どこから出てきたのか。足軽あがりのその者には稀なる才が宿っていた。その才を持って、民草(たみくさ)から天下人へと駆け上がった、日本史上ただひとりの男。豊臣秀吉。その謎に満ちた生涯を、解き明かす。

「病魔、疫神など邪気から豊臣家を守ろうとしたのです」河内将芳さん(奈良大学教授)

聚楽第の東側に配置された大名屋敷で使われていた金箔瓦。内裏から西方を望めば、金箔瓦が葺かれた大名屋敷の甍越しに、聚楽第が見えるという景観が演出された。写真/(公財)京都府埋蔵文化財調査研究センター

平安時代以来、「千年の都」といわれる京都だが、豊臣秀吉が訪れた頃の京都には、平安時代の面影はほとんどなかった。

「戦国時代に洛中といえば、平安京の東半分のうち、堀や塀で別々に囲まれた上京と下京という市街地に限られていました」

そう語るのは、日本中世史を専門とする河内将芳さん。平安時代には平安京の東側を「洛陽」、西側を「長安」と称した。平安時代末から鎌倉時代にかけて平安京の機能が東に移り始めると、次第に平安京の東半分、つまり洛陽のみが京都を指すようになる。これに伴い、洛陽の内部が洛中、その外側は洛外と呼ばれた。そして時代の推移とともに、洛中の範囲は狭まり、戦国時代後半には、上京と下京を残すだけになった。

この頃の京都を、秀吉の主君・織田信長もたびたび訪れている。

「当時の文書から、信長の京都での滞在は短期間で、京都との関係を最小限に抑えたことがうかがえます。武家出身の信長は教養があるため、京都の複雑な慣習を煩わしく感じ、距離を置いたのかもしれません」(河内さん、以下同)

一方、武家出身ではなく教養の不足を逆手に取ったのが秀吉だった。秀吉は京都であっても遠慮しなかった。天正14年(1586)、秀吉は居城として聚楽第を築き始めるのだ。

「聚楽とは“歓楽の集まり”、すなわち楽園を意味します。前年に関白に就任した秀吉は、公家社会の頂点に立つことを示すため、聚楽第を築いたのでしょう」

聚楽第の名の通り、金箔瓦などで飾られた絢爛豪華な建物の様子が『聚楽第図屏風』に描かれている。この雰囲気から想像しにくいが、荒廃していた土地に聚楽第はつくられたという。

「平安京の大内裏(天皇の住まいと諸官庁)があった内野の地に、聚楽第は築かれました。内野はもともと平安京の中心地でしたが、度重なる火災などによって、野原や農地に変わり果てていたのです」

洛外に建てた権力の象徴

聚楽第の築城と同時期に、秀吉は方広寺の大仏造立にも着手した。天正14年に計画が立案され、約9年かけてようやく大仏殿が落成した。秀吉の七回忌に伴って描かれた『豊国祭礼図屏風』には、奈良の東大寺をしのぐ巨大な大仏殿を背景に、人々が踊りに熱狂する様子が見られる。大仏殿を囲っていた石垣の一部は現存し、往時を物語っている。

方広寺の大仏が安置されたのは鴨川の東、三十三間堂の北側という洛外の地であった。しかし、その立地は単なる郊外ではないと河内さんは考える。

「方広寺は、京都の東の玄関口といえる五条橋の近くに位置します。大仏の正面から南へ伸びる道は、伏見や大和国へと通じる交通の要衝でした。大仏は、秀吉の権勢を象徴する存在だったのでしょう」

大改造後の京都

聚楽第周辺には大名の屋敷が並ぶ武家地が形成され、天皇の住まう内裏周辺に公家町がつくられた。さらに洛中に散在していた寺院が移転され、それら全てが御土居で囲まれた。

奈良の東大寺大仏殿を凌ぐ大きさ【大仏殿(1595年)】

大仏殿の周囲には、巨大な石垣が巡らされた。遺構は京都国立博物館の西門北側に残る。写真/PIXTA

23㎞に及ぶ「御土居」を築き京都市街を囲った

聚楽第や方広寺大仏の築造を進める一方で、秀吉は京都の町全体を変えてしまうような、前代未聞の新事業に着手する。それが、堀と土塁で市街を囲む「御土居」の築造だ。当時の記録をもとに河内さんは語る。

「天正19年閏正月、秀吉が洛中を囲む巨大な堀を掘らせ、土塁上に竹を植えさせました。御土居ではなく『洛中惣構』と記した記録も見られます。御土居の築造によって、秀吉は点在していた洛中と洛外の境界を連続する線として明確にしました。そして日本史上初めて、東西南北を巨大な土塁と堀で囲んだ都市が誕生したのです」

幕末の京都を描いた『京都一覧図絵』には、竹が生えた状態の御土居が描かれ、江戸時代を通じて御土居が存続していたことを示す。一方で、御土居築造の真意を示す史料は数少ない。例えば、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが本国ポルトガルへ送った『一五九一・九二年度・日本年報』によると、御土居築造の目的は「名声を記念するため」と記されている。

御土居築造は「京都の近世都市化」や「京都改造」といった秀吉の都市政策の一環として語られることが多い。これらに加え、御土居築造に着手した時期も、御土居の目的を知る手掛かりになると河内さんは考えている。

突然始まった御土居の築造

「御土居を築いた頃、秀吉の身辺では嫡子・鶴松が病に倒れるなど、不安が続いていました。こうした状況のなか、突如として秀吉は御土居の築造に着手し、わずか約2か月の急ピッチで御土居が完成したのです」

これと関連して、室町時代に室町幕府が神泉苑(※)東側の築地塀の崩壊を恐れたという記録に、河内さんは着目する。

「神泉苑東側の築地塀は、境界の外から迫る病魔や疫神などの邪気を遮断し、都の清浄を守ると信じられていました」

この神泉苑の築地塀に比べ、御土居ははるかに規模が大きく、堀と土塁を築いて洛中の東西南北の境界を遮断した。

「御土居によって四条通の祇園口が塞がれたため、平安時代から連綿と続けられてきた祇園祭の神輿が御旅所へ渡れなくなるほどでした。秀吉は御土居を築くことで、病魔が境界の外から鶴松に襲ってこないように願ったのではないでしょうか」

残念ながら秀吉の願いは叶わなかった。御土居完成からまもなく、鶴松は再び病に倒れて夭折。病には勝てなかったのだ。失意の秀吉は関白職と聚楽第を甥・秀次に譲り、大坂へ隠居する。しかし、それから4年後の文禄4年(1595)、秀次は関白職を剥奪され、洛中を追われ高野山で切腹した。聚楽第は壊され、後継者の秀頼のために京都新城が築かれた。

それでも幼少の秀頼は関白になれず、京都新城を居城にすることもなかった。

豊臣政権が衰退する一方で、御土居は江戸時代に引き継がれた。市街地が洛外に広がるにつれて土塁は次々と壊されたが、それでも一部は現存する。

※平安京につくられた天皇のための庭園。

京都一覧図絵
目に見えるかたちで洛中と洛外を分けた

元治元年(1864)歌川貞秀画、秋岡武次郎古地図コレクション。幕末の京都の全景を、西からパノラマ風に描いた図。市街を大きく囲うように、竹が生えた緑の御土居が描かれている。国立歴史民俗博物館蔵
写真/国立歴史民俗博物館
御土居の概念図。洛外側に堀を、洛中側に土塁を構築した。
御土居の発掘現場(京都市南区西九条春日町)。幅約20m、深さ約1.5mの堀と、土塁の裾の部分(写真右側)が確認された。写真/(公財)京都市埋蔵文化財研究所
現存する御土居の一部(京都市北区平野鳥居前町)。土塁と堀(堀の一部は川・池・沼を利用)からなり、その延長は約23kmに及んだ。写真/PIXTA
令和2年の発掘調査によって発見された京都新城の石垣。秀吉は秀頼の居城として京都新城を築いた。調査結果から、聚楽第に匹敵する規模の城であったことが明らかになった。写真/(公財)京都市埋蔵文化財研究所

解説 河内将芳さん(奈良大学教授)

昭和38年、大阪市生まれ。専門は日本中世史。甲南中学・高校教諭、京都造形芸術大学芸術学部准教授を経て現職。著書に『中世京都の民衆と社会』『戦国京都の大路小路』『図説 豊臣秀長』など。

取材・文/藪内成基 イラスト/倉本ヒデキ

※この記事は『サライ』本誌2026年2月号より転載しました。

2月号は大特集『謎解き「豊臣秀吉」』

 

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