も日本の怪談の一大スターとして登場することになります。

猫は、確かに神秘的です。犬と違って人のいうこともあまり聞かず自由奔放なところがあり、闇夜では目を光らせ、俊敏な動きで鼠や小鳥を捕らえる様子は、昔の人には小さな鬼のように見えたかもしれません。

しかし、猫は本当にそんなに悪い鬼なのでしょうか? 猫たちの様子を見ていると、むしろ猫たちこそ何をしでかすかわからない人間の子供に怯えているようにさえ見えます。

■神として崇められた猫の特別な能力

そもそも、いくら仏教が猫を好きではないといっても、大事な経典を守ってくれたのは、猫たちでした。

もともと日本には猫(イエネコ)は存在しませんでしたが、経文などを鼠害から守るために遣唐使船などに乗せられて日本にやってきたことが知られています。古代エジプト神のバステトは有名ですが、日本の猫もその有益性から、やがて神として崇められるようにまでなりました。

猫の有益性とはつまり、本業ともいうべき「鼠捕り」の能力です。日本に限ったことではありませんが、昔は鼠による様々な被害は生活を脅かすものでした。

江戸時代に書かれた有名な御伽草子『猫の草紙』には、鼠による害の一端が法師の言葉として記されています。いわく、鼠たちは「私のような一人暮らしの法師が傘を張って立てておけばたちまち柄を食い破ってしまうし、檀家をもてなそうと思って煎り豆や座禅豆を用意すれば一夜で食い尽くしてしまう。袈裟や衣のみならず、扇や書物、襖に貼る紙、屏風、かき餅、干し豆腐でもなんでもダメにしてしまう」のでした。

市街に住む法師の寺でさえこのありさまでしたから、米などの作物を作る農家や、蚕を育てて絹をとる農家はたまったものではありませんでした。とくに養蚕の盛んな地方では、絹をとる前の繭を破って中の蚕を食べてしまう鼠の害は、深刻なものでした。

そうした農家でももちろん猫は飼っていたでしょう。でも、それだけでは心もとなく、人々が家の柱などに貼ったのが「猫のお札」でした。

■神社のお札になった猫

猫のお札は、猫の姿を刷って神社の御神爾(印)を押した「鼠除け札」の神札です。そう、養蚕農家の人々は鼠たちから蚕を守る神様として猫の姿に手を合わせていたのです。

今も授与されている猫神様の護符。左から猫地蔵、大日神社、笠山神社(以上埼玉県)、八海山尊神社(新潟県)。猫地蔵以外は養蚕の守り神として崇敬を集めた。

猫のお札を頒布する神社は、今も埼玉県や山梨県、新潟県などに点在します。その多くが山の上にあるのは、お猫様に山頂から麓の村々をあまねく見渡し、鼠害を防いでもらおうという切実な思いから。

猫のお札は頒布していないものの、鼠害から蚕を守る猫神様を祀ったり、狛犬ならぬ狛猫を置いたりする神社もあります。蚕を飼う部屋に猫絵を貼り付けて鼠除けにしたことも、現存する猫絵や養蚕の様子を描いた浮世絵などからもわかっています。

仏教の影響下で鬼扱いされる一方で、ありがたい神様として崇められた猫。でも、猫が鼠を捕まえるのは事実ですが、猫の怪異のせいで子供が夜泣きをするとか、猫又だとかいった現象は確認のしようがありません。猫と暮らす人々にとっては、猫は「一家に一台」は必要な有能な鼠捕り名人という面の方が勝っていたのではないでしょうか。

そして何より、やはり猫はかわいい。鬼だろうが神だろうが、鼠捕りの任務がなくなった現代では大切な家族の一員です。

文/一乗谷かおり

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