有楽苑
有楽苑
写真:photoAC

はじめに-織田有楽斎とはどのような人物だったのか

テレビ朝日系『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』にも登場する織田有楽斎(おだ・うらくさい、演:西岡徳馬)は、織田信長の弟として生まれ、本能寺の変を生き延び、豊臣秀吉、徳川家康(演:内藤剛志)、豊臣秀頼らの時代を生きた武将・茶人です。

「有楽斎」は剃髪(ていはつ)後の号で、茶人としては当代一流の人物として知られました。

その一方、政治の世界では非常に複雑な立場にありました。

本能寺の変後には秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは家康率いる東軍に参加。そして、関ヶ原後には大坂城に入り、姪にあたる淀殿(演:栗山千明)と、その子・豊臣秀頼を支えています。

ところが、慶長19年(1614)に徳川家と豊臣家の対立が戦争へ発展すると、有楽斎は豊臣方にいながら家康との和議を模索しました。そして慶長20年(1615)の大坂夏の陣が始まる前に、大坂城を去っています。

『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』では、真田幸村(史実上の名は信繁)と十勇士たちが、豊臣家を助けるため徳川家康との決戦へ向かっていきます。

では、同じ大坂城に身を置きながら、戦いを避けようとした織田有楽斎とは、一体どのような人物だったのでしょうか?

織田有楽斎が生きた時代

有楽斎が生まれた天文16年(1547)は、父・織田信秀(おだ・のぶひで)が尾張を中心に勢力を拡大していた時代です。兄・信長は、その後尾張を統一し、足利義昭(あしかが・よしあき)を奉じて上洛。天下統一へ向けて急速に勢力を広げました。

しかし天正10年(1582)、本能寺の変で信長が死去します。その後、織田家中では後継者をめぐる争いが起こり、最終的には豊臣秀吉が天下人への道を歩んでいきました。

有楽斎は、その秀吉に仕えます。そして秀吉の死後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川家康側につきました。ところが、その後は豊臣秀頼・淀殿母子を補佐するため、大坂城へ入ります。

有楽斎の人生には、織田信長の時代、豊臣秀吉の時代、徳川家康の時代という、戦国末期の三つの大きな政権の移り変わりが重なっています。

織田有楽斎の生涯と主な出来事

織田有楽斎の生年は天文16年(1547)、元和7年(1621)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

織田信長の弟として生まれる

織田有楽斎は天文16年(1547)、織田信秀の子として生まれました。『国史大辞典』(吉川弘文館)では信秀の十一子とされています。

兄は、織田信長です。幼名は源五、あるいは源五郎。名を長益といい、のちに剃髪して有楽斎如庵と号しました。信長とは13歳ほど年齢が離れています。

信長騎馬像
若き日の織田信長像
写真:photoAC

兄が戦国史の表舞台を駆け上がっていく一方、長益自身については、信長存命中の活動を詳しく伝える資料は多くありません。彼の名が大きく歴史に現れるのは、信長が亡くなる本能寺の変以後です。

本能寺の変を生き延びる

本能寺跡
本能寺跡
写真:貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

天正10年(1582)6月2日、明智光秀が織田信長を襲撃した本能寺の変が起こります。このとき長益は、信長の嫡男・織田信忠(おだ・のぶただ)らとともに京都の二条御所にいました。

そこも明智軍の攻撃を受けます。信忠はこの戦いで自害しましたが、長益は脱出し、難を逃れました。兄・信長と甥・信忠が同じ日に命を落とす中、有楽斎は生き残ったのです。

この後、織田家の主導権をめぐる争いが本格化していきます。

甥・信雄とともに秀吉へ対抗

本能寺の変後、長益は甥の織田信雄(おだ・のぶかつ)と行動をともにしました。信雄と豊臣秀吉の関係が悪化すると、長益も秀吉に対抗する側に立ちます。しかし、その後は秀吉と和解し、臣従しました。

剃髪して「有楽」と号し、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)を務めます。御伽衆とは、主君の近くに仕え、話し相手となったり、知識や経験を提供したりする役目です。

摂津国(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)島下郡味舌に2,000石を与えられ、従四位下侍従にも任ぜられました。信長の弟という血筋だけではなく、教養や人柄も、秀吉のそばに仕える上で生かされたのでしょう。

秀吉の茶会にもたびたび参加

有楽斎を語る上で欠かせないのが、茶の湯です。若いころから茶に親しみ、千利休から台子(だいす)の作法を学んだとされています。秀吉の茶会にもたびたび出席しました。

千利休像
千利休像
写真:photoAC

文禄元年(1592)には、秀吉の名護屋出陣に同行して九州へ赴き、博多の豪商・茶人である神屋宗湛(かみや・そうたん)の茶会に、秀吉とともに招かれています。さらに有楽斎自身も名護屋の陣中で茶会を開きました。

利休七哲の一人に数えられることもありますが、『日本大百科全書』(小学館)では、むしろ七哲という枠を超えた「別格」の存在だったとしています。利休だけでなく、侘茶の先駆者である村田珠光(むらた・じゅこう)や武野紹鴎(たけの・じょうおう)にも心を寄せました。

のちには「有楽流」と呼ばれる茶の流派を開き、利休亡き後の茶の湯を代表する人物の一人となります。

関ヶ原では徳川家康側につく

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起こります。有楽斎は徳川家康に従って上杉征伐に参加し、その後、関ヶ原へ向かいました。そして東軍の一員として石田三成方と戦い、武功を挙げます。

関ヶ原古戦場
関ヶ原古戦場
写真:貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

その功績によって従来の所領を安堵されるとともに、大和国(現在の奈良県)山辺郡に新たな領地を与えられました。合わせて3万石を領する大名となります。

本能寺の変後には秀吉に仕え、その秀吉亡き後は家康側につく…。これだけを見ると、情勢に合わせて主君を変えた人物にも見えるかもしれません。

しかし、有楽斎の人生は、ここからさらに複雑になります。

徳川方でありながら、大坂城へ

関ヶ原後、有楽斎は大坂城に入ります。理由の一つが、豊臣家との血縁でした。淀殿は、浅井長政とお市の方の娘です。

大阪城
現在の大阪城
写真:photoAC

お市の方は織田信長の妹ですから、有楽斎にとっても妹にあたります。したがって、淀殿は有楽斎の姪、豊臣秀頼はその姪の子という関係になります。有楽斎は淀殿の叔父として、大坂城で淀殿・秀頼母子を補佐しました。

しかし、徳川家との関係を断ったわけではありません。『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、有楽斎は駿府や江戸と連絡を取り、大坂城内の情報を徳川方へ伝えていたとされています。

豊臣家の親族でありながら、家康ともつながっている。有楽斎は、徳川と豊臣の間に位置する人物だったのです。

大坂の陣|有楽斎は「戦うべきではない」と主張

慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件などを経て、徳川家と豊臣家の対立が決定的となります。

方広寺
写真:photoAC

有楽斎は秀頼・淀殿母子に対して、徳川氏と戦うべきではないと説いたとされています。戦争が始まってからも大坂城内に残りましたが、和平を目指す姿勢を崩しませんでした。

『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、有楽斎は家康の意向を受けながら、豊臣方との和議の斡旋に努めています。

冬の陣で和議の成立に尽力

慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、大坂城を徳川の大軍が包囲しました。城内では真田信繁をはじめとする浪人衆が奮戦します。しかし戦いは長期化し、最終的に両者は和議を結びました。

有楽斎はこの和平交渉に関わった人物の一人です。この行動を見ると、彼が大坂城に入った目的も見えてきます。

豊臣家を徳川との戦争へ導くためではなく、むしろ姪の淀殿や秀頼を守るため、両家の衝突を何とか避けようとしていたのでしょう。

なぜ大坂城を去ったのか?

ところが、冬の陣の和議後も、徳川家と豊臣家の緊張は続きました。大坂城内では、再び徳川と戦うことを主張する勢力が強まっていきます。有楽斎が求めていた和平路線は、次第に通らなくなりました。

そこで慶長20年(1615)、大坂夏の陣が始まる前に、有楽斎は大坂城を退去します。『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、これは家康の許可を得た上での退去でした。

有楽斎は領地3万石のうち、戒重1万石を四男・長政に、柳本1万石を五男・尚長に分け、自らは1万石を養老料として残しました。

そして、大坂夏の陣には参加しませんでした。真田信繁らが豊臣家と運命をともにする道を選んだ一方、有楽斎は城を離れたのです。

そのため、後世から見れば「豊臣家を見捨てた」と映るかもしれません。しかし、有楽斎はそれ以前から徳川との戦争に反対し、和議を模索していました。

主戦派が多数を占め、自らの和平策が通らなくなった末の退去だったことを踏まえると、単なる「逃亡」や「裏切り」と決めつけることはできないでしょう。

京都で茶の湯に生きる

大坂城を離れた有楽斎は京都に移ります。その後、東山の建仁寺の塔頭・正伝院を再興し、隠棲しました。政治と戦争の世界から距離を置き、晩年は茶の湯に親しみます。

信長の弟として戦国のただ中に生まれ、本能寺の変を経験し、秀吉に仕え、関ヶ原では家康方として戦い、最後には大坂城で徳川と豊臣の和平を模索した有楽斎。

晩年にたどり着いたのは、若いころから愛した茶の世界でした。

国宝の茶室「如庵」を残す

有楽斎が晩年に建てた茶室として有名なのが「如庵」です。もとは建仁寺正伝院内につくられました。

二畳半台目の小さな茶室で、壁の腰張に暦の反古を使っていることから、「暦張の席」とも呼ばれています。現在は愛知県犬山市の有楽苑に移築され、国宝に指定されています。

有楽苑
有楽苑
写真:photoAC

『日本大百科全書』(小学館)によれば、「如庵」という名は、有楽斎のキリシタンとしての受洗名「ジョアン」に由来するとされています。

戦国武将の茶室が400年以上を経た現在まで残されていることからも、有楽斎が茶の湯に残した足跡の大きさがわかります。

「有楽町」に今も残る名前

有楽斎の名前は、東京の街にも残っています。「有楽町」です。有楽斎は家康から、江戸の数寄屋橋門外に屋敷を与えられました。

『国史大辞典』(吉川弘文館)では、その屋敷跡が「有楽町」と名づけられ、現在までその名が残ったとされています。

写真:photoAC

元和7年(1621)、75歳で死去

有楽斎は元和7年(1621)12月13日、京都東山で亡くなりました。75歳でした。墓は建仁寺正伝院にあります。

天文16年(1547)に生まれた有楽斎は、兄・信長よりも長く生き、秀吉の死、徳川幕府の成立、大坂の陣までを見届けました。

まさに戦国から江戸への時代の転換を、最初から最後まで生きた人物だったのです。

まとめ

本能寺の変、秀吉の天下、関ヶ原、大坂の陣…。織田有楽斎は、数々の政変をくぐり抜け、その都度、争いのなかで生き残る道を探し、最後には茶の湯へ戻っていった人物でした。

国宝の茶室「如庵」、そして東京の「有楽町」。現代にも残る二つの名前は、戦うだけではなかった戦国武将・織田有楽斎の、もう一つの生き方を伝えているのではないでしょうか。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

Instagram:@kyoto_monokaki
note:@kyoto_monokaki

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

アイキャッチ画像/photoAC(一部加工)

 

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