
ライターI(以下I):『豊臣兄弟!』第33回です。前週描かれた賤ヶ岳の戦いは、天正11年(1583)4月20日、21日。柴田勝家(演・山口馬木也)は敗走し、居城である北庄城(北ノ庄城)に戻ります。
編集者A(以下A):冒頭で小一郎(演・仲野太賀)が降伏するように仕向けようと進言しましたが、秀吉(演・池松壮亮)に一蹴されました。4月21日に賤ヶ岳で戦っていた秀吉軍は、敗走する柴田軍を追走し、24日には北庄城(北ノ庄城)での攻防に転じて、城を落とし、柴田勝家、市(演・宮崎あおい)夫妻が命を絶たれるという、まさに怒涛の展開となったのです。
I:秀吉といえば、三木城や鳥取城を攻めたときは兵糧攻めでしたが、柴田勝家に対しては、一気呵成に攻め立てたんですね。それだけ兵力の差があったということでしょうか。思えば、「本能寺の変」が天正10年(1582)6月2日。同月27日に清須会議が行なわれて「新体制」が合意されたにもかかわらず、12月に織田信孝(演・結木滉星)が挙兵して、すぐに秀吉に降伏。冬の間は実質休戦ということでしたが、春の訪れとともに決戦となりました。
A:信長(演・小栗旬)の死から1年も経たないうちに、筆頭家老柴田勝家が滅ぼされるというスピードです。柴田勝家は足利義昭(演・尾上右近)や毛利輝元(演・濱正悟)に味方してくれるように打診していたそうですから、秀吉としては間髪入れずに攻め滅ぼしたかったのでしょう。
I:やっぱり、前田利家(演・大東駿介)が秀吉方についたことが大きかったのでしょうね。
A:よく前田利家の行動は「裏切り」とか「寝返り」とか言われたりします。前週の腕相撲大会での柴田勝家と前田利家の様子をみると、ふたりは「主従関係」にあるようにも見えますが、実際には「主従」ではありません。利家は信長の命で、合戦などの際は勝家配下に組み入れられるという「与力」の立場です。先輩、後輩の「上下関係」はありますが、柴田勝家と前田利家は織田家中の中では同僚にすぎません。
I:なるほど。
A:同様の関係が、明智光秀(演・要潤)と細川藤孝(演・亀田佳明)、筒井順慶(演・永沼伊久也)です。細川藤孝も筒井順慶も光秀の与力でしたが、ふたりとも「本能寺の変」の後に光秀に味方することはありませんでした。細川藤孝は光秀与力という関係に加えて、嫡男忠興の正室が光秀息女のたま(後の細川ガラシャ)ということで縁戚関係にもありましたが、それでも光秀には味方しなかった。それを考えると、利家が羽柴秀吉についたことも、「裏切り・寝返り」とはちょっと違うのではないかと思ったりします。
I:それにしても、柴田勝家と市が天守閣から飛び降りるという展開は想像だにしませんでした。
A:今まで見たことのない「最期」でしたね。柴田勝家と市の婚姻は清須会議で決められたことです。ですから会議を起点としてもわずか10か月ほどの短い夫婦関係でした。にもかかわらず、胸熱の場面になったのは、山口馬木也さんと宮崎あおいさんの熱演のなせる技なのでしょう。
I:ほんとそうですよね。
A:山口馬木也さんの勝家、宮崎あおいさんの市、最高でしたよね。
I:そうした中で、山口馬木也さんからコメントが寄せられました。勝家と市の最期に触れた個所を引用したいと思います。
お市様とのシーンでは、さまざまなことに本当に助けられました。
まず、お市様を守る場面での立ち回りですが、当初は勝家がお市様を安全な場所へ避難させ、ひとりで立ち向かう流れだったんです。けれど演出の方の熱い思いをうけて、このシーンで初めて勝家とお市様が手をつなぎ、その手を離さないまま立ち回ることになりました。
演じていて不思議だったのは、勝家がお市様に守られているような感覚になったことです。もちろん勝家はお市様を守ろうとしていますが、逆に自分も守られていることが、つないだ手から自然と伝わってきまして。もしこのシーンについて宮崎さんとお話しする機会があれば、きっと「そうですね」と言ってくださる気がします。
そして、勝家とお市様が天守から身を投げる最期の場面について、これは俳優としての感覚の話になりますが、以前、勝家とお市様がともに眠るお墓を訪れたときに「このふたりはずっと一緒にいられるんだ」と感じたんです。その思いが、最期の場面に向き合ううえでの大きな支えになりました。役としての思いとはまた別の話になりますが、俳優としてはそうした感覚も大切にしています。
I:なんだかいい話ですね。福井市の勝家、市の墓所にお参りしていたのですね。山口馬木也さんと宮崎あおいさんの「勝家と市」。長く語り継がれる「夫婦」になりそうですね。

なぜ、中川清秀の息子が秀吉に許されるのか
I:前の週の賤ヶ岳の戦いでは、秀吉方の中川清秀(演・すがおゆうじ)が摂津一国を与えるという密約を条件に柴田方に寝返るという場面がありました。実際には、中川清秀は柴田方の佐久間盛政(演・遠藤雄弥)に討ち取られたというのが通説なので、SNSなどでは物議をかもしました。
A:そうした中で、秀吉が中川清秀の嫡男秀政(演・大友至恩)を呼び出して、「そなたの父は、我らのために命をかけて戦ってくれた。惜しいもののふを亡くしたものよ。のう、中川殿。これからも、この筑前のために力を貸してくだされ。よいな」と声をかけたのです。
I:劇中で、羽柴を裏切ったと設定された中川清秀ですが、その子孫は、九州の豊後国岡藩主として明治まで存続しています。いったい何が起こったのか理解不能でした。辻褄をあわせようということなのでしょうか。ちょっと謎展開でした。
千宗易の登場
I:さて、今週のトピックスのひとつが、吉岡秀隆さん演じる千宗易の登場です。柴田勝家と市の最期を見届けて、ショックを受けた小一郎が、大徳寺に引きこもってしまっていました。
A:過去作の大河ドラマでは、小一郎と宗易はもっと早く絡んでいる作品もあるのですが、『豊臣兄弟!』では、どうやら大徳寺に出入りしていた千宗易とはすでに見知った間柄になっていたと見受けられました。
I:大河ドラマの千宗易といえば、これまで12作品で登場しているようです。
A:印象に残っているのが、鶴田浩二さん(1978年『黄金の日日』)、仲代達矢さん(1996年『秀吉』)、古谷一行さん(2002年『利家とまつ~加賀百万石物語』)、石坂浩二さん(2011年『江 姫たちの戦国』)です。実際に茶道をしているIさんからみて、吉岡秀隆さんの千宗易はどういった印象でしたか。
I:今までの大河ドラマに登場してきた千宗易あるいは千利休は、物腰柔らかながらどこか哲学的な佇まいで、一家言持っているといった感じでしたが、吉岡さんの千宗易には意表を突かれました。お茶みたいな苦い物は好きじゃない、甘いものが好きで、それを楽しむために苦いお茶を飲んでいる、なんてにこにこしながら言ったり、小一郎が家族にも甘くおいしいものを食べさせてあげたい、といったら、「あかん、あかん!」といって、これ以上は分けてあげない、なんていうお茶目な千宗易、はじめてです。
A:千利休は当時としてはかなり大柄で、身長180センチはあったともいわれていますが、実際のところどうなのでしょう。180センチというのは利休所持とされる甲冑のサイズから類推したらしいですが、甲冑のサイズ、イコール身長というわけでもないですからね。大徳寺の山門に安置されている利休像は、利休生前の造像で、等身大だったといわれていますが、こちらも大きさがよくわかりません。ただ、今年10月14日から東京国立博物館で開催される「大徳寺 本朝無双之禅苑」で、初めて門外で公開されるそうなので、実際に利休がどれくらいの大きさの人物だったかはっきりすると思います。
もうひとつの「織田兄弟」哀しき末路
I:さて、柴田勝家の敗北で、勝家が擁していた信長の三男信孝は捕らえられ、尾張国内海で自害を強いられたと説明されました。
A:信孝が自害したのは、知多半島にある大御堂寺(愛知県美浜町)。「野間大坊」としても崇敬を集める古刹です。この寺は、かつて源頼朝の父義朝が殺害された場所でもあります。同寺のホームページには、次のように説明されています。
京都の平治の乱で、平清盛に敗れた「源義朝」がこの『大御堂寺』のある野間へ家臣を頼ってやってきました。その家臣(長田忠致・景致)の裏切りに遭い、義朝公はこの地、野間で殺されてしまいました。謀反の際、「我に木太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん」と無念の死をとげた義朝公のため、木太刀が奉納されています。義朝公のお墓や、御首を洗ったとされる「血の池」等、そのゆかりが境内に多数あります。後に源頼朝公が、亡くなった源義朝公の菩提を弔うために、建久元年(1190)に開運延命地蔵尊(お地蔵様)と不動明王・毘沙門天を納めました。そして七堂伽藍を造営します。
I:私は愛知県出身なので、野間大坊のことはよく知っているのですが、実際にお参りしたことがありませんでした。
A:大御堂寺のご住職が、源義朝の最期についての絵解きをやられています。雑誌『サライ』で取材をさせていただいたこともあります。源義朝ゆかりの地で、織田信孝が切腹したというのは感慨深いですね。
I:それにしても、秀吉、小一郎兄弟のように、仲のよい兄弟がいる一方で、弟信孝を切腹に追いやる織田信雄(演・山脇辰哉)という強烈なアンチテーゼですよね。
A:織田信孝の辞世と伝えられているのが、
昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前
です。内海は当地の内海荘のことを言い表すのと同時に「討つ身」とかけているのです。「報いを待てや 羽柴筑前」というのは穏やかではありませんね。
浅井三姉妹と寧々の対面

I:今週は、浅井三姉妹と寧々(演・浜辺美波)との対面もみどころのひとつでした。寧々の出番をもっともっと増やしてほしいと熱望している私ですが、最近めっきり女主らしくなってきました。
A:秀吉と小一郎が月代を剃って登場した場面については、別記事をご覧いただきたいのですが、その場で、秀吉から発せられた台詞は、グッとくるものがありました。
I:「百姓だったわしが天下人となれば日の本中があっと驚くであろう。これほど面白きことはないではないか」「どんなものでもわしのようになれると皆に夢を見せてやりたいのじゃ。百姓も侍もともに笑って生きられる世を作る。これはわしにしかやれぬことよ」。
A:身分ががんじがらめに固められていたのが中世です。戦国時代になって下剋上という言葉とともに、身分の下の者が上のものを乗り越えていくことが珍しくない時代になったとはいえ、農民から武士となり、出世の階段を昇っていき、ついには関白にまで昇り詰めるという出世劇は、日本の歴史上最大のサクセスストーリーです。
I:あの場面は、秀吉一世一代の「宣言」の場だったのですね。
A:秀吉のような為政者は後の歴史でもいないわけではありません。ひとりが長州藩の足軽身分から明治維新後に初代内閣総理大臣に登り詰めた伊藤博文、学歴がないにもかかわらず、戦後に代議士となり、あれよあれよと自民党の中で出世して総理大臣になった田中角栄。
I:いずれも「今太閤」と称された為政者ですね。
A:以前、田中角栄の国家老=地元秘書を務められた本間幸一さんに「Aさんなどは、田中角栄のことをガチガチの保守政治家だと思っているかもしれませんが、初当選のときの田中角栄は革新政治家だったんです」といわれました。どういうことかというと、当時の政治家は地主や資産家などの「旦那政治」が主流で、そうした中で、学歴もなにもかもなかった田中角栄は、旦那政治を打ち破ったということで革新政治家だったんだ、というのです。なるほど、確かにそうかもしれないと感じたものです。
I:格式などでがんじがらめになっていた「中世」の常識を破壊して、新たな秩序を構築した信長、秀吉は「革新」だったといいたいのですね。
A:そうです。常識を覆すことができた、稀有な人物だったといえます。

※宮崎あおいの「崎」は正しくは「たつさき」。
●編集者A:書籍編集者。かつて『完本 信長全史』(「ビジュアル版逆説の日本史」)を編集した際に、信長関連の史跡を徹底取材。本業では、11月10日刊行の『後世に伝えたい歴史と文化 鶴岡八幡宮宮司の鎌倉案内』を担当。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好き。愛知県出身なので『豊臣兄弟!』を楽しみにしている。神職資格を持っている。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり











