夏目漱石像。

「死んでも自分はある、しかも本来の自分には死んで始めて還れるのだと考へてゐる」

夏目漱石 大正5年(1916)12月9日没。49歳

大正5年(1916)1月1日、漱石夏目金之助は東京・早稲田南町の自宅、いわゆる「漱石山房」で、数え50歳となる元旦を迎えた。屠蘇を飲み、雑煮を食べて新春を寿ぐ。雑煮には鶏肉、小松菜に加え、ちょっと贅沢に松茸が入っていた。松茸は秋の味覚を代表するもの。電気冷蔵庫による冷凍保存などできない時代だから、漱石夫人の鏡子が塩漬けにしておいたのだろう。前年の秋には、あちこちの知友から、例年より多くの松茸が届いていた。

織田信長の愛した幸若舞『敦盛』ではないが、当時はまだ「人間五十年(人生50年)」という意識が一般に浸透している。漱石自身も、学生時代には、同級生で親友の正岡子規あての手紙に《定業五十年の旅路をまだ半分も通りこさず既に息竭き候》(明治23年8月9日付)と綴ったことがあった。

そんな自分がいま、50歳の新春を迎えている--。漱石の感慨は一入であったろう。子規は、漱石英国留学中の明治35年(1902)9月、数え36歳の若さで早世している。

「自己の天分の有り丈を尽さう」

この日の東京朝日新聞には、漱石の筆になる随筆『点頭録』の第1回の原稿が掲載されていた。

《また正月が来た。振り返ると過去が丸で夢のやうに見える。何時の間に斯(こ)う年齢を取つたものか不思議な位である》

そう書き出された原稿は、自己の存在の認識は極限まで推し進めると無に等しいと解釈できる一方で、現在の我は厳存しているという見方を提示し、《自分は此一体二様の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流に任せる覚悟をした》と綴られる。そして、その覚悟は中国唐代の禅僧・趙州の姿に重ねられていく。

《趙州和尚といふ有名な唐の坊さんは、趙州古仏晩年発心と人に云はれた丈あつて、六十一になつてから初めて道に志した奇特な心掛の人である。七歳の童児なりとも、我に勝るものには我れ即ち彼に問はん、百歳の老翁なりとも我に及ばざる者には我れ即ち佗を教へんと云つて、南泉といふ坊さんの所へ行つて二十年間倦まずに修業を継続したのだから、卒業した時にはもう八十になつてしまつたのである。夫から趙州の観音院に移つて、始めて人を得度し出した。さうして百二十の高齢に至る迄化導を専らにした。

寿命は自分の極めるものでないから、固より予測は出来ない。自分は多病だけれども、趙州の初発心の時よりもまだ十年も若い。たとひ百二十迄生きないにしても、力の続く間、努力すればまだ少しは何か出来る様に思ふ。それで私は天寿の許す限り趙州の顰(ひそみ)にならつて奮励する心組でゐる》

何年生きられるか、寿命は計り知れない。漱石の学生時代の友人の中には、子規の36歳より早く、29歳で逝った米山保三郎という哲学徒もいた。また、漱石の長兄・大助と次兄・直則は、漱石21歳の年(明治20年)に、それぞれ32歳と30歳で亡くなっている。漱石は病臥する大助の枕頭に付き添って看護にあたっていたという。

そして、何より、漱石本人が、6年前、44歳の折に、胃潰瘍の入院加療のあと転地療養のため訪れた伊豆・修善寺で大吐血して意識不明に陥り、九死に一生を得たことがあった。以来、体のあちこちに不調をかこっている。髪も髭もめっきり白くなった。それでも50歳の春を迎えるに至った。ならば、61歳から修業を始め120歳まで長生きし衆生を教え導いた名僧・趙州を見習って、自分も命の続く限り奮励してみようと、改めて思う漱石なのである。

『点頭録』第1回の稿は、こう結ばれる。

《古仏と云はれた人の真似も長命も、無論自分の分ではないかも知れないけれども、羸弱なら羸弱なりに、現にわが眼前に開展する月日に対して、あらゆる意味に於ての感謝の意を致して、自己の天分の有り丈を尽さうと思ふのである。自分は点頭録の最初に是丈の事を云つて置かないと気が済まなくなつた》

このときの漱石は遠からぬ死の訪れを意識し、覚悟と感謝をもって生きていこうと思いながら、なお幾年かの残り時間はあるような気持ちでいたのではないだろうか。しかし、漱石が迎える正月は、これが最後となった。

絶筆は原稿用紙の右肩にメモされた「189」

晩年の漱石は、執筆活動の合間に、絵を描いたり漢詩をつくったりする趣味にもいそしんでいた。これもある意味、「自己の天分の有り丈を尽さう」とする仕儀だったろう。絵の先生は、年少の友人で画家の津田青楓。けっして「玄人はだし」とは言えないが、独特の味わいのある文人画を描き続けた。門弟の野上豊一郎にあてた手紙の中の《生涯に一枚でいゝから有がたい感じのする絵が描きたい。山水動物花鳥何でも構はない》という言葉は、ちょっといじらしくもある。

大正5年(1916)11月22日の朝、漱石は体調が思わしくなかった。それでも、少し落ち着くと、いつものように書斎の紫檀の机に向かった。午前中のうちに朝日新聞に連載中の小説『明暗』の1回分の原稿を執筆するのが、このころの日課だった。それが、この日は1字も書かないうちに倒れた。女中が昼食前に服用する持薬をもっていくと、机の前の絨毯の上にうつ伏せになって、胃潰瘍の発作にじっと耐えている漱石を発見した。呼ばれてかけつけた妻の鏡子が漱石の傍らで言った。

「具合が悪いようでしたら床をとりましょうか?」

漱石は「ああ」と返事をして続けた。

「人間もなんだな、死ぬなんてことは何でもないもんだな。俺はこうやって苦しんでいながら辞世を考えたよ」

縁起でもない、と思った鏡子はその言葉には取り合わず、床を延べて漱石を寝かせた。机の上には、19字詰め10行、「漱石山房」の篆書を左右から竜頭がはさむ特製の原稿用紙が置かれていたが、枡目の中はまっさらなままで、右肩に「189」という数字だけが書かれていた。前日に『明暗』の第188回の原稿を書き上げ、次の原稿用紙に心覚えの数字を記しておいたものであった。この病臥が、そのまま漱石の臨終につながっていく。

慶応3年(1867)に江戸牛込で生まれた漱石は、明治という時代とともに年を積み重ねた。松山や熊本での英語教師、英国留学、東京帝国大学講師などを経て、『吾輩は猫である』で小説家デビュー。その後、朝日新聞入りして、『三四郎』『それから』『門』『こころ』『道草』などの名作を次々と紡ぎ上げてきた。その執筆活動も、『明暗』第188回の《津田は其微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰つた。》という一節と「189」の数字を絶筆として、幕引きとなったのである。

寺田寅彦、鈴木三重吉、小宮豊隆、森田草平、野上弥生子、内田百間(*)、芥川龍之介ら、多くの門下生を教え導き、その心を照らしてきたことも、漱石の事跡として特筆に価する。最古参の門弟で、世界的物理学者、名随筆家としても知られた寺田寅彦は、自分たちにとっての漱石の存在をこう綴っている。

《色々な不幸の為に心が重くなつたときに、先生に会つて話をして居ると心の重荷がいつの間にか軽くなつて居た。不平や煩悩の為に心の暗くなつた時に先生と相対して居ると、そういふ心の黒雲が綺麗に吹き払はれ、新しい気分で自分の仕事に全力を注ぐことが出来た。先生といふものゝ存在そのものが心の糧となり医薬となるのであつた》(『夏目漱石先生の追憶』)

11月22日の漱石の胃潰瘍発作の端緒は、4日前(11月18日)の食事に溯れると、のちに医師が分析している。この日、金沢在住の英文学者・大谷正信が夏目家へ鶉の粕漬けを送ってくれた。大谷は松江時代からの小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の教え子で、のち正岡子規に師事した俳人でもあった。漱石は早速、その晩、喜んでその鶉の粕漬けを骨ごと賞味し、結果として胃に疼痛と膨満感を覚えた。さらにその2日後、知り合いの結婚披露宴に出席するため、築地の精養軒に夫婦して出かけた。席は男女別にわかれており、鏡子夫人は食卓の上に置かれている砂糖をまぶした落花生(南京豆)を見て、ちょっと心配になった。注意する者が側にいないのをいいことに、甘党の漱石が胃に負担のかかるそんなものを食べなければいいがと思ったのである。宴が終わっての帰り道、鏡子が「豆を食べましたか」と尋ねると、漱石は「食べた」と言う。

「胃が痛いなどと言ってて、いやな人ね」

「なあに、もうすっかり治ったよ」

そんな他愛のない会話を交わして夫婦は帰宅したが、この落花生が鶉の粕漬けとともに漱石の胃を悪い方向に刺激し、22日の胃潰瘍発作につながったのだった。

故人の遺志で遺体は解剖に付される

発作に倒れたその日から、松山時代の教え子で医師の真鍋嘉一郎らによって治療の手が尽くされた。家族はもちろん、門弟たちも交代で付き添い漱石の容態を見守った。

晩年の漱石は「道に入る」ことを志していた。でも、そこはひとりの人間。死にいたる床の上で、時に動揺する真鍋医師を「何を騒ぐか、君がちゃんと落ち着いてくれんと、俺は落ち着いて往生できんじゃないか」と叱りつけるほどの気魄を見せる一方で、妻の鏡子に対して「トーストが薄い」と駄々をこね、あるときは「死ぬと困る」とうわ言を口走りもした。

少し前、門弟の林原耕三あての手紙に、こんなふうに書いていたことが想起される。

《死んだら皆に柩の前で万歳を唱へてもらひたいと本当に思つてゐる。私は意識が生のすべてであると考へるが同じ意識が私の全部とは思はない。死んでも自分はある、しかも本来の自分には死んで始めて還れるのだと考へてゐる。私は今のところ自殺を好まない。恐らく生きる丈生きてゐるだらう。さうしてその生きてゐるうちは普通の人間の如く私の持つて生れた弱点を発揮するだらうと思ふ、私はそれが生だと考へるからである》(大正3年11月14日付)

病臥から2週間余りが過ぎた大正5年(1916)12月9日--。

この日は、風もなく小春日和の土曜日だった。いったん学校に送り出された夏目家の6人の子どもたちは、昼前に次々と呼び戻された。漱石の病状に異変が察せられたからだった。鏡子とともに枕許に並んだ子どもたちがいつの間にか声を上げて泣き出すと、漱石は閉じていた目を開き、「泣くんじゃない、泣くんじゃない、いい子だから」とやさしく声をかけたという。

漱石の息は、死とのせめぎ合いを経て、もはや次第に消えていこうとしていた。その唇を、医師に促されて、鏡子が、子どもたちが、友人、門弟らが、ひとり、またひとりと水筆でしめらせていく。末期の水であった。午後6時45分、皆に看取られながら絶命。満年齢だと、50歳に2か月ほど足りない生涯だった。

葬儀は12月12日、青山斎場で催された。葬儀の導師は、交流のあった円覚寺派管長の釈宗演がつとめた。葬儀の日、外套に中折帽子の風格ある人物がやってきて、受付にいた芥川龍之介の前に名刺を差し出した。芥川はその風貌の立派さに打たれた。名刺には「森林太郎」とあった。顔を合わせたのは数度だけ、しかし互いに尊敬し著書を送り合っていた森鴎外が、陸軍の大先輩に当たる元帥陸軍大将・大山巌の弔いのためにその邸宅を訪問する前に、きっちりと斎場に足を運び、漱石に別れを告げたのである。芥川は記す。

《霜降の外套に中折帽をかぶりし人、わが前へ名刺をさし出したり。その人の顔の立派なる事、神彩ありというべきか、滅多にある顔ならず》(『葬儀記』)

前日の新聞には時間を間違えて報知してあったにもかかわらず、他にも、多くの会葬者がつめかけた。神戸からは、晩年に漱石と交流をもち、そのやさしさにふれた二人の若い禅僧がやってきて、ひと七日の間(7日間)、心のこもった経を読み上げていった。

没後、漱石の遺体は解剖に付された。「故人の遺志をくんで、医師たちへの感謝の念から解剖に付してもらいたい」と妻の鏡子が医師の真鍋嘉一郎に申し出たのである。遠因には、五女のひな子が幼くして急逝したとき、解剖に付さなかったため死因が不明のままだったこともあったという。

解剖は東京帝国大学医科大学病理解剖室にて、長与又郎(漱石の主治医だった長与胃腸病院院長・長与称吉の弟)の執刀で、多くの医師や助手らの立ち会いのもとでなされた。アルコール漬けにされた漱石の脳髄と内臓患部は、参考資料として今も大切に保管されている。法名・文献院古道漱石居士。墓は東京・豊島区の雑司ヶ谷霊園にある。

*百間の「間」は正しくは門構えに月

(主な参考文献)『漱石全集』全28巻、別巻1(岩波書店)、夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫)、夏目伸六『父・夏目漱石』(文春文庫)、荒正人『増補改訂 漱石研究年表』(集英社)、『新潮日本文学アルバム 夏目漱石』(新潮社)

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矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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