画像はイメージです。(写真:photoAC)

「生花、造花、御供物の儀、かたくお断り申し上げ候」

昭和39年(1964)11月8日没。70歳。

三代目三遊亭金馬は、昭和の初めから30年代にかけて、ラジオやレコードを通じて広く全国に笑いを届け、大衆に落語の魅力を伝えた人気者だった。

操るのは、語り口の明快な「東京語」。小僧の声は子供らしく、侍の声は武張った感じなど、登場人物ごとに声音を変えて人物の描き分けをはっきりし、誰にでもわかる明るく面白い噺をテンポよく展開した。

高座に上がると、冒頭、口にするのは「お若輩な落とし噺を一席申し上げます」の決まり文句。噺のわかりやすさ故に、子供向けなどといわれることもあったが、本人の取り組みはそんな生半可なものではなかった。著書『浮世団子』に金馬は綴る。

われわれ噺家は、前座でも真打ちでも高座へ上がると、開口一番、「お若輩な落とし噺を一席申し上げます」とか「馬鹿馬鹿しいお噺を申しあげます」といいますが、心の中では決して「馬鹿馬鹿しい噺」だとか、「お若輩のこと」とは思っておりません。これはお客様へのへり下りで、本当は喰うか喰われるかで生命を打ちこんでお喋りをするのです。

言葉の端から、金馬の気概が伝わってくる。

ラジオの生放送で伸縮自在の話芸を披露する

金馬は明治27年(1894)、東京・本所に生まれた。本名は加藤専太郎という。

尋常小学校修了後、経師屋をつとめる伯父のもとに奉公に出された。この伯父はかつて落語家の弟子になった経歴を持ち、また近所に寄席があったため、芸人たちがちょくちょく店に立ち寄った。芸人たちと顔なじみとなった加藤少年は、寄席に無料で入れるようになり、つい入り浸りになっていく。

大正元年(1912)、講釈師の揚名舎桃李(ようめいしゃ・とうり)のもとで講釈修業をはじめた。先生の「破れ鐘のような大きな声」を慕っての入門だったという。ところが、真面目な話でも人を笑わせてしまう生来の滑稽味から落語への転向を勧められ、翌年、19歳で初代三遊亭圓歌に弟子入り。本名の加藤にちなんで「歌当」を名乗った。

大正4年(1915)歌笑で二ツ目。その翌年、橋本川柳(のちの三代目三遊亭圓馬)の一行に従って長い旅興行へ出かけた。この旅興行の間、橋本川柳の傍らにいて、自然と骨太な芸風を身につけた。旅から帰った大正8年(1919)に名を圓洲と改め、翌年、圓洲のまま真打ち昇進。大正15年(1926)4月、生存中の二代目金馬に名跡を譲られ、三代目金馬を襲名した。

金馬が初めてラジオで落語を講じたのは、三代目襲名から4か月後のことである。『日本放送史』(日本放送協会編)に、金馬のこんな談話が収められている。

その頃は録音ではなく、全部ナマ放送であった。落語、講談、邦楽などは六畳敷くらいの日本間に座布団で、食卓の上に黒くて丸い穴のあいた俗に蓮の実マイクで話に「かみしも」、つまり右を向いたり左を向くことが出来ず、声の高い、低い、メリハリもつけられず、正面のマイクとにらめっこの一本調子。
『初放送』

のちにラジオの落語放送で大活躍を見せる金馬も、最初は戸惑いの連続であったことが窺える。登場人物ごとに声音を変え、音源だけで子供にも理解できるわかりやすい演じ方に仕上げていったのは、この戸惑いを経ての創意工夫の成果だったと言えるだろう。

そんな金馬のもとにレコード録音の話が持ち込まれたのは、昭和4年(1929)、35歳を迎える頃だった。大阪で義太夫や演芸もののレコードを発売していた日東蓄音機(ニットーレコード)が、落語のレコード化を企画したのである。

当時のレコードはSP盤。収録時間は片面約3分で、裏表両面合わせてもわずか6分間しかない。そこで金馬は知恵を絞った。古くからある噺『万病円』をヒントにして、『ずっこけ』の前半部分を独立させ、そこに創作を組み合わせ6分に構成した。こうして生まれたのが金馬の十八番となる『居酒屋』だった。このレコードが大ヒットした。

とくに金馬が気を遣ったのは、出だしの20秒。全体が6分でマクラをふっている暇もないから、いきなり本題に入っていく。その本題も、すぐに面白くないと聞いてもらえない。金馬はそう考えて、工夫を凝らしたという。

SPレコード『居酒屋』の大ヒットで、金馬は全国的な人気者となった。ニットーレコードと専属契約を交わし、その後、昭和10年(1935)までの間に同社から発売したレコードは71枚に及んでいる。

一方、寄席で演じる金馬の『居酒屋』は、6分間ではなかった。2倍、3倍の時間をかけて、しかも緩むことのない面白さがあった。

他のネタも同じことだった。反対に、元は10分、20分ある噺を6分のSPレコードに吹き込んでも、巧みな構成力で窮屈な印象を与えなかった。このことは、ラジオ番組の制作者にとっても非常にありがたいことだった。

というのも、当時のラジオはすべて生放送。たとえば、放送時間が10分だったら10分にピタリとおさめなければならない。金馬は普段から、自分でストップウォッチを持ってラップタイムを計りながら、「ここまでを何分何秒で通過したら、あとサゲまでは何分だからちょうどおさまる」といったやり方で、一所懸命に稽古を重ねていた。だから、噺を縮めるのも延ばすのも自在にできた。ラジオ放送で何人かの出演者がいる場合でも、「前の人が延びても金馬さんなら縮めてやってくれるし、時間が余ったら長くやってもらえる」ということで、放送関係者に非常に重宝がられたのである。

東京大空襲のあと、弟子の身を案じ自転車で駆けつけた

昭和9年(1934)、落語界を揺るがすような事件が起きた。阪急グループや宝塚、東宝の創始者として知られる関西の大物実業家・小林一三の発案で、寄席興行「東宝名人会」が発足されたのである。東京・日比谷の東宝劇場の5階にある東宝小劇場を会場にして、落語、講談、長唄、清元、義太夫、日本舞踊など、各ジャンルの名人たちによる一流の芸を堪能してもらおうという、新時代の興行だった。

東京落語を代表する噺家たちも、誘いを受けて次々と出演契約を結んだ。ところが、これを従来の寄席を圧迫する興行ととらえた東京寄席演芸組合が反発し、噺家たちに東宝との契約を破棄するよう迫った。東宝名人会に出た芸人は寄席から追放するという通告まで出した。

この通告に驚いた噺家たちは、慌てて東宝との契約を取り消した。が、金馬だけは一度取り交わした契約を反故にすることは信義にもとるとして、甘んじて東京落語協会からの除名処分を受け入れた。その後、昭和11年(1936)に落語協会と東宝は和解したが、金馬はとうとう協会に戻ることなく気骨を貫いた。

寄席に出られない間の稼ぎ仕事として、金馬は、新橋や赤坂の料亭の座敷で、政財界の旦那衆をお客に一席うかがった。メモ帳に事細かに記録をつけ、同じお客に同じ噺を聞かせないよう、心配りを怠らなかったという。

落語協会に戻らなかった金馬には、もうひとつ、弟子の育成の問題があった。

東宝名人会は、舞台の進行は専門のスタッフがいるし、前座は高座で喋ることはできない。落語協会と和解しても出演する噺家は限られているから、弟子を連れていっても、多くの先輩と接したり、ましてや寄席のあれこれを学びとる機会がない。

そこで金馬は一計を案じた。

当の弟子の立場だった四代目三遊亭金馬(昭和16年に三代目金馬に入門)が、師匠の「一計」を著書の中で説き明かしている。

うちの師匠は東宝名人会の専属ですから、寄席(定席)へは出ません。(略)しかし、弟子には昔ながらの寄席のことを一通り覚えさせなくてはいけないだろうという師匠の判断で、師匠の弟弟子に当たる二代目・三遊亭円歌師匠のところの預かり弟子という形で寄席へ出勤することになりました。(略)師匠の家で内弟子の修業をしながら、師匠は東宝名人会へ、私は寄席へ修業をしにいくという、少し変わった形の生活がはじまったのです。
『金馬のいななき』

三代目金馬は、弟子に対し、楽屋での行儀作法とか口の聞き方などは仕込んでも、肝心な噺のこととなると、なかなか自分では稽古をつけなかった。「自分と同じようになったら俺より売れないんだから」というのがその理由だった。それでも、一杯飲んでご機嫌のいいときを見計らって、他の師匠に習った噺を見てもらうと、「まったく下手くそで聞いちゃいられねえ」などと言いながら、そこんところの手の形はこうしなきゃ狸にならないとか、鰻をつかまえるときはこうしなくちゃとか、細かく注意してくれたという。厳しさの奥に、弟子への愛情とやさしさを秘めていた。

四代目金馬が伝える、戦時中のこんなエピソードもある。

昭和20年(1945)3月9日の深夜、東京大空襲で下町一帯が焼かれた。当時、前座の山遊亭金時を名乗っていた四代目金馬は、母親と二人で錦糸町に間借りしていた。入門以来、内弟子として師匠の自宅に同居していたが、「おっかさん一人では何かと不安だろうから帰ってやれ」と言われ、前年秋から通いとなっていたのだ。錦糸町の家を焼け出されながら、どうにか生き残った前座の金時とその母は、知人を頼って目黒に身を落ち着けた。

その翌日、金時が師匠のところへ挨拶に行くと、師匠は激しく怒った。

「この野郎、なぜ俺のとこへ真っ先に来ない。俺が探しに行ったら、まあ近所の人から生きてるって聞いたからほっとしたけど、勘弁できねえ」

怒りながら、その目には涙があふれていた。

三代目金馬は東京大空襲のあった夜が明けると、愛弟子とその母の身を案じ、新宿の自宅から自転車で錦糸町に駆けつけて、辺りを探し回っていたのだった。

頑固一徹、威勢がよくて意地っ張り。そんな性癖は、戦時下の米軍相手でも変わらず、空襲がきても「怖い」などとは口にしない。戦局がどんなに厳しくなっても、金馬は東京を離れようとしなかった。「芸人がみんな東京からいなくなって、一人になっても俺はラジオの前でしゃべるよ」と語っていたという。

「私事この度無事死去つかまつり候」と口述を遺す

金馬は博学の書斎派でもあった。落語についての疑問や昔の風俗習慣などを、さまざまな書物を繙いて勉強していた。教養と含蓄に富む著書『浮世断語』がそのひとつの成果である。

同時代の評論家や落語通は、ともすると、わかりやすい落語で大衆的な人気のあった金馬を、名人気質の八代目桂文楽らと比較し軽んじる傾向があった。

しかし、同じ芸道を歩む噺家たちの見方は違っていた。比較の対象とされた文楽は、金馬と親交が深く「加藤さん」「並河さん」と本名で呼び合う仲。ともに三代目圓馬の薫陶を受け、飲みながら芸の話が始まると夜明かしになることもしばしばだったという。

また、六代目三遊亭圓生は金馬の明快な語り口をよしとし、「あれほどのことばの粒立ちのよさは稀に見るもの、あたくしは到底あんなふうにはしゃべれません」と話していた。

一方で、金馬は頗るつきの釣りマニアでもあった。

若いうちは、釣りのためにかなり無茶もやった。館山湾の大鯵釣りで、手漕ぎの船で沖合に出て、錨綱が切れて沖へ沖へと流され、川奈の船頭に助けられたこともあった。首都圏が台風で荒れ模様のとき、名古屋の釣友とふたりで、伊勢の四日市の突堤へ船で渡してもらって、大きな波を頭からかぶりながら、体を灯台の階段に結びつけ、竿も出せない中、波に打ち上げられた3尺以上もある太刀魚を玉網で伏せて捕って、迎えの船を待ち続けるという体験もした。

もっとも大きな事故に遭遇したのは、昭和29年(1954)2月5日。

その日、朝起きてみると、風はなく温かな小春日和。めったにない休みで家にいるのも勿体ないと、金馬は「タナゴ釣りにでもいってこようか」と、ふらりと家を出て千葉県佐倉の鹿島川へ向かった。ところが、目指した釣り場のコンディションが悪く、場所を変えようと、金馬は総武線の線路づたいにぶらぶらと歩いた。汽車が近づいてきたら土手から降りればよいと思いながら、いつか鉄橋へさしかかっていた。ピーピーという汽笛の音が後ろから聞こえたのは、鉄橋の真ん中あたり。横に逃げることもできず、金馬ははね飛ばされた。

汽車が止まり、人が集まってくる。名刺を出し「俺一人が悪い」と責任の所在を明確にしながら、そのとき金馬の頭に思い浮かんだのは、「明日の放送はこれでできないな」ということだった。ラジオの出演が2本、予定されていたのである。いったん佐倉の国立病院に運ばれ応急処置が施されたが、そこでも、血と泥にまみれた顔で、「早く湯を沸かしてくれ、放送局へ行くんだ」と譫言(うわごと)を言っていたという。

佐倉の病院では、それ以上の思うような手当てはできないからと、東京・赤坂の前田病院まで寝台自動車で搬送された。何度もレントゲンをとり詳しく検査してみると、後頭部にひびが入って眼鏡の玉ほどの内出血が2か所、左足の膝の裏の骨が折れ、膝から下の肉が剥がれ、左足の指はぶらぶら、背骨の4つ目がずれるという大怪我だった。

脚の先を切断する手術が施されることになったが、手術は一度ですまず二度に及んだ。そんな中でも、手術台の上で麻酔がかかると、金馬は二回とも無意識のうちに、釣りと幽霊の話が出てくる落語の『野晒し』をはっきりと喋り出したという。

半年ほどの入院で、7月20日に退院。入院中は、全国のファンから見舞いと激励の手紙が届いた。退院した金馬のために、東宝名人会が帝国劇場で金馬全快祝賀落語大会を催した。会には、志ん生、文楽、柳橋、圓蔵、徳川夢声らが出演した。これを最後に、帝国劇場は演芸をやめ、映画専門館になった。

左足先を失った金馬は、正座ができなくなり、以降の高座は、椅子とテーブルを使っての落語となった。それでも、「別に釣りで怪我したんじゃない。俺が不注意だからそういうことになったんだ」と言って、その後も釣りはやめなかったという。

昭和39年(1964)8月25日、金馬が親しくしていた兄弟弟子の二代目三遊亭圓歌が急逝した。金馬は葬儀の席で人目も憚らずぽろぽろと涙をこぼし、「馬鹿野郎、馬鹿野郎」と呟いていた。その後まもなく自身も体調を崩し、慶応病院に入院した。奇しくもこの年は東京オリンピックの年で、10月10日には病院に隣接する国立競技場で開会式があった。青く晴れ渡った空に、航空自衛隊の曲技飛行チーム「ブルーインパルス」の5機のF86 戦闘機が、青、黄、黒、緑、赤のスモークをはきだし、五輪マークを描き出した。その飛行ショーを、金馬は病室のベランダから眺めていた。その胸には、時代の移り変わりのようなものが去来していたかもしれない。

オリンピック閉幕から間もない11月8日、三代目三遊亭金馬は肝硬変のため息をひきとった。少し前、金馬は死を覚悟して、こんな言葉を口述していた。

「私事この度無事死去つかまつり候御安心下されたく、普断の意志により、生花、造花、御供物の儀、かたくお断り申し上げ候。普断の頑固をお許し下さい。何百年後、極楽亭か賽の河原の露葉にてお目にかかるやも知れず、皆様長生きして下さい。三遊亭金馬」

大衆に笑いを届け続け、死に際まで頑固一徹を貫いた噺家人生だった。

【主な参考文献】
『浮世だんご』(三代目三遊亭金馬、つり人社)、『金馬のいななき 噺家生活六十五年』(四代目三遊亭金馬、朝日新聞社)、『落語ハンドブック』(山本進編、三省堂)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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