泥酔者をあまり見なくなったのはなぜか
『「酔っぱらい」たちの日本近代 酒とアルコールの社会史』 右田裕規著

飲んで乱れずといえば、飲酒時のあるべき姿勢を示した格言。かの孔子も、酒を飲むのはよいが理性と礼儀を失してはならない、というような言葉を残している。
著者がまず示すのは、そもそも酒とはどのような性質を持った社会装置なのかという論だ。近世以前の日本では、酒が飲めるのは祝祭日や冠婚葬祭など特別なときだけだった。神の下で貴重な米を醸して造った酒を集団で呑む直会(なおらい)が宴会の原型。この日ばかりは、身分社会の不条理も、辛い肉体労働も忘れることができた。
酔いつぶれるまで大酒を飲めば、陶酔感とともに心が解放され、自由を得た気分になる。主祭者は大きな出費を被るが、この散財には還元効果がある。無礼講で大量の酒を飲むことにより、共同体に溜まった不平不満のガスをある程度抜くことができるからだ。
これこそ、泥酔行為が顰蹙(ひんしゅく)を買いつつも社会から許容されてきた背景だったという視点に膝を打つ。
「飲んで乱れず」の社会背景
ところで、現在の酒をめぐる風景はずいぶん変わっている。ある時期からは若者がさほど酒を飲まなくなり、駅や繁華街でも昔ほどひどい泥酔者を見ない。まさに「飲んで乱れず」だ。
この変化の解明こそが本書の核心である。何が酒飲みを変えたのか。背景は労働規律の近代化だという。かつての泥酔は村落社会における半ば公認の暴走だったが、明治以降の日本で発展したコミュニティは、企業が中心の都市型社会である。過度な飲酒は生産性を下げ労使双方の利益を毀損する。こうした経営倫理が浸透していくなかで、飲酒は勤務が終わった夜や休日に個人で楽しむべきという規範ができあがっていく。
このように、酒の飲み方はコミュニティが規定する。農村社会のようにへべれけになるまで飲んでも、終電にすべり込むように家へ帰り、翌朝また定時に出勤しなければならないのが企業社会だ。近代の飲酒者たちは、酩酊していても懸命にしらふを演じようとしてきたと著者はいう。
酒の社会的性質を変えた一因として忘れてならないのが企業交際費だろう。取引先の接待を名目に業務の延長として酒が飲めるわけだが、乱れることは許されない。接待要員には、酒は飲んでも酒に飲まれない強さが求められた。
労働を忘れる存在から労働を支える存在へ。酒の役割変化を示す時代ごとのトピックスは、長年酒と付き合ってきた人にとって、思い当たる点も多いはずだ。
最後のフィールドワーカーが書いたエッセイ的論考
『民俗・まなびの径 珈琲と欅』 野本寛一著

路線バスと徒歩で農山漁村を訪ね、今なお古老たちの日常に残る在来知を昭和・平成・令和の3時代にわたり記録し続けた民俗学者の野本寛一。最後のフィールドワーカーともいえる知の巨人が、ついに《荷を下ろし、旅装を解くときがきた》と上梓した作品が本書。最後ぐらいは一次資料だらけの論文ではなく、軽快なエッセイを目指したという。思うような文章にはならなかったと謙遜するが、言葉の端々から今なお旺盛な好奇心がのぞく。書題の珈琲もそのひとつだ。喫茶店のコーヒーの味を覚えたのは比較的晩年だそうだが、その苦みを心地よく受容した経験から、アクが強くそのままでは食べられない栃の実が、縄文以来加工食材として利用され続けてきた仮説にたどり着く。
常識ではない感覚で認知をこなす「共感覚者」の謎
『なぜ存在しない感覚が感じられるのか 共感覚の謎を解く』 牧岡省吾著

ある人は、特定の文字や数字に色がついて見える。またある人は、ある単語にだけ味を感じる(たとえばThisはトマトスープに浸したパンの味)。このように常識的ではない感覚でものごとを認識している人たちは共感覚者と呼ばれる。共感覚にはさまざまなパターンがあるが、そもそもなぜ、その条件要素が本来は組み合わさるはずのない感覚でセット化され、その人の中で一貫した法則になるのか。著者が注目するのはさまざまな感覚情報を脳でつなぎ最適化する「グローバルワークスペース」という場だ。共感覚者と非共感覚者にはこの入出力機構に違いがありそうだという。私たちは目が見たものを見ているのではなく脳を介して見ている。ここに共感覚という現象を解くカギがある。
選・文/鹿熊 勤
※『サライ』2026年4月号より












