小泉セツ&小泉八雲の夫婦がモデルとなった朝の連続テレビ小説『ばけばけ』が注目されています。実はその小泉夫妻と、明治の文豪・夏目漱石と妻・鏡子は、不思議と重なり合う縁で結ばれていた、というのをご存じでしょうか。

夏目漱石の研究家として知られ、『心を癒す漱石の手紙』などの著書を持つ、作家で雑誌編集記者の矢島裕紀彦さんによると、二人の文豪とその妻たちには奇縁と呼ぶしかないような不思議なつながりがあると言います。

多数の文献や手記を紐解きながら、二組の夫婦の知られざる素顔を全26回の連載にて紹介します。

第20回では、文明開化で広がった肉食を好んだ漱石や、日本食で体を壊して肉も食べるように食生活を改めた八雲が、電話や電燈といった物質文明は嫌っていたという共通点をご紹介します。その二人に振り回された妻たちの苦労が偲ばれます。

文・矢島裕紀彦

何日もスキヤキを出し続けた妻・鏡子と、素知らぬ顔で食べ続けた漱石

漱石は若い頃はなかなかの大食漢だった。学生時代は同じく大食らいの正岡子規と洋食屋へ行ったり、火鉢で牛肉を焼いて食べたりしていた。芝居見物に出かけて舞台そっちのけで「たら腹主義」を発揮したこともあった。鏡子も熊本時代を回顧して、

そのころはまだなかなかの大喰べで(略)どちらかと言えばこってりと脂っこい肉類のようなものが好きで、魚は臭いといってあまり好みませんでした。

と語っている。

いまでこそスキヤキは日本料理の代表のように言われるが、開化期の風俗を描いた仮名垣魯文の『安愚楽鍋』に《牛鍋食はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)》と書かれたことからもわかるように、江戸期までの日本人はほとんど牛肉や豚肉などは食べなかった。漱石の肉好きも、明治の文明開化がもたらした一齣だったと言えるのかもしれない。

41歳で早稲田南町の「漱石山房」に転居して以降、漱石は家族と一緒に食卓を囲むことはなかった。次々と7人まで子供が生まれ、茶の間の食卓の周辺はてんてこまいで、落ち着いていられない。子供らの食事が終わり片づけが済んでから、鏡子が漱石の膳を書斎の方へ運ぶのが日課だった。

朝食は、耳を落とした2寸角ほどの食パン2片と玉子、それに紅茶かミルクといった簡単なもの。パンは傍らの火鉢にかけた網の上で、自分で焼いてバターをつけた。ジャムをつけなかったのは、千駄木時代に余りにジャムをなめ過ぎたため医者から厳禁されていたためらしい。昼は、がんもどきを煮たものなどを、好んで食べていたという。

夕餉の膳にはよく牛肉がのった。胃弱の漱石のため、ステーキにする場合はごく薄く切っていた。長女の筆子は、スキヤキに関する夏目家ならではの逸話を語っている。

母という人は、大体が細かい神経を持たない人なのですが、食事に至っては特にその傾向が強く(略)父がスキヤキが美味しいと洩らしでもしようものなら、それこそ、十日でも二十日でも、あきもせずスキヤキを続けます。父もさる者で、こいつ、いつ迄続ける気だ、こっちもこうなったら意地だ、いつ迄続けやがるか見とどけてやれ、というわけで、素知らぬ顔をしてスキヤキ責めに耐えているようでした。(『夏目漱石の「猫」の娘』)

次男の伸六が、随筆『父・漱石とその周辺』の中に、のちのちまで懐かしく思い出したと綴る、

父が、書斎の小さなガスストーブの前に坐り、母の給仕で、牛鍋をおかずに、飯を食っていた姿

も、10日も20日も続いたというスキヤキと重なっているものだろう。伸六は兄の純一とふたりして父の傍らにへばりつき、時々、漱石が箸の先で鍋の中からつまんでくれる肉のはしっこを、代わりばんこに口の中へ入れてもらってご満悦だったという。胃の悪い漱石は驚くほど丹念に肉を噛みしめていて、伸六は「よくまあ、あんなに噛んで顎がくたびれないものだ」と思いながら、口を開けて次の配給を待ち焦がれた。

漱石はまた、下戸の甘党でもあった。学生時代は汁粉を食べ過ぎて、盲腸炎を誘発したという。専業作家となってのちも、原稿書きの合間にふと甘いものが食べたくなると、ふらりと台所に顔を出し、胃に悪いからと鏡子が隠している菓子の隠し場所を、幼い娘から聞き出して食べたりしていた。

松江時代に過度の和食一辺倒で体調を崩した八雲は、熊本では食生活を改めた。日本食は一日一回、自宅で摂る昼食のみ。朝食は、玉子、トースト、スプーン1杯のウイスキーをたらしたレモネード、ブラック・コーヒー。夕食には大きなビフテキやプラムプディングを喜び、ウイスキーや赤ワイン、ビールなどを嗜んだ。いっとき日本酒にも凝ったことがあるが、次第に招待か公式行事の席に限るようになった。

こうした食生活の立て直しで、熊本時代の八雲は30代の頃より体力がつき頑健になった気がしていた。八雲を病床に追い込んだ松江ほどの厳寒も、熊本にはなかった。ペイジ・ベイカー宛て書簡に、八雲は書いている。

わたしは、近年になく丈夫になりました。洋服はぜんぶ窮屈で、着物までがそうなのです。気候のせいか食事のせいか何なのかよくはわかりません。セツによれば、奥さんが優秀だからだそうです。ぼくの肺は、鐘のように澄み、まったく咳込まないですみます。

半ば、おのろけのような手紙で、「ご馳走様」と言いたくなる。

電話や電燈を拒否していた八雲と漱石に、苦労する妻たち

八雲は物質文明を嫌うところがあり、電話も電車も使わなかった。セツは記す。

電車などは嫌いでした。電話を取りつける折は度々ございましたが、何としても聞き入れませんでした。(略)その頃大久保へはまだ電燈や瓦斯は参っておりませんでしたが、参っていても、とても取り入れることは承知してくれなかったと存じます。電車には一度も乗ったことはございません。私共にも乗るなと申していました。(『思い出の記』)

汽車も嫌いだったが、焼津へ行くときはやむを得ず乗ったという。利便性や効率化ばかり追い求め、無闇に西洋化を急ぐ日本の上層知識階級に、八雲は強い疑念を抱いていた。古くから民衆の中に息づく美的慣習や心根が損なわれていくことを憂い、危機感を抱いていた。『日本瞥見記』(『知られぬ日本の面影』)にはこうも書いている。

日本人の生活のあのたぐいまれなる美しさ、世界の諸他国のそれとはおよそ趣を異にしているあの美しさは、おなじ日本人のなかでも、そういうヨーロッパかぶれのした上層階級のなかには見いだされないのである。これはどこの国でも同じことだが、日本のうちでも、この国の国民的美徳を代表している一般大衆--つまり、こんにちなお自分たちの固有の美しい習俗になずみ、絵のように美しい着物を身にまとい、そして仏の御身影やら神ぜせりに、かれら固有の、あわれにも麗しい祖先崇拝の心を牢として固く守り続けている大衆のなかに、それは見いだされるのである。

八雲はさらに、日本人の微笑の中に菩薩像のそれと通ずる自己抑制と克己の精神を感じとり、「こころの安らぎこそ最高の幸福なのだ」と述べていく。

漱石も、急激で未消化、外発的な開化に対する抵抗はあったが、時代の流れは止められないと捉えていた。『現代日本の開化』と題する講演で漱石は語っている。

現代日本の開化は皮相上滑りの開化であると云ふ事に帰着するのであります、(略)併しそれが悪いからお止(よ)しなさいと云ふのではない、事実已むを得ない、涙を呑んで上滑りに滑つて行かなけれはならないと云ふのです。

上滑りだから、葛藤があり混乱もある。たとえば、八雲同様、漱石も電話嫌いだったが、晩年に至ってとうとう引くことは引いた。でも、あくまで、急ぎの用があるときこちらからかけるためのものと位置づけ、家人には「返事はしなくてよろしい」と言い渡していた。仕事中に電話がかかってくるとベルの音がうるさいからと、布でくるんでぐるぐる巻きにしたり、受話器を外しっぱなしにしたりする。電話局の係のものが調べに来て叱られ、ついには漱石の耳を煩わせぬよう、母屋から離れに移設する羽目となった。

ガスや電燈に関しては、漱石の中に「贅沢」とのせめぎ合いがあった。漱石は明治40年(1907)に年俸2800円の契約で朝日新聞に入社しているが、子だくさんで養育費がかかるのみならず、夫婦共に人がよくて気風もいいから、金に困っている親戚や知人、門弟たちの援助に出し惜しみしないので、生活にさほどの余裕は持てなかった。学生の頃からアルバイトをしたり奨学金をもらったり、時には友人から借金をしたりと、金に苦労してきた漱石としては、自ずと贅沢を避け倹約を心掛けていたのである。

火鉢だけでは部屋が寒いので、はじめ夏目家では炭を燃やす形の「座敷ストーブ」を使った。ある冬、書斎で寒さを感じ、座敷ストーブを使おうかと思って、漱石は鏡子に問いかけた。そのやりとりが『永日小品』(明治42年)の中の一篇『火鉢』に記される。

「おい、去年、小供の病気で、暖炉(ストーブ)を炊いた時には炭代が幾何(いくら)要ったかな」
「あの時は月末に二十八円払ひました」
自分は妻の答を聞いて、座敷暖炉(ざしきストーブ)を断念した。

座敷ストーブに替えてガスストーブを入れたのは、明治44年(1911)頃だろうか。この年12月の漱石日記に

室内凍るやうに寒し。ストーヴを焚く。瓦斯漏れて臭ければやめる。

昨夜ストーヴを焚き小供と唱歌をうたふ
もういくつ寝ると御正月といふ唱歌である。

といった記述がある。ガス代は、心配していたほどかからなかったようだ。大正4年(1915)の日記に書きつけられた1月から3月の家計簿を見ると、ひと月のガス代は5~6円程度。子供の病気でかなり長時間使い続けたという特殊な事情を鑑みても、旧来の座敷ストーブの炭代より安上がりだったと思われる。先に紹介した、次男・伸六の、父の箸の先から肉のはしっこを食べたという微笑ましい思い出も、ガスストーブの予期せぬ恩恵だったと言えるのかもしれない。

電燈は、漱石の入院中に鏡子が引いてしまった。おそらく、修善寺の大患後、長与胃腸病院に入院していた明治44年(1911)の初め頃のことだったろう。鏡子は以前から電燈を引きたいと言っていたが、漱石はなかなか承知してくれない。それで、亭主がいない隙をねらって敢行してしまったのである。『漱石の思い出』に鏡子は綴る。

電灯は贅沢だというふうに申しまして、どうしても電灯をつけようということに賛成してくれません。ランプより電灯のほうが便利だということも知っており、またランプのほうが趣があるというわけでもないのですが、許してくれません。(略)そのころ一灯一円で引いてくれるので、これは許しをうけていたんではいつまで経っても埒があかないと思いまして、病院に入ってる留守中に一存でさっさと引いてしまいました。

退院して帰宅した漱石は驚いた。けれど、それまでの石油ランプや行灯に比して、明るいし、スイッチをひねるだけで点くし、危なくない。「うちの細君は御大名だよ」と言いながら、部屋中をとびはねる子供らの姿を眺めて、漱石もにこにこ笑っていたという。鏡子のほうが一枚上手であった。

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

(この連載を通しての主な参考文献)
『漱石全集』全28巻、別巻1(岩波書店、1993~1999年)/夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫、1994年)/夏目伸六『父・夏目漱石』(文春文庫、1991年)/夏目伸六『父・漱石とその周辺』(芳賀書店、1967年)/高浜虚子『回想子規・漱石』(岩波文庫、2002年)/松岡陽子マックレイン『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新書、2007年)/荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社、1984年)/江藤淳『漱石とその時代』第1部~5部(新潮新書、1970~1999年)/『新潮日本文学アルバム夏目漱石』(新潮社、1983年)/『別冊國文学 夏目漱石事典』(学燈社、1990年)/『夏目漱石の美術世界』(東京新聞、NHKプロモーション、2013年)/出久根達郎『漱石先生とスポーツ』(朝日新聞社、2000年)/江戸東京博物館・東北大学編『文豪・夏目漱石』(朝日新聞社、2007年)/平岡敏夫『「坊つちやん」の世界』(塙新書、1992年)/恒松郁生『漱石 個人主義へ』(雄山閣、2015年)/小泉節子、小泉一雄『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』(恒文社、1976年)/小泉八雲、平井呈一訳『日本瞥見記』上・下(恒文社、1975年)/小泉八雲、平井呈一訳『東の国から・心』(恒文社、1975年)/小泉八雲、平川祐弘編『怪談・奇談』(講談社学術文庫、1990年)/小泉八雲、池田雅之編訳『虫の音楽家』(ちくま文庫、2005年)/『明治文学全集48 小泉八雲集』(筑摩書房、1970年)/小泉時共編『文学アルバム小泉八雲』(恒文社、2000年)/小泉凡監修『小泉八雲、開かれた精神の航跡。』(小泉八雲記念館、2016年)/池田雅之監修『別冊太陽 小泉八雲』(平凡社、2022年)/池田雅之『小泉八雲』(角川ソフィア文庫、2021年)/田部隆次『小泉八雲』(北星社、1980年)/長谷川洋二『八雲の妻』(今井書店、2014年)/関田かをる『小泉八雲と早稲田大学』(恒文社、1999年)/梶谷泰之『へるん先生生活記』(恒文社、1998年)/池野誠『松江の小泉八雲』(山陰中央新報社、1980年)/工藤美代子『神々の国』(集英社、2003年)/工藤美代子『夢の途上』(集英社、1997年)/工藤美代子『聖霊の島』(集英社、1999年)/平川祐弘編『小泉八雲回想と研究』(講談社、1992年)/平川祐弘『世界の中のラフカディオ・ハーン』(河出書房新社、1994年)/熊本大学小泉八雲研究会『ラフカディオ・ハーン再考』(恒文社、1993年)/西川盛雄『ラフカディオ・ハーン』(九州大学出版会、2005年)/西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち』(洛北出版、2024年)/池田雅之『日本の面影』(NHK出版、2016年)/ラフカディオ・ハーン『小泉八雲東大講義録』(KADOKAWA、2019年)/芦原伸『へるん先生の汽車旅行』(集英社インターナショナル、2014年)/嵐山光三郎『文人暴食』(新潮文庫、2006年)/河東碧梧桐『子規を語る』(岩波文庫、2002年)/『正岡子規の世界』(松山市立子規記念博物館、1994年)/『子規全集』18巻、19巻(講談社、1979年)/『志賀直哉全集』第8巻(岩波書店、1999年)/『芥川龍之介全集』第4巻(岩波書店、1996年)/瀬沼茂樹『評伝島崎藤村』(筑摩書房、1981年)/矢島裕紀彦『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫、2009年)/矢島裕紀彦『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(NHK生活人新書、2003年)/矢島裕紀彦『文士が愛した町を歩く』(NHK生活人新書、2005年)/矢島裕紀彦『文士の逸品』(文春ネスコ、2001年)

 

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