宇野千代
写真:photoAC(一部加工)

はじめに-宇野千代とはどのような人物だったのか

宇野千代(うの・ちよ)は、『色ざんげ』『おはん』『或る一人の女の話』などの著作で知られる小説家です。

明治30年(1897)に山口県岩国で生まれ、小学校教師、雑誌社の事務員、飲食店の給仕などを経験したのち、大正10年(1921)、懸賞小説に応募した『脂粉(しふん)の顔』の入選をきっかけに作家となりました。

その人生はじつに波瀾に富んでいます。

尾崎士郎(おざき・しろう)、東郷青児(とうごう・せいじ)らとの恋愛、北原武夫(きたはら・たけお)との結婚と離婚。さらには出版社を経営し、女性向け雑誌『スタイル』を刊行するなど、小説の世界だけにとどまらない行動力を発揮しました。

そして宇野千代の大きな特徴は、自ら経験した恋愛や別れ、人との出会いを、文学へと昇華していったところです。

連続テレビ小説第115作『ブラッサム』の主人公・葉野珠(はの・たま、演:石橋静河)は、そんな宇野千代をモデルにした人物です。

この記事では、明治から平成までを生き、98歳まで創作を続けた宇野千代の人生を辿っていきましょう。

宇野千代が生きた時代

宇野千代が生まれたのは、明治30年(1897)。日本が近代国家として急速に変化していた時代でした。

その後、大正期には都市文化が発展し、女性の生き方にも少しずつ変化が現れます。しかし、女性が職業を持ち、自ら恋愛相手や生き方を選び、経済的にも自立して生きていくことは、現在ほど当たり前のことではありませんでした。

宇野千代は、そうした時代に故郷の岩国を離れ、京城、京都、大阪、東京、札幌など各地を移り住みながら、自ら仕事を探し、恋をし、作家への道を切り開いていきます。

宇野千代の生涯と主な出来事

宇野千代の生年は明治30年(1897)、平成8年(1996)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

山口県岩国に生まれる

宇野千代は明治30年(1897)11月28日、山口県玖珂郡岩国町大字川西に生まれました。父は俊次、母はトモ。宇野家は代々酒造を営んできた旧家でした。

岩国
岩国
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しかし、父には定まった仕事がなく、後年、千代自身も「家庭が何によって生計を立てているのかわからなかった」と回想しています。

千代が2歳の夏、実母トモが病死。一時は高森村に住む伯父のもとへ預けられましたが、翌年、父が再婚したため生家へ戻ります。

新しい母との間には5人の弟妹が生まれ、千代は彼らを背負って子守をしました。しかし、継母は千代を「姉さま」と呼んで大切にしてくれたといい、千代自身も強く「継母」と意識することはなかったようです。

一方、定職を持たず、競馬や博奕、遊興を好んだ父の姿は、千代の記憶に強く残りました。のちに、その父のイメージは小説『風の音』などにもつながっていきます。

17歳で教師に… しかし恋愛をきっかけに退職

明治43年(1910)、千代は岩国高等女学校へ入学しました。大正3年(1914)に卒業すると、すぐに川下村小学校の教師となります。

小学校
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ところが、若い千代は同僚の男性教師と恋に落ちました。そのため翌年には学校を辞めることになります。

ここから、本人が後年「若き日の放浪」と呼んだ時代が始まりました。

女学校時代の教師を頼って京城へ行き、その後は京都、大阪を転々とし、さらに東京へと向かいます。雑誌社の事務員やホテル、西洋料理店の給仕など、さまざまな仕事を経験しました。

一つの土地、一つの職業にとどまらない千代の行動力は、すでにこのころから表れていたのです。

芥川龍之介ら文学者と出会う

東京では、本郷三丁目のレストラン「燕楽軒(えんらくけん)」で働いたこともありました。

そこで、『中央公論』編集長の滝田樗陰(たきた・ちょいん)をはじめ、今東光(こん・とうこう)、芥川龍之介、久米正雄(くめ・まさお)らと知り合います。

芥川龍之介の短編『葱(ねぎ)』は、このころの宇野千代がモデルになったともいわれています。

まだ作家として世に出る前から、千代は当時の文学者たちと接点を持つようになっていました。

『脂粉の顔』で作家への道が開く

『日本近代文学大事典』(日本近代文学館)によると大正9年(1920)9月(※大正10年とする説もあり)、千代は従兄の藤村忠と結婚し、北海道札幌へ移り住んだといいます。ところが翌大正10年(1921)、人生を大きく変える出来事が起こります。

「藤村千代」の名で『時事新報』の懸賞小説に応募した処女作の短編『脂粉の顔』が、一等に当選したのです。

千代は単身上京。同年、『中央公論』に『墓を発(あば)く』を発表し、そのまま東京にとどまりました。

その後、藤村忠とは離婚し、本格的な作家生活へ入っていきます。一つの懸賞小説への応募が、千代の人生を大きく変えたのでした。

離婚届
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尾崎士郎と暮らし、文学者たちと交流

『時事新報』の同じ懸賞で第二席となっていたのが、作家の尾崎士郎でした。二人は知り合い、やがて同棲するようになります。

千代は大森・馬込周辺に住み、『幸福』『白い家と罪』『晩唱』などの作品を次々と発表しました。

このころには、三好達治、梶井基次郎、川端康成、萩原朔太郎らとも交流します。のちに日本文学史に名を残す作家や詩人たちが集った時代のなかに、宇野千代もいたのです。

東郷青児との恋愛から生まれた『色ざんげ』

昭和4年(1929)ごろ、32歳の千代は尾崎士郎と別れました。そして昭和5年(1930)、小説の取材をきっかけに洋画家・東郷青児と知り合い、やがて下北沢で同棲するようになります。

この関係から生まれた代表作が『色ざんげ』です。

昭和8年(1933)から発表されたこの作品は、洋画家・湯浅譲二が自身の女性遍歴を語る形式で進んでいきます。

題材となったのは、宇野と出会う以前の東郷青児の複雑な女性関係でした。

興味深いのは、宇野自身の恋愛を女性の側から語る作品ではなく、男性主人公に語らせていることです。

男性の告白を聞き取り、それを小説へと作り替える…。こうした「語り」を生かす方法は、その後の宇野文学にもつながっていきました。東郷との別れからは、『別れも愉し』『未練』などの作品も生まれています。

千代にとって恋愛は、実人生の大きな出来事であると同時に、小説を生み出す重要な源泉でもありました。

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雑誌『スタイル』を創刊

宇野千代は小説を書くことだけに満足しませんでした。昭和11年(1936)、スタイル社を創立します。そして女性向け雑誌『スタイル』の刊行を始めました。

作家自身が出版社を経営し、女性向けの雑誌を発行するという、当時としても大胆な挑戦でした。

このころ知り合った作家・北原武夫と結婚します。さらに昭和13年(1938)には文芸誌『文体』も創刊しました。

小説家であると同時に、自ら雑誌を作り、読者へ届ける出版人でもあったのです。

聞き書きの名作『人形師天狗屋久吉』

第二次世界大戦中、宇野千代は徳島へ向かいました。そこで浄瑠璃人形の職人を訪ね、その語りをもとに『人形師天狗屋久吉』を書き上げます。

この作品は、宇野千代の文学を考える上で非常に重要です。相手の話を聞き、その人自身が話しているかのような文体で人生を浮かび上がらせる「聞き書き」の手法が生かされているからです。

『色ざんげ』で用いた「人に語らせる」という方法は、ここでさらに磨かれていきました。

10年をかけて完成させた『おはん』

戦後、宇野千代は『文体』を復刊します。昭和22年(1947)から、その誌上で連載を始めたのが『おはん』でした。

ところが、作品はすぐには完成しません。『文体』が終刊したのち、『中央公論』で連載を続け、最終的に完成したのは昭和32年(1957)。約10年もの歳月をかけて書かれた作品でした。

『おはん』では、妻のおはんと芸者のおかよの間で揺れる男性が、自らの過去を語る形式を用いています。ここでも、宇野千代が得意とした「語り」の力が存分に生かされました。

『おはん』は高く評価され、野間文芸賞、日本女流文学者賞を受賞します。宇野文学を代表する作品となりました。

出版事業と結婚生活の破綻を小説へ

戦後、スタイル社の出版事業は一時大きな成功を収めました。しかし、その後は経営が苦しくなり、宇野は会社から離れることになります。

また、北原武夫との結婚生活も終わりを迎え、昭和39年(1964)秋に離婚しました。こうした仕事と愛情生活の破綻も、宇野は文学へと変えていきました。

昭和38年(1963)から発表された『刺す』では、当時の事業や愛の破綻を一人称による告白体で描いています。若いころの激しい恋愛を扱った作品とはまた異なる、静謐で落ち着いた語りが特徴です。

人生で起こったことをそのまま「失敗」として終わらせず、小説へと変えてしまう。それが宇野千代という作家の強さでもありました。

70代になっても代表作を生み出す

宇野千代の創作力は、年齢を重ねても衰えませんでした。昭和44年(1969)には『風の音』、昭和47年(1972)には『或る一人の女の話』を発表します。

恋愛
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『或る一人の女の話』は、自身の幼少期から、尾崎士郎と別れ、東郷青児と暮らし始めるころまでを題材にした自伝的小説です。しかし、自らの人生を声高に正当化するような作品ではありません。

過去の恋愛や行動を淡々と振り返りながら描くことで、独特のみずみずしさを生み出しました。

1970年代には、作品だけでなく、宇野千代自身の生き方にも大きな注目が集まります。明治、大正、昭和を、自分の意思で人生を選びながら生きてきた女性として、多くの人々から関心を集めるようになったのです。

85歳で『生きて行く私』がベストセラーに

宇野千代は80代になっても書き続けました。昭和57年(1982)、『毎日新聞』に連載された回想記が、『生きて行く私』です。85歳で刊行されたこの本はベストセラーとなりました。

小説
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幼少期から恋愛、結婚、文学、仕事まで、自らの人生を振り返った作品です。この『生きて行く私』によって、宇野千代は新たな世代の読者にも知られる存在となりました。

同作によって菊池寛賞も受賞しています。平成2年(1990)には文化功労者となり、日本芸術院会員にも選ばれました。

98歳まで「現役作家」

平成8年(1996)6月10日、宇野千代は急性肺炎のため亡くなりました。98歳でした。

大正10年(1921)に『脂粉の顔』が懸賞小説に当選してから、実に70年以上にわたって作家として活動したことになります。若いころの恋愛も、離婚も、仕事の成功も失敗も、老いさえも、宇野は自らの表現へと変えてきました。

98歳で人生を閉じるそのときまで、現役の表現者であり続けたのです。

まとめ

宇野千代は、しばしばその華やかな恋愛遍歴が語られることの多い人物です。

しかし、その生涯を辿ると見えてくるのは、恋をするたびに人生を変えた女性というだけではありません。出会った人の語りに耳を傾け、自らの喜びも失敗も別れも作品へと変え、新しい仕事へ次々に挑戦しながら、98歳まで書き続けた作家の姿です。

朝ドラ『ブラッサム』をきっかけに宇野千代を知った人にとっても、その実人生と作品をたどれば、ドラマのモデルという言葉だけでは収まりきらない、一人の作家のエネルギーが見えてくるのではないでしょうか。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

Instagram:@kyoto_monokaki note:@kyoto_monokaki
Facebook:@kyotomedialine

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本近代文学大事典』(日本近代文学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『Encyclopedia of Japan』(講談社)

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