
責任ある仕事を任され、日々想定外のトラブルや調整に追われる50代。翌日のためにも、しっかり休息をとりたいのに…。いざ眠ろうと目を閉じても、脳内が鎮まらない。そんな、睡眠にまつわる悩みを抱えた大人は、少なくありません。
本連載では、国際中医専門員である志村幸枝先生が、中国伝統医学の知恵から、心と体の違和感について、そのサインを読み解いていきます。今日は、不眠の悩みを抱えた男性が、相談室を訪れています。
【今日のお悩みカード】
相談者:54歳 男性(中学校教師)
主な症状:クタクタなのに、頭が冴えて寝つけない。ベッドに入ると、「ひとり反省会」が始まってしまい、気づけば朝3時。
「疲れているのに眠れない」原因は脳なのか?
疲れた様子で腰を下ろした相談者は、ため息混じりにこう切り出しました。
「志村先生、教職について30年近くになりますが、ここ数年、疲れがとれにくくなったと感じています。先日もトラブルが重なって、帰宅する頃にはクタクタだったのですが…。夜になっていざ目を閉じると、頭が冴えて眠れない。『あの時、ああ言えばよかった』と昼間の光景が次々浮かんできて、ひとり反省会です。気がつけば3時、4時まで意識がある、なんてことが増えていて…」
志村先生は静かに頷きながら、答えました。
「睡眠に関するご相談は、本当に多いです。わかりやすいのは、考え事や心配事があると、頭がさえて眠れないパターンですね。若いときは数日すれば元に戻って、眠れることが多かったと思います。それが50代に差し掛かるとそうはいかなくなってきます」
50代の不眠を招く「冷却水不足」と「脳の疲労」
「不眠の原因としては、いくつか考えられます。中でも50代の方に多いと感じるのは『腎(じん)』の衰え、もうひとつは『心脾(しんぴ)』の疲れです」
そう言って、志村先生は話し始めました。
加齢と共に進む「腎」の衰え
「中医学では『腎』を『生命エネルギーの源』として考えます。いわば『命のエッセンス』を蓄えている場所なので、充実していれば疲れにくく、気力に満ちています。

でも50代は、その『生命エネルギーの源』が少しずつ弱り始める年代です。さらに『腎』には、体の潤い、いわば『冷却水』のような役割もあります。この力が下がると、体はまるでオーバーヒートしているかのような状態になりやすい。日中の活動で生まれた熱や興奮が、鎮まりにくくなり、やがて不眠にもつながります。
もしかして、口の渇き、体のほてり、じっとりとした寝汗をかくことって、ありませんか?」
言い当てられた相談者は、驚いて思わず口にしました。
「それ、全部あります…。なぜ分かるんですか?」
「これらはすべて、『腎』の消耗と、冷却水の不足、という体からのサインなんです」
脳内反省会は、「心脾」が疲弊しているサイン
志村先生は続けます。
「もうひとつ、忙しく働く50代男性に多いのが、生命エネルギーの『気血』の巡りが悪くなり、脳に過度な負担がかかることで起こる、不眠です。
周囲に気をつかい続け、常に何かを考えている思慮深い方に多く見られます。
中医学では、健やかな精神活動や眠りにとって大切なのは、体に十分な栄養や血液(気血)が巡っていること、と考えています。この『気血』を生み出して、全身へと運ぶためには、そもそも胃腸の働きが欠かせません。
食べたものから必要な栄養を補給できれば、心(こころ)が安定し、質のいい睡眠にもつながります。
しかし、過度な思い悩みや、ストレスが多い生活は、胃腸を弱める原因になります。ここから『気血』が不足し、脳を補うことができなくなってしまう。わかりやすいのは、健忘の症状です。精神活動が不安定になるのも同じことですね。
中医学では、この状態を『心脾両虚(しんぴりょうきょ)』と呼んでいます。

この状態になると、眠りが浅い、ちょっとした音で目を覚ます、といった不眠の症状が現れてきます。疲れているのに、眠れない。他にも食欲不振、疲れやすいなどの体の不調。気持ちに余裕がなくなる、不安感など、心の健康にまで、不調を感じやすくなります。
それだけではありません。最近、『あれ、何をしようとしたんだっけ?』という物忘れや、仕事中の集中力の低下を感じることはないでしょうか?」
男性は、しばらく黙り込んでから、ぽつりとこぼしました。
「…どうしてそれが分かるんですか? 物忘れについては、じつは悩んでいました。それに、考えがまとまらないときや、疲れていると生徒の名前が出てこないこともあります」
志村先生は静かにうなずき、口にしました。
「夜中の反省会も、思考の堂々巡りが着地してないご様子です。これも、『気血』の不足からバランスが揺らいでいるのかもしれませんね」
ベッドに入る前から「今夜の睡眠」は決まっている
健やかな眠りにつくために、中医学ではどんな生活を薦めているのでしょうか? ここから、志村先生は具体的なアドバイスを語ります。
「中庸」の意識を
「健やかな睡眠を得るために心がけて欲しいこと。それは、中医学が大切にしている『中庸(ちゅうよう)』です。食べ過ぎ、働き過ぎ、休み過ぎ、運動不足…こういった生活の過不足に、まずは気がつくこと。そこから多すぎる部分を抑え、足りないところを補う。そうやって『中庸』を整えていきます。
ただ、体はさまざまな要素から影響を受け、常に揺れ動くもの。常に『中庸』に留まり続ける、というよりは、『まあ、これくらいかな』、『ちょっとズレたから、整えようかな』そんな気楽な捉え方が、ちょうどいいように思います」
男性は、こう聞き返します。
「それなら、体が疲れすぎた日に、その分ゆっくりと眠ることは、バランスをとることになりませんか? 自分としては、不足した休息を補うことで、『中庸』を目指しているつもりなんですが…」
そう尋ねた男性に、志村先生は答えました。
「それは、疲れに対する事後のリカバリー(回復)に過ぎません。より根本的な解決を考えるときに大切なのは、疲れの『原因』に対してバランスを整えることなんです」
目指すのは「自然にスイッチが切れる体」
「頭ばかり使ったことが原因で疲れたのであれば、体を動かす。これがバランスをとる、ということです。例えば、通勤時に、1駅余分に歩いてみるのはいかがでしょうか?
この意識が身につけば、頭を使い過ぎていることに対して、先手を打つ感じになりますよ。
・忙しいと分かっている日は、スケジュールに余白を作っておく
・仕事の合間、意識的に、ぼんやりと窓の外を眺める時間を持つ
こうして、消耗の多い生活に和らぎを加えながら、穏やかな生活を続けることで、不眠で悩むことが減っていく。無理な働き方からも離れることができれば、無駄なトラブルやミスが減るかもしれません。そう考えると、中医学の考え方って色々なところにつながります。おもしろいですよね」
ここで志村先生は、漢方薬の考え方を紹介してくれました。これには特に、中医学らしい対処方法が現れている、と語ります。
「一般的に『睡眠薬』といえば、いわばスイッチをオフにするものが多いと思います。でも漢方薬の場合は、昼間しっかり体を動かすことも目指して処方します。これにより、スイッチが自然とオフになる状態を作り、夜の眠りへつなげる、そんな考え方ですね」
「なるほど。眠れないからといって、ベッドの中で『眠ろう、眠ろう』と頑張るのは、逆効果だと感じていました。事後処理では限界がある。それよりも大事なのは、ベッドに入るまでの生活を整える、と。そういうことですね」
体が持っている根源的な働きを底上げするという、中医学の考え方に触れた男性は、深く感心したように、何度も頷くのでした。
50代に「10時間睡眠」は必要ない
志村先生はこうも言います。
「…と言っても、若い頃と同じ眠り方をしようと思わなくてもいいですよ。50代になれば体力も落ちます。10時間もぐっすり寝ることができる若い体とは変わってきます。若い頃それだけ眠ることができたのは、それに釣り合うくらいのエネルギーを使っていたからです。
例えば、メジャーリーガーの大谷翔平選手は10時間の睡眠をとるそうです。でも、あれはプロのアスリートだからこそ。デスクワーク中心の私たちが、それと同じだけ眠ろうとする方が不自然です。
ただ私たちでも、休日に山登りをしたり、街へ出て買い物を楽しんだり、いつもより体力を使った日は、ぐっすりと眠ることができるかと思います。
夜の睡眠は、日中の活動と必ずセット。動いた分だけ、体は休息を欲するようにできています。睡眠は本能ですからね」

自分の感覚に耳を傾ける
男性は最後に、Apple Watch の睡眠スコアについて口にしました。
「睡眠スコアの数値は悪くないのに、全然スッキリしないんですよね」
志村先生は話します。
「大切にして欲しいのは、データではなく、自分の感覚です。朝起きた時に、『よく寝たな』そんな感覚があるかどうか、それを確かめてみてください」
「そういわれてみれば、スコアの数字ばかり気にして、自分の体がどう感じているかについては、よくわからない…。明日の朝は、この体がどんな状態なのか、その感覚に耳を傾けてみます」
そう言って、相談者は深く納得した表情を浮かべました。
おわりに
質の良い睡眠は、夜だけで決まるものではありません。日中の働き方、運動、ストレスとの付き合い方…一日の過ごし方すべてが、夜の眠りにつながっています。目を閉じてから、眠れない意識だけを見ていても、健やかな眠りは遠ざかるばかり。もう少し視野を広げ、「健やかな眠りにつくためには、一日をどう過ごせばいいか」と、見直してみる。そんな視点の転換が、深い眠りへの入り口になるかもしれません。
※この記事は、国際中医専門員・志村幸枝先生が長年の相談経験に基づき、実例を再構築したものです。プライバシー保護のため設定は変更していますが、身体の悩みと見立ては現場の知見に根ざしています。
中医学において、身体の状態は千差万別です。紹介した養生法は一例であり、効果を保証するものではありません。ご自身の身体をより正確に知りたい方は、ぜひお近くの漢方薬店など、専門家を頼ってみてください。
身体に明らかな不調がある場合は、自己判断せず速やかに医療機関を受診してください。
●監修/志村幸枝

国際中医専門員。CoCo美漢方神戸勤務。登録販売者。漢方相談歴は28年。身体の変化を感じる年頃になり、自分を実験台に漢方と向き合う毎日。日常に絡めた喩え話で「伝わる中医学」をSNSで発信している。お酒を飲みながら美味しいものを食べている時が一番幸せ。趣味はおつまみ作り。
X:漢方しむしむ@simusim01454535
インスタグラム:CoCo美漢方神戸@cocobikobe0310
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●構成・文/もぱ(京都メディアライン)











