はじめに-藤堂高虎とはどんな人物だったのか?
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する藤堂高虎(とうどう・たかとら、演:佳久創)は、豊臣秀吉(演:池松壮亮)の弟・秀長(演:仲野太賀)に見いだされて頭角を現し、のちには徳川家康(演:松下洸平)・秀忠からも厚く信任された武将です。戦場での働きだけでなく、城づくりの名手としても知られ、最終的には伊勢津藩の祖となりました。
この記事では、藤堂高虎が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。
『豊臣兄弟!』では、秀長のもとで武勇だけでなく学問も学んだ、知勇兼備の武将として描かれます。

藤堂高虎が生きた時代
藤堂高虎が生きたのは、浅井氏や織田氏が争った戦国後期から、豊臣政権の成立、さらに徳川政権の安定へと向かう激動の時代でした。主君を替えながら実力で生き残る武将も少なくない時代であり、高虎もまた、その典型的な一人でした。
若いころの高虎は浅井長政に属し、その後、転々と主を替えています。そして天正4年(1576)、羽柴秀長に仕えたことが、のちの大きな飛躍につながりました。豊臣秀長のもとで軍功を重ね、さらに秀吉にも認められて大名へと成長していきます。
秀吉没後は徳川家康に接近。関ヶ原の戦い、大坂の陣でも大きな役割を果たしました。高虎の歩みをたどると、戦国から近世への移り変わりがよく見えてきます。
藤堂高虎の足跡と主な出来事
藤堂高虎は、弘治2年(1556)に生まれ、寛永7年(1630)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
浅井長政に仕え「姉川の戦い」で功績をあげる
藤堂高虎は、弘治2年(1556)、近江国(現在の滋賀県)犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高(とうどう・とらたか)の子として生まれます。はじめは「与吉(よきち)」という名前でしたが、高虎に改名しています。
15歳の頃に、近江小谷城の城主・浅井長政に仕えるようになった高虎。元亀元年(1570)の姉川合戦で初陣を飾り、奮戦しました。初陣ながら戦功を立てた高虎ですが、その後まもなく出奔することとなります。一説には、高虎が同輩を殺害したことが理由であるといわれていますが、真相は分かっていません。

以後、高虎は一つの家にとどまることなく、阿閉政家、磯野員昌、さらに佐和山城主の織田信澄へと仕える相手を替えていきます。
秀長に仕え、飛躍の足がかりをつかむ
天正4年(1576)、高虎は21歳の時に秀吉の弟・羽柴(豊臣)秀長に仕えるようになってから、ようやく腰を落ち着けました。

仕え始めた頃の禄高はわずか300石でしたが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いや、天正13年(1585)の雑賀・根来攻めなどで戦功を立て、大幅に加増されることとなります。
天正15年(1587)の九州征伐の際には、2万石の領土を有する大名へと成長しました。
秀長の死と高野山からの復帰
武将として頭角を現した高虎でしたが、天正19年(1591)、主君・秀長が病没してしまいます。その後、秀長の子・秀俊に仕えますが、彼もまもなく病没してしまうのです。
居場所がなくなった高虎は、剃髪して高野山に入ったとされています。武将としての道が完全に断たれたように思えましたが、その後、直臣になってほしいと秀吉から声をかけられます。
秀吉の懇望により、彼の直臣となった高虎。文禄4年(1595)、伊予国(現在の愛媛県)宇和島に7万石を与えられ、宇和島城の城主となりました。慶長2年(1597)の「慶長の役」では、水軍を率いて朝鮮に渡海し、朝鮮水軍を全滅させた功績を称えられ、さらに1万石加増されます。

徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に属す
高虎は早い段階から徳川家康に接近していました。『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、天正15年(1587)、徳川家康の伏見第築造を機に家康と結びつきを強め、朝鮮出兵中も家康から手紙が届き、慶長4年(1599)には弟の正高を江戸へ人質に出すなど、家康の信任は厚かったとされます。
そして慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍に属しました。福島正則らとともに岐阜城攻略にあたり、さらに大谷吉継(おおたに・よしつぐ)の軍を破ります。

この戦功によって高虎は大きく加増され、伊予今治20万石の大名となりました。
秀長に育てられ、秀吉に認められた武将が、最終的には家康のもとでさらに飛躍したことになります。
津藩の祖となり、築城の名手として知られる
慶長13年(1608)、高虎は伊賀一国(現在の三重県北西部)と伊勢国(現在の三重県東部)安濃・一志郡など22万石余を与えられ、津に入りました。のちに加増を受け、最終的には32万3951石の外様大名になります。こうして高虎は津藩の祖となりました。
高虎といえば、築城の名手としても有名です。膳所(ぜぜ)城、江戸城、丹波篠山城、大坂城などに関わったといわれています。
特に上野城と津城は、大坂方に備える意味を持った重要な城でした。家康・秀忠が高虎を信頼し、その軍事的な判断や築城技術に大きな期待を寄せていたことがうかがえます。
大坂の陣と晩年
大坂冬・夏の陣では、高虎は徳川方として活躍しました。先鋒を務め、八尾で長宗我部盛親と苦闘し、真田幸村に攻め込まれて危険に陥った家康を命懸けで救ったと伝えられています。
戦後、高虎はさらに加増され、伊勢・伊賀・大和(現在の奈良県)・山城(現在の京都府南部)などにまたがる大領を持つ大名となりました。外様大名でありながら、家康・秀忠の信任はきわめて厚く、東福門院和子の入内交渉など、朝廷との折衝にも関わりました。
晩年は失明したとされ、寛永7年(1630)10月5日に没しました。75歳でした。高虎は、戦場での武功だけでなく、築城、政治、外交まで担った希有な武将として生涯を終えたのです。
まとめ
秀長に育てられ、秀吉・家康のもとで手腕を発揮した藤堂高虎。高虎は、「今日が自分の命日であるという覚悟を持って、毎日真剣に生きるように」と、家臣団に常々語っていたといわれています。激動の時代を生き抜いた高虎だからこそ、日々を無駄に過ごさないことの大切さを痛感していたのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











