取引先男性に飲まされて、連れ込まれたことも
晴美さんは、1986年男女雇用機会均等法施行の翌年に入社した。最初は制服を着て働いていたという。
「仕事は営業補佐で、電話応答、見積書、請求書などを作成していました。当時はワープロもパソコンもないから電卓を使って手書きです。ミスをすると、ハケタイプの修正液を使って直すんです。カタログなどの資料はコピーして、手作業でホチキス留めしていました」
事務の仕事を3年くらい続けていると、周囲が結婚し始める。その頃に「総合職」の道が開けた。その背景には、男女雇用機会均等法があった。
「当時、女性が男性のように働くなんて、現実的に考えられなかったんですよ。そのくらい男女の仕事内容は分かれていました。総合職へは希望制だったので応募したところ、ハードな日々が始まりました」
男性社員と共に、営業先を回る日々。当時は「24時間戦えますか」という長時間労働が当たり前だった。「女だから」と見下されないため、男性の倍は頑張った。
「当時、プラスチック商材を扱う部署にいたんですが、重いサンプルとカタログを持ち歩き、建設現場に売り込みに行く。“明日までに1000個送ってくれるならいいよ”と言われれば、公衆電話から倉庫に電話して、配送をかけてもらう。上司から“ヒールを履け”と言われましたが、それでは歩けないので、ローファーで走り回っていました。男性と同じように仕事をしても給料は男性より安かった」
でも、不満を言う前に働いたほうが早いと思っていたという。
「ムダ口を叩く前に、動いてしまったほうがいい。社内のみならず、取引先の男性からセクハラを受けるなど日常茶飯事。出張先で接待していて、帰りに“寂しいんだろう”と自宅に連れ込まれそうになったこともありました。
でも、動いていれば結果はついてくる。そう思いながら30年近く過ごしたんです。仕事で結果が出れば、海外視察や国内出張など新しい仕事を回してもらえる。仕事のつながりも広がっていき、55歳くらいは無敵状態で過ごしていました」
そして、そんな働き方をしているうちに、学生時代の友達を失ってしまった。
「大学時代の友人たちは、次々と結婚して出産しました。たまに集まっても夫、子供、学校、義実家の話ばかり。昔は知的で自由だった友達が、子供の受験や夫のグチばかり言っているので、“夫と子供なんて、どうでもいいじゃん。自分の話をしようよ”となんの悪気もなく言っていたんです。そのうちに声が掛からなくなり、学生時代からの友達はほとんどいなくなりました」
ビジネスの最前線で仕事をしている自分は特別だ、という気持ちが先に出過ぎてしまったのだ。
「家庭の話をくだらないと思っていたんです。男顔負けの仕事をしている私を称賛してほしかったんだと思います。今、そのことを反省し、後悔しています。私の発言や態度は、友人たちの人生を否定し、攻撃していたんだな……と」
【会社や他人から評価されることが生きがいになると、定年後に苦しむ……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。











