玉川祐子 (曲師・103歳)

─現役最年長、衰えぬ三味線の技。浪曲に人生を捧げた希代の曲師─

「誰かに喜んでもらえる限り、前を向いて、舞台で弾き続けていきたいです」

玉川祐子さんの生まれ故郷、笠間市(茨城)にて、2024年6月に開催された「玉川祐子 かさま応援大使就任記念公演」の模様。浪曲の曲師として舞台で三味線を弾き続けている。写真/田中良知

──現役最高齢の曲師だそうですね。

「お陰様で今年の10月で104歳になります。いまでも浅草の木馬亭(浪曲の定席)の舞台に立つため、数か月に1回、たくさんの煮卵と三味線を手に向かいます」

──煮卵、ですか。

「殻を剥いたゆで卵を鍋に入れ、醤油と調味料を加えてコロコロやるんです。その日の朝に作ったのを持っていって、太ちゃん(浪曲師の玉川太福さん)とか木馬亭のみんなに食べさせてやるんだけど、“祐子さんが来ると、おいしい煮卵が食べられる”って言って喜んでくれるんだから嬉しいじゃないの。最近、なかなか作ってあげられてないけど」

──曲師になったきっかけを教えてください。

「あたしはね、本当は浪曲師になりたかったの。『貧乏に棒なし』って言葉があるけど、うちは本当に“ぼう”すらないほどのどん底の生活で、小学校を出るとすぐに笠間(かさま)の街中の呉服屋に、子守奉公に出されました。その呉服屋の隣がレコード屋で、毎日、店先から浪曲が流れていたんです。これが良くてね、赤ん坊を負ぶっては、毎日聞きに行っていました。街には劇場がふたつあって、そこに浪曲師の一座が来ることもありました。そうするとやっぱり赤ん坊を負ぶって、楽屋口から漏れてくる浪曲に耳を傾けていました。もうこれしかない、浪曲師になるんだと思い込んだんです。あたしは6人兄弟の2番目。“ひとり死んだと思って東京に出してくれ”と父親に手をついて、何とか許しを得ました。それが昭和15年。17歳のときのことです」

「浪曲師になりたい」と茨城から上京する直前、16歳の頃の祐子さん。子守奉公の先で、レコード屋から流れてくる浪曲に心奪われ、浪曲師を志したのだという。

「こんちくしょう、と歯を食いしばって弾いていたら、今日まで来ちゃった」

──当てはあったのですか?

「錦糸町の親戚宅にひと晩泊めてもらって、翌朝、浅草に行きました。浅草には浪曲の興行社がたくさんあったので、そこに飛び込んで頼み込みました。門前払いをされたりもしましたが、ようやく師匠を紹介してもらえた。それが、鈴木照子師匠です。7歳で初舞台を踏んで『少女横綱』と謳われた天才。あたしの3つ下でした。実際は、照子師匠は忙しくて、師匠のお母さんに稽古をつけてもらいました。ええ、鈴木照千代の名で舞台にも出たんですよ。でも、1年くらい経った頃、師匠のお母さんに呼びつけられて……」

──何があったのですか?

「あたしは声が硬くてゴロ(こぶし)がうまく回らない。“おまえの声じゃ金になんないよ。笠間に帰るか、それとも三味線弾きになるか”と突きつけられたんです。浪曲師を続けたかったけれど、無理だというんじゃしょうがない。でも帰るわけにもいかない。それで仕方なく曲師になったんです。浪曲は、曲師がいなければ成り立ちませんから、曲師の数が必要だったんでしょうね」

──簡単な転向ではありません。

「そりゃ苦労しましたよ。ようやく舞台に上がれるようになっても、浪曲師の先生が本番中、こっちをぎろっと睨み付けるんです。終わると、“おまえの三味線、それっきりか”と罵倒される。“すみません、すみません”と涙をポロポロこぼしていました。こんちくしょう、こんちくしょう、と歯を食いしばって弾いていたら、今日まで来ちゃった」

──曲師になったのは戦争中ですね。

「あの頃は、皆が娯楽を求めていたんでしょうね。あたしたちは、全国各地を回りました。浪曲の世界は年季明けといって、だいたい4年で独立します。それまでは内弟子として師匠の家に住み込みで修業しています。昭和20年に年季が明けたのですが、そのちょっと前に、兄弟子から浅草の観音様に呼び出されたんです。“年季が明けたら一緒になってくれ”というプロポーズでした。好きでもなんでもなかった。でも“一緒になってくれないなら、おまえさんを殺して俺も死ぬ”という。殺されちゃたまらない。それに、そんなに思われたなら幸せかなと思っちゃった。それで昭和20年の3月、師匠の家を出て、新橋に所帯を持ちました」

──昭和20年3月といえば東京大空襲です。

「あのときは、隣町まで火が迫りました。こりゃダメだって、三味線抱えて逃げました。翌朝、浅草に行ったら、今の松屋の横にずらーっと死体が並んでましたよ。もう東京にはいられないとなって、旦那の実家がある深谷(ふかや)(埼玉)に疎開しました」

──戦争が終わったあとは?

「旦那との間には4人の子に恵まれました。深谷に移り住んでからも、浪曲は各地で盛んでしてね。アマチュアの集まりに呼ばれて三味線を弾きましたし、二代目廣澤虎造先生から声がかかって、巡業に出ることもありました。そんなふうに全国を飛び回ってるもんだから、昭和28年生まれのいちばん下の息子の満が寂しがった。“僕も歌うから、お母さん、連れてってくれ”って、3歳になると歌を歌い始めたんです。これがうまい。それを興行社の人が聞いて、4歳から舞台に立つことになったんです。ちびっ子スターの誕生ですよ。サインをねだられたりね。でも、そういう幸せは長く続かなかった」

──何があったのですか?

「舞台衣装に着替えさせている最中、首に手を触れたら、ボコッと膨らんでいました。触ったら“痛い”という。おかしいなと思って大きい病院で診てもらったら、小児がんでした。もってあと1〜2年だって……」

──突然の宣告です。

「泣いていたら、満から“お母さん、どうして泣くの? 僕が元気じゃないから泣くの?”と言われて、言葉が出ませんでした。実は満が生まれる少し前に、次男の廣を赤痢で亡くしています。3歳でした。子どもが親より先に逝くなんて、そんな馬鹿なことがありますか? それもふたり続けてなんて。でも悔やんでもしょうがない。泣いたってどうにもならない。まずは満の治療を最優先にしようと曲師の仕事をやめ、東京で住み込みの家政婦として働きました。治療代を稼ぐためです。でも結局、7歳で死んでしまった……。

気づくと、浪曲も人気が落ち始め、仲間が何人もやめていきました。うちの旦那も例外じゃなくて、昭和38年、深谷を引き払って一家で東京は銀座に出てきて、堅気となって働き始めました」

──一家4人の東京暮らしが始まった。

「しばらくは良かったんですよ。でも昭和45年に、浅草に浪曲の定席(現在の木馬亭)が復活しましてね。やめた浪曲師たちも戻ってきた。となると曲師が足りない。それで声がかかるようになったんです。手伝いに行くと、一日に5人くらい弾かされて、“明日も頼むよ”と言われる。それで毎日のように、銀座から浅草に通うようになったのですが、うちの旦那は悋気が強い人で、それが面白くない。“三味線なんて弾かずに家にいろ”という。でもね、あたしはやっぱり、浪曲が好きなんです。三味線も弾いていたかった。だから“やめるのは嫌だ”と刃向かったら、“じゃあ出て行け!”と家を追い出された。それで、おじゃんです」

──48歳で突然のひとり暮らしです。

「あらかわ遊園の近くにあった、便所も炊事場も共同の4畳半一間のアパートです。ひとりで暮らすには、お金がかかります。毎朝、4時に起きて、千住のやっちゃ場(青果市場)にあった喫茶店で昼まで働きました。そこからバスで浅草に行って、三味線を弾く。そんな生活が数年続いた頃でしたね、浪曲師の玉川桃太郎が家に転がり込んできた。

あたしは彼の三味線を弾いていたんだけど、三味線を弾くと情が移る。そのときは向こうに奧さんがいたから、絶対に深い仲になっちゃいけないと思っていたけれど、彼は優しい人でしてね。長女の初子に相談すると“いままで苦労してきたんだから、お母さんの好きなようにしな”と言ってくれて。そこにいたるまでにはいろいろあったけれど、桃太郎と再婚することになりました」

「三本笛」(調子笛)を吹きながら、三味線の音の調子を合わせていく祐子さん。それまで柔和な表情だったが、三味線を持った途端に、顔つきが一変した。

「無事に過ごせたら“今日はありがとうございました”と寝る前に感謝します」

──再婚したのは、おいくつですか。

「向こうは52歳、あたしは53歳でした。亭主を2度もったなんて自慢にならないけれど、桃太郎は本当にいい旦那だった。喧嘩ですか? 気に入らないことがあると“出てけ”と言うんですが、“出て行けったって出て行くとこなんてないよ”と言うと“じゃあ大人しくしろ”でおしまい。喧嘩になりません。あたしはずっと幸せでしたよ。だって好きな人の三味線を横で弾けるんだから。この再婚を機に、芸名を玉川祐子に改め、いまに至ります。桃太郎が平成27年に亡くなるまでの約40年、彼の曲師でいられたことは、このうえない喜びです。桃太郎のような、あんな声のいい浪曲師は滅多にいないね」

──いまの生活を教えてください。

「10数年、ずっとひとり暮らしです。娘もよく来てくれるし、こうして預かり弟子の港家小そめちゃんも通ってくれるから、寂しくなんてありません。この小そめちゃん、とてもかわいくて、それにいい声なのよ」

預かり弟子の港家小そめさん(浪曲師)との稽古。友人の浪曲師・五代目港家小柳さんが平成30年に亡くなった後は、その弟子の小そめさんに稽古をつけている。

──預かり弟子とは?

「あたしの友人の五代目港家小柳のところに、この子が弟子入りしたいと言ってきたんです。小柳さんはこのとき、85歳。相談してきたから、“弟子を取るのはあんただよ、弟子を取ったら協力するのはあたしだよ。いいじゃないかそれで”って。小柳さんは90歳で亡くなりましたが、それからは、小そめちゃんは預かり弟子。彼女が木馬亭に出るときは、あたしが三味線を弾いています」

──一昨年には大怪我をしたと伺いました。

「故郷笠間市の『かさま応援大使』に就任したのですが、その記念公演を笠間でやったんです。そしたらその後、ホテルで転んで、腰の骨を潰してしまった。半年の入院でしたよ。あたしはすっかり忘れてましたが、こないだ小そめちゃんに聞いたら、リハビリの最中、“絶対にまたひとり暮らしをする”って繰り返していたらしくて。三味線も病院に持ってくるよう頼んだそうですから、前向きね」

──長生きの秘訣を教えてください。

「ここまで生かしてもらってるんだから、怪我ぐらいでくよくよしたって始まりません。1日無事に過ごせたら、“今日はありがとうございました”と寝る前に口にします。嫌なことがあっても、寝て起きたら、みんな忘れちゃう。あとは編み物ね」

──編み物?

「小さい頃から、他の兄弟がわずかな小遣いで飴玉を買う中、あたしだけは毛糸を買って、編み物をしてはそれをお金に換えていました。誰に教わったわけではありません。いまでも請われると、セーターや手袋を編んでいます。設計図はあたしの頭の中。人に喜んでほしいのね。喜んだ顔を見れば、そのぶん、元気をもらえるから。三味線もそう。誰かに喜んでもらえる限り、これからも前を向いて、舞台で弾き続けていきたいですね」

小さい頃に独習で身につけた編み物。いまも頭の中で描いた通り、何も見ずに編んでいく。「手袋とか、セーターとか、あげたら喜んでくれるでしょ? それが嬉しい」

玉川祐子(たまがわ・ゆうこ)
大正11年(1922)、茨城県生まれ。本名は中村りよ。昭和15年、17歳で浪曲師・鈴木照子に入門。17年に曲師に転向。20年、同門の浪曲師・東光軒満月と結婚。3男1女に恵まれるが、次男(3歳)を赤痢、三男(7歳)をがんで亡くす。三男の病気を機に35年頃より休業するも45年頃に復帰。50年、浪曲師・玉川桃太郎と再婚。芸名を本名から玉川祐子と改め現在も舞台に立つ。

取材・文/角山祥道 撮影/今津聡子 取材協力/港家小そめ

 

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