大正12年(1923)9月1日、東京に甚大な被害をもたらした関東大震災から今年で100年が経過した。中でも、特に壊滅的だったのが現在の台東区、墨田区であり、現在のJR両国駅に近い当時の東京市本所区では、多くの被害者を出した。

江戸の面影を残すこの地に、18歳まで居住していたのが、日本を代表する文豪、芥川龍之介だ。

東京・墨田区にある「たばこと塩の博物館」で開催中の特別展「芥川龍之介がみた江戸・東京」では、龍之介が見たであろう「江戸」から「東京」へ大きく変わる明治から大正期、関東大震災後の復興が進む風景を数々の展示品を通じて紹介している。龍之介と同じ目線で、激しく風景が変遷した、東京下町を疑似散策することができる。

特別展「芥川龍之介がみた江戸・東京」
https://www.tabashio.jp/exhibition/2023/2309sep/index.html

龍之介の愛した大川(隅田川)を巡る

本所・両国といえば、古典落語ファンにはおなじみの東京を代表する下町である。35歳の若さで生涯を閉じた龍之介は、その半生をこの地で暮らし、随筆には、本所で過ごした少年期の追想が何篇も綴られている。とりわけ懐かしくもあたたかい筆致で描かれているのが、幼少期の遊び場であり、住居から目と鼻の先に流れていた隅田川(当時の名称は大川)である。大正3年(1914)に発表した「大川の水」という初期の作品にはこんな一節がある。

「もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。」

この深い情愛に満ちた文章からも、龍之介にとって隅田川が、いかに特別な存在であったかを、窺い知ることができる。

井上安治画 「東京真画名所図解」
井上安治(1864-1889)が明治14年(1881年)から、亡くなる明治22年(1889)まで手がけた東京の名所を描いたシリーズの1作。隅田川の情景が写実的に描かれている。
「浅草雷門方面より吾妻橋及本所方面全景」絵葉書(個人蔵)
人道橋、鉄道(東京市電)橋、車道橋の3本が平行して架けられた大正期の風景。画面奥左には、大日本麦酒吾妻橋工場(現・アサヒグループ本社)の大きな建物が見える。

龍之介が亡くなる昭和2年(1927)、東京日日新聞で連載された「本所両国」には、隅田川にまつわるエピソードがいくつも述べられている。

「僕の水泳を習ひに行つた「日本游泳協会」は丁度この河岸にあつたものである。僕はいつか何かの本に三代将軍家光は水泳を習ひに日本橋へ出かけたと言ふことを発見し、滑稽に近い今昔の感を催さない訣には行かなかつた。しかし僕等の大川へ水泳を習ひに行つたと言ふことも後世には不可解に感じられるであらう。現に今でもO君(注:同紙の記者)などは、「この川でも泳いだりしたものですかね」と少からず驚嘆していた。」(「本所両国」より)

「僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜を感じている。それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかかつていた。僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」や蘆の茂つた中洲を眺めたりした。中洲に茂つた蘆は勿論、「百本杭」も今は残つていない。「百本杭」もその名の示す通り、河岸に近い水の中に何本も立つていた乱杭である。」(「本所両国」より)

少年時代の龍之介の記憶に刻まれた隅田川での遊泳、百本杭、さらに隅田川の渡しは、時代の近代化に飲み込まれ、消え去っていった。

特別展「芥川龍之介がみた江戸・東京」の展示では、当時の景観が絵葉書によってよみがえり、江戸情緒と近代の躍動感が混在する隅田川のそぞろ歩き気分が味わえる。後年、田端へと住まいを移した後も、龍之介の心は生涯、隅田川にあったのかもしれない。

「〈東京名所〉両国百本杭」絵葉書(個人蔵)
隅田川は、水量が多く、湾曲部ではその勢いが増し川岸が浸食されていた。上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、おびただしい数の杭が打たれていた。
「東京名所 隅田川之遊泳」絵葉書 (個人蔵)
隅田川は各学校の水練所として使われ、龍之介が水泳を習った「日本游泳協会」も川岸にあった。大正6年(1917)、水質悪化を理由に遊泳が禁止された。

龍之介の「故郷」の築地、18歳まで過ごした本所・両国

龍之介は、明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町8丁目(現・東京都中央区明石町)、現在の築地地域で新原敏三・ふくの長男として築地で生まれた。新原敏三は、渋沢栄一らが箱根で興した耕牧舎で働き、後に経営者となる人物である。生家は、西洋人の住宅やホテルの立ち並ぶ「築地居留地」にあり、日本人が居住する住宅3軒のうちの1軒が新原家だった。跡地は現在、聖路加国際病院となり、聖路加国際病院旧館前には「芥川龍之介生誕の地」の説明版が建てられている。

「明細測量 東京全図」 明治19年(1886)
龍之介の生家は外国人居留地に面した場所(現・聖路加国際病院旧館)にあった。
『本所絵図』 嘉永5年(1852)
龍之介が養子縁組をした芥川家は、代々徳川家に仕えた奥坊主であり、江戸時代の地図にもその名が記される。隅田川や回向院の近くにあったことがわかる。

実母の病により、生後8か月頃から本所区小泉町にあった芥川家に引き取られた。実母の兄・道章とその妻とも、そして母の姉である伯母のふきに育てられ、12歳の時に、芥川家の養子となった。小泉町は現在の両国3丁目のあたり、JR両国駅東口に近い場所に位置する。現在はビルにかこまれ、町の様相が一変したが、少年期に遊び場であった寺院「回向院」や、明治後期、その境内に建設された「国技館」の想い出は随筆にたびたび登場する。

龍之介は幼い頃から成績は優秀だった。明治30年(1897)に回向院にあった江東小学校附属幼稚園に入園、その後、江東小学校(現・両国小学校)、東京府立第三中学校(現・両国高校)へと進学する。

「高架鉄道」絵葉書(個人蔵)
明治37年(1904)、龍之介が12歳の時、総武鉄道(現・JR総武線)の両国橋停車場(現・両国駅)が開業した。隣の本所停車場(現・錦糸町駅)との区間は、日本初の高架鉄道となった。
「東京大相撲国技館開館式ノ光景」絵葉書(個人蔵)
明治42年(1909)6月に建造された初代「国技館」。

さらに帝国大学の予科として位置付けられた第一高等学校に推薦で入学すると、大正2年(1913)、東京帝国大学文科大学英文学科へ進んだ。

「第一高等学校(東京名物)」絵葉書(個人蔵)
第一高等学校は、帝国大学進学のための大学予科としての役割を果たし、全寮制であった。中央の時計台は関東大震災後に解体されるまで、「一高」を象徴する存在だった。
「東京帝国大学」絵葉書(個人蔵)
明治30年(1897)京都帝国大学創設に伴い、東京大学から「東京帝国大学」と改称された。写真は現在、本郷通り沿いの「正門」(赤門)の位置にあった木造の「仮正門」。

特別展「芥川龍之介がみた江戸・東京」では、展示される絵図や絵葉書などから各時代に思いを馳せつつ、文豪・芥川龍之介の生い立ちを共に歩めるようになっている。

江戸情緒と近代化が交わる大正・昭和初期の風景を作品に

明治43年(1910)の大水害によって家が浸水したことで、芥川家は、本所を離れ、当時、内藤新宿にあった実父が経営する「耕牧舎」の牧場内に仮住まいを構えた。この地で、第一高等学校時代から東京帝国大学2年時までの4年間暮らした後、終の棲家となる田端へと移った。

東京帝国大学在学中には、菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』(第3次)を刊行。大正4年(1915)には、有名な「羅生門」を『帝国文学』に発表する。大正5年(1916)には第4次『新思潮』を発刊し、創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛されたことで、芥川龍之介の名が文壇に広まっていく。田端時代は、龍之介の作家としての熟成期であり、「杜子春」、「河童」、「西方の人」など、後に日本文学を代表する作品を、数多く残している。

「河童」が掲載された『改造』(1927年3月号)
雑誌『改造』には龍之介も数多くの作品を寄稿している。晩年の代表作である「河童」にちなみ、龍之介の命日7月24日は「河童忌」と呼ばれるようになった。

大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災は、関東一円や伊豆諸島に大きな被害をもたらした。東京では、銀座、日本橋、現在の台東区、墨田区が大きな被害を受けた。特に龍之介が育った本所・両国地域は、街が一変するほどの甚大な被害を受け、被害者は被災地でも最高数となる5万4000人以上に上った。

震災当時、龍之介は田端に住んでいたが、震災後に“東京の故郷”を訪ね歩く。東京日日新聞で連載された「本所両国」では、その時の心情をこう語っている。

「そのうちに僕は震災前と――といふよりも寧ろ二十年前と少しも変らないものを発見した。それは両国駅の引込み線を抑へた、三尺に足りない草土手である。僕は実際この草土手に「国亡びて山河在り」という詠嘆を感じずにはいられなかつた。しかしこの小さい草土手にこういふ詠嘆を感じるのはそれ自身僕には情(なさけ)なかつた。」(「本所両国」より)

特別展「芥川龍之介がみた江戸・東京」では、関東大震災で被災した本所・両国周辺の様子を写した、絵葉書を展示。龍之介が体験した衝撃とやるかたない落胆、変貌した町の風景を見ることができる。

「本所両国国技館附近の全滅」絵葉書(個人蔵)
この他にも、「吾妻橋の惨状」や「本所被服廠跡写真」と題された絵葉書などで、関東大震災の規模や被害の大きさがわかる。

たばこを愛した龍之介

『芥川龍之介集』より

龍之介は、大正5年(1916)11月に『新思潮』で発表された「煙草と悪魔」(発表時のタイトルは「煙草」)で、「煙草は、本来、日本になかつた植物である。では、何時頃、舶載されたかと云うと、記録によつて、年代が一致しない。或は、慶長年間と書いてあつたり、或は天文年間と書いてあつたりする。が、慶長十年頃には、既に栽培が、諸方に行われていたらしい。」(『煙草と悪魔』より)と記している。

『煙草と悪魔』 昭和10年(1935) 荻原星文館版
「煙草と悪魔」のほか、「奉教人の死」「邪宗門」などを収録している。
愛煙家でもあり、明治期に浸透した紙巻たばこをたしなんだ龍之介は「ゴールデンバット」を好んだという。

大正9年(1920)1月1日発行の『文藝倶楽部』に掲載された「私の生活(3)」では、「煙草は、到底一と色ではすまされぬ。紙卷、西洋の刻み煙草、葉卷などを、二色か三色いろいろなのをのむ」と述べている。

愛煙家であった龍之介の作品にはさまざまなたばこが登場し、たばこに関するエピソードも残されている。

本展会場では、ややおどけながら、麦わら帽子をかぶってたばこを吸う、ふだんの龍之介の所作をとらえた映像も閲覧できる。

11月12日まで特別展「芥川龍之介がみた江戸・東京」を開催する「たばこと塩の博物館」は、龍之介の愛した隅田川まで約1.5km、生育の地となった両国までも遠くはない。本展で近代のそぞろ歩きをした後、隅田川や両国をぶらりと散策し、龍之介の見た東京の150年後の叙景を楽しむのも一興だ。

芥川龍之介ゆかりの地

特別展「芥川龍之介がみた江戸・東京」

https://www.tabashio.jp/exhibition/2023/209sep/index.html
会期:2023年9月16日(土)~11月12日(日)
会場:たばこと塩の博物館 2階特別展示室

住所:東京都墨田区横川1-16-3
電話:03・3622・8801
開館時間:午前10時〜午後5時(入館締切は午後4時30分)
休館日:毎週月曜日
入館料:大人・大学生:100円、小・中・高校生:50円、満65歳以上の方:50円

 

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