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はじめに-大友宗麟とはどのような人物だったのか
大友宗麟(おおとも・そうりん)は、戦国時代の九州を代表する大名の一人です。
一般には「キリシタン大名」として有名ですが、それだけでは宗麟という人物を十分に語ることはできません。
本名は大友義鎮(おおとも・よししげ)。豊後を本拠に勢力を広げ、一時は豊後(現在の大分県)、豊前(現在の福岡県東半部と大分県北部を占める地域 )、筑前(現在の福岡県北西部)、筑後(現在の福岡県南部)、肥前(現在の佐賀県及び壱岐・対馬を除く長崎県)、肥後(現在の熊本県)の6か国に影響力を及ぼす、九州屈指の戦国大名となりました。
また、フランシスコ・ザビエルと会見してキリスト教の布教を保護し、南蛮貿易にも力を入れました。
しかし、天正6年(1578)の耳川の戦いで島津氏に大敗すると、大友氏の勢力は大きく後退します。やがて島津氏の圧力に耐えきれなくなった宗麟は、自ら大坂へ向かい、豊臣秀吉に救援を求めました。
宗麟の生涯には、戦国大名の栄光と衰退、信仰と政治、そして南蛮文化への強い関心が交錯しています。
大友宗麟が生きた時代
大友宗麟が生きた16世紀は、全国各地の戦国大名が領国を広げ、武力と外交によって勢力を競い合った時代です。九州でも、大友氏、島津氏、龍造寺(りゅうぞうじ)氏などが各地で勢力を伸ばしていました。
一方、海の向こうからはポルトガル人が来航し、鉄砲、キリスト教、西洋医学、南蛮貿易など、新しい文化や技術が日本へもたらされます。宗麟の本拠である豊後府内は、その交流拠点の一つとなりました。
やがて中央では織田信長が勢力を拡大し、その死後は豊臣秀吉が天下統一を進めます。九州の大名たちも、地方同士の争いだけでなく、秀吉という全国規模の権力と向き合わざるを得なくなりました。
大友宗麟の生涯と主な出来事
大友宗麟の生年は享禄3年(1530)、天正15年(1587)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
大友氏の当主となる
大友宗麟は享禄3年(1530)、大友氏20代当主・大友義鑑(おおとも・よしあき)の長男として生まれました。幼名は塩法師丸(しおほうしまる)。のちに元服して義鎮(よししげ)と名乗りました。
天文19年(1550)、父・義鑑が「二階崩れの変」で横死すると、義鎮が家督を継ぎます。大友氏はすでに豊後を中心に勢力を持っていましたが、義鎮の時代にさらに大きく発展していきます。
九州6か国へ勢力を広げる
義鎮が家督を継いだ翌年、大内義隆(おおうち・よしたか)が家臣・陶晴賢(すえ・はるかた)に討たれました。義鎮は弟の晴英(はるひで)を大内氏の後継者として送り込み、「大内義長」と名乗らせます。
その後、毛利元就(もうり・もとなり)が勢力を伸ばし、大内義長が自刃に追い込まれたことにより大内氏は滅亡。しかし、大内氏の衰退は、大友氏にとって九州北部へ勢力を広げる好機でもありました。

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宗麟は豊前、筑前、肥前などへ進出し、やがて豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後の6か国の守護職を手中に収めます。一時は日向(現在の宮崎県)や伊予(現在の愛媛県)の一部にまで影響力を及ぼしました。
大友氏は、宗麟の時代に最盛期を迎えたのです。
フランシスコ・ザビエルと出会う
宗麟の名を語る上で欠かせないのが、キリスト教との出会いです。天文20年(1551)、宗麟は豊後府内でフランシスコ・ザビエルと会見しました。ザビエルは前年まで山口などで布教しており、宗麟はその教えに耳を傾けました。
この出会いをきっかけに、宗麟はキリスト教の布教を認め、宣教師たちを保護します。その後、府内には住院や礼拝堂が置かれ、孤児院や病院も建てられました。
また、のちには府内にコレジオ、臼杵(うすき)にノヴィシアードなども置かれ、豊後は日本におけるキリスト教布教の重要拠点となりました。
キリスト教保護の目的は「貿易」だけだった?
宗麟がなぜキリスト教に関心を持ったのかについては、見方が分かれています。
『世界大百科事典』(平凡社)では、初期の動機として南蛮貿易による利益を重視しています。一方、『国史大辞典』(吉川弘文館)では、宣教師たちの厳格な信仰生活、西洋文化、鉄砲・大砲・硝石などの新しい技術や物資への関心もあったとしています。
そして『新カトリック大事典』(研究社)では、宗麟の受洗そのものは、単なる利益や好奇心ではなく、長年の熟慮の末の信仰上の決断だったと評価しています。
実際、ザビエルとの出会いから宗麟が洗礼を受けるまでには、約27年もの歳月がありました。宗麟とキリスト教との関係を、単純に「貿易目当て」とするのは適切ではないでしょう。
南蛮貿易を積極的に進める
宗麟はキリスト教だけでなく、南蛮貿易にも積極的でした。豊後府内の外港・沖ノ浜にはポルトガル船が来航し、貿易が盛んに行われました。
『世界大百科事典』(平凡社)では、フィリピン方面へ貿易船を派遣したともされています。また、『日本大百科全書』(小学館)には朝鮮貿易を行ったことも記されています。
宗麟は西洋文化や海外交易を積極的に取り入れることで、領国の発展を図ろうとしていたのです。
臼杵へ移り、「宗麟」と号す
永禄5年(1562)ごろ、義鎮は臼杵の丹生島(にうじま)城へ移りました。そして剃髪し、「宗麟」と号します。
府内には長男・大友義統(おおとも・よしむね)を置きました。この時期から、宗麟と義統による二頭政治のような体制が形づくられていきます。
その後、宗麟は次第に家督を義統へ譲っていきますが、実際にはなお大きな影響力を持ち続けました。
北九州の覇者へ
宗麟の勢力拡大を脅かした最大の相手の一つが、毛利氏でした。永禄年間には、豊前や筑前で毛利軍と激しく争います。筑前立花城などをめぐって一進一退の攻防が続きました。
しかし、毛利氏が出雲(現在の島根県の東半部)の尼子氏や織田信長との戦いへ力を向けるようになると、九州から次第に手を引きます。その結果、大友氏は北九州支配を固めました。
宗麟にとって、天正6年(1578)ごろまでの約20年間は、大友氏の「黄金時代」といえる時期でした。
天正6年(1578)、キリスト教の洗礼を受ける
天正6年(1578)、宗麟はキリスト教の洗礼を受けました。洗礼名は「ドン・フランシスコ」。このとき宗麟はすでに隠居していました。

『新カトリック大事典』(研究社)によれば、宗麟は前妻と離縁し、ジュリアと呼ばれる女性と再婚しています。
また、宗麟の子どもたちのなかにもキリスト教徒になる者がいました。一方、大友家の有力家臣にはキリスト教への反発も強く、信仰をめぐって家中に対立が生じます。
宗麟にとってキリスト教への信仰は、個人的な問題にとどまらず、領国政治にも影響する問題となっていったのです。
耳川の戦いで大敗
宗麟の人生を大きく変えたのが、同じ天正6年(1578)の耳川の戦いです。大友氏は日向へ進出しましたが、島津義久(しまづ・よしひさ)率いる島津軍と戦って大敗しました。
この敗北を境に、大友氏の勢力は急速に衰えていきます。それまで従っていた国人たちの離反が相次ぎ、家臣団内部でも反乱が起こりました。
北九州に築いた広大な支配領域も崩れ始めます。九州最大級の勢力を誇った大友氏は、ここから一転して危機へ向かっていくことになります。
天正遣欧使節は宗麟が送った?
天正10年(1582)、九州のキリシタン大名の名のもとに、少年たちがヨーロッパへ派遣されました。いわゆる「天正遣欧使節」です。

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宗麟も、大村純忠(おおむら・すみただ)、有馬晴信(ありま・はるのぶ)とともに使節を送った人物として知られています。
ただし、この点については注意が必要です。『日本大百科全書』(小学館)でも、宗麟の発意だったかどうかについて疑問があるとしています。
『国史大辞典』(吉川弘文館)では、使節の出発まで宗麟は関知していなかった可能性を指摘し、巡察師ヴァリニャーノの布教政策の一環だったとしています。『世界大百科事典』(平凡社)では、宗麟名義の書状そのものを偽文書とする見方まで示されています。
したがって、「宗麟が自ら計画し、少年使節をローマへ送った」と断定するのは慎重であるべきでしょう。宗麟の名が使節と結びついていることは確かですが、その具体的な関与については議論が残されています。
島津氏の圧迫で大友氏は危機へ
耳川の大敗後、島津氏はさらに北上しました。筑前の岩屋城、宝満城、立花城なども攻撃され、大友氏の勢力圏は縮小していきます。
天正14年(1586)には、島津義弘(しまづ・よしひろ)が肥後方面から、島津家久が日向方面から豊後へ侵攻しました。
ついに本国・豊後そのものが脅かされる状況となったのです。この危機に際して、宗麟は重大な決断をしました。
大坂城で秀吉に救援を求める
天正14年(1586)、宗麟は自ら大坂城を訪れ、関白・豊臣秀吉に島津氏討伐の援軍を求めました。かつて北九州6か国を支配した大名が、天下統一を進める秀吉に直接救援を願い出たことになります。

『世界大百科事典』(平凡社)によれば、このとき宗麟が国元へ送った書状には、大坂城の様子や秀吉から受けた接待、秀吉やその側近たちの様子が、生き生きと記されているといいます。
宗麟にとって秀吉との出会いは、大友家の存亡を左右する外交でした。そして宗麟の求めに応じ、秀吉は翌天正15年(1587)、大規模な九州征伐を開始します。
秀吉の九州征伐と島津氏の降伏
天正15年(1587)、秀吉の大軍が九州へ進軍。島津軍は後退し、最終的に秀吉へ降伏します。これによって、大友氏は島津氏による滅亡の危機から救われました。
九州平定後、秀吉は大友義統に豊後一国を与え、宗麟には日向一国を与える意向を示したとされています。
しかし宗麟は、日向を受け取ることを辞退しました。かつて日向進出を目指し、耳川で大敗した宗麟が、その日向一国を与えられるという提案を退けたことになります。
晩年の宗麟が、すでに領土拡大よりも別の生き方を選んでいたことを思わせる出来事です。
晩年は津久見で信仰生活
宗麟は晩年、後妻ジュリアとともに津久見(つくみ)で暮らしました。このころはキリスト教への信仰をいっそう深めていたとされています。宗麟はザビエルとの出会い以来、宣教師たちと交流する一方で、禅にも親しんでいました。
茶人・島井宗室(しまい・そうしつ)ら文化人とも交わり、ポルトガル国王へ手紙を送るなど、国際的な交流にも関心を持っていました。戦国武将でありながら、宗教、貿易、文化に幅広く関心を持った人物だったのです。
寺社を焼いたという話は本当?
キリシタン大名・宗麟には、「キリスト教に入信した後、寺社を破壊した」という話も伝わっています。
しかし、この点にも注意が必要です。『世界大百科事典』(平凡社)では、宗麟が大名として活動していた時代に大規模な寺社破壊を行った事実はほとんど確認できず、長男・義統による寺社圧迫や戦火による被害が、宗麟の行為として誤って伝えられた例が多いとしています。
『国史大辞典』(吉川弘文館)も、宗麟による寺社焼却の伝承には誇張された面があるとしています。宗麟を「キリスト教に熱中して寺社を焼き払った大名」と単純に描くのは、史実に即した理解とはいえないでしょう。
天正15年(1587)、津久見で死去
秀吉による九州平定が実現した直後、宗麟は天正15年(1587)5月23日、津久見で亡くなりました。58歳でした。『国史大辞典』(吉川弘文館)では、疫病による死とされています。
墓は現在の大分県津久見市にあります。『国史大辞典』(吉川弘文館)によると、法諡は「瑞峰院殿瑞峰宗麟大居士」。
大友氏の最盛期を築き、その衰退を見届け、最後には秀吉の力によって領国の滅亡を免れた宗麟。その生涯は、九州の戦国史そのものを映すような激しい浮き沈みに満ちていました。
まとめ
大友宗麟は、九州6か国を支配した覇者であり、南蛮文化を積極的に受け入れた文化人であり、晩年には領国の危機に直面したキリシタン大名。
栄光と挫折、政治と信仰、戦争と文化…。そのすべてが交差するところに、大友宗麟という戦国大名の魅力があるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
Instagram:@kyoto_monokaki
note:@kyoto_monokaki
アイキャッチ写真/photoAC(一部加工)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『新カトリック大事典』(研究社)







