はじめに-高山右近とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する高山右近(たかやま・うこん、演:市川知宏)は、戦国時代から江戸初期にかけて生きた武将であり、キリシタン大名として広く知られる人物です。
織田信長(演:小栗旬)、豊臣秀吉(演:池松壮亮)、前田利家(演:大東駿介)・利長らと関わりながら生きた一方、最後までキリスト教の信仰を捨てず、国外追放の末にマニラで生涯を閉じました。
また右近は、武将であるだけでなく、茶人としても高く評価され、千利休の高弟の一人にも数えられています。信仰、武功、茶の湯という三つの顔を持つ点に、この人物の大きな魅力があります。
この記事では、高山右近が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。
『豊臣兄弟!』では、荒木村重の配下として秀吉が重用されることに不満をぶつける人物として描かれます。

高山右近が生きた時代
高山右近が生きたのは、織田信長が畿内を制圧し、豊臣秀吉が天下統一へ進み、さらに徳川家康の時代へ移っていく激動の時代でした。この時期の日本では、戦乱だけでなく、新しい文化や宗教も大きな影響を与えていました。
その一つがキリスト教です。16世紀後半、日本には宣教師が渡来し、各地で布教活動が行われました。戦国大名の中にも洗礼を受ける者が現れ、高山右近はその代表的な存在でした。
一方で、キリスト教は時の権力との緊張関係も抱えていました。信長の時代には比較的保護される面もありましたが、秀吉の伴天連追放令、さらに徳川幕府の禁教へと流れが変わっていきます。右近の生涯は、まさにその変化を体現しています。
高山右近の生涯と主な出来事
高山右近の生年は天文21年(1552)、慶長20年(1615)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
摂津高山に生まれ、少年期に受洗する
高山右近は天文21年(1552)、高山友照の長子として生まれました。幼名は彦五郎、のちに友祥、長房と称し、右近允、右近大夫などとも呼ばれます。洗礼名はジュストです。
右近が信仰に入ったのは早く、永禄7年(1564)ごろ、父の回心に続いて受洗したとされます。若いころから右近の人生には、武家としての道とキリスト教信仰とが並んで存在していたのです。
高槻城主となり、荒木村重に属する
右近は永禄年間に和田惟政・惟長のもとで戦陣に加わり、天正元年(1573)には摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)高槻城主となります。
この時期の右近は、荒木村重のもとで摂津の有力武将として力を伸ばしていました。高槻は京都と西国を結ぶ要地であり、その城主となったことは、右近がすでに重要な位置にいたことを示しています。

荒木村重の謀反と、信仰をめぐる苦しい決断
右近の生涯で大きな転機となったのが、天正6年(1578)の荒木村重の謀反です。村重が織田信長に反旗を翻したとき、右近は当初、高槻城で村重側に立ちました。
しかし右近は、村重に姉と長男を人質として預けていた一方で、信長の手中には宣教師たちがいました。『新カトリック大事典』(研究社)によれば、右近は人質の命と教会の危機の板挟みの中で苦しみ、最終的には出家する覚悟で信長のもとに赴いたといいます。
結果として、右近は信長に帰順し、高槻領を安堵され、教会も平穏を保つことができました。
この出来事は、右近が信仰を軸に行動する人物であることを強く印象づけます。
本能寺の変後、秀吉に属して山崎で先陣を務める
天正10年(1582)、本能寺の変が起こると、右近は羽柴秀吉に属して山崎の戦いで明智光秀と戦いました。
また『新カトリック大事典』(研究社)によれば、右近は本能寺の変後、安土から逃れてきたセミナリオの人々を高槻城に受け入れ、私財で支えたといいます。戦のさなかでも信仰共同体を守ろうとした右近らしさがよく表れています。
秀吉のもとで戦功を重ね、明石城主となる
右近はその後も秀吉に従い、紀州根来征伐、四国征伐などに参加します。天正13年(1585)には播州明石6万石、あるいは7万石を与えられ、明石城主となりました。
このころの右近は、武将としても大きく成長していました。しかし、右近の特徴は戦だけではありません。高槻、京都、安土、大坂などで教会建設を助け、領内で布教や慈善事業にも尽くしました。小西行長、黒田官兵衛、蒲生氏郷(がもう・うじさと)らの改宗には、右近が深く関わったことを伝えています。
特に黒田官兵衛との関わりは見逃せません。右近は一人の信者というだけでなく、キリシタン大名たちの中心的存在でもあったのです。

秀吉の伴天連追放令で改易される
しかし、右近の信仰は大きな試練を迎えます。天正15年(1587)、秀吉が九州征伐の陣中で伴天連(バテレン)追放令を出すと、右近も棄教が迫られました。
このとき、右近はためらうことなく「信仰を捨てない」と断言し、その翌朝には領地を奪われて浪人となったといわれています。
戦国大名にとって、領地を失うことはすべてを失うに等しい出来事です。それでも右近は信仰を選びました。
前田利家・利長のもとで生きる
改易後、右近は小西行長の知行地や小豆島などを経て、加賀(現在の石川県南半部)の前田利家のもとに身を寄せます。やがて1万5千石を得て、前田家の客将として遇されました。
藩政にも参与し、金沢城修築や高岡城築造に関わったといわれています。
慶長6年(1601)には自費で金沢に教会を設け、加賀・能登・越中(現在の富山県)での布教にも力を尽くしました。

茶人・南坊としての顔
高山右近は、茶人としてもよく知られています。千利休の高弟であり、利休七哲の一人に数えられます。号は南坊(みなみのぼう)、等伯(とうはく)です。
天正6年(1578)には、右近は千利休の弟子として村重の茶会に招かれ、利休から称賛されていました。のちに秀吉とも茶をともにし、京都でもしばしば利休の茶会に招かれています。
禁教で国外追放され、マニラで最期を迎える
慶長19年(1614)、徳川家康の禁教令によって、右近はついに国外追放となります。家族や内藤如安らとともに長崎から出航し、ルソン島マニラへ向かいました。
マニラでは市民の歓迎を受けましたが、長い追放生活と船旅の疲れもあり、到着後まもなく病に倒れます。
慶長20年(1615)正月5日、あるいは2月3日とされる日に、マニラで没しました。その最期は、単なる病死ではなく、信仰を守った末の死として深く受け止められました。
2017年には列福(れっぷく、教皇に認められて福者の地位に並ぶこと)も果たしています。
まとめ
高山右近のように、領地や地位よりも信仰を選び抜いた姿は、戦国武将の中でもきわめて特異です。同時に、茶の湯や人とのつながりを通じて多くの人に影響を与えた点にも、右近の大きさがあります。
高山右近の生涯は、戦国の激しさの中で「何を最後まで守り抜くのか?」を静かに問いかけてくるかのようです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『新カトリック大事典』(研究社)











