水村 喜一郎(画家、80歳)
─大きな事故を転機に「生涯一絵描き」を貫く画家─
「“今日も描けるぞ!”と毎朝目覚めるたびに力が湧きます」

──東京の下町育ちだそうですね。
「浅草に近い向島の生まれです。家は4軒続きの棟割り長屋、雨漏りがするふた間の借家でした。2畳間が親父とおふくろ、6畳間が僕と弟、妹の部屋です。親父は鳶(※)の親方で、いつもひっきりなしに職人が出入りするにぎやかなうちでしたね。朝早く仕事に出て、夕方には親父と職人が酒を飲み始め、おふくろが世話を焼く、そんな暮らしです。何しろおっかない親父で、一升瓶を前に理由もなく僕をぶん殴るから、ろくにしゃべったことがない。だって手が先に飛んでくるんだもの。弟や妹を一切殴らなかったのは、僕を鳶の跡取りとして躾けていたんでしょう。そんな親父は人一倍情が篤く、人に言えない事情を抱えた職人がいると一生懸命面倒を見てあげていて、僕は小さい頃から“いろんな人がいるものだなあ”と大人の世界を垣間見てきました。親父は、お金は困った人のために使うものだ、という考えの人だから他人の世話ばかり焼いてうちにはお金が回ってこない。ずっと貧乏でしたね。僕は騒がしい大人の部屋と障子一枚隔てた自分の部屋の蒲団に寝そべって、ひとりで絵を描くのが好きでした。キリンやうちで飼っていた軍鶏なんかをものごころついた時には描いていました。絵はクレヨンと画用紙で黙々と描けるから周りの邪魔にならないでしょう。でも僕が当時何といっても夢中になっていたのは外遊び。とにかくやんちゃ坊主で、国道の四ツ木橋のてっぺんまで登ったり、蒲を編んだ筏で荒川に漕ぎ出して沈没しそうになったり、仲間と一緒に危ないこともずいぶんやったなあ」
※屋根や塔、ビル等の高所で作業をする土木・建築工事の専門職。

──鳶から画家へ、大きな転機がありました。
「家の近くに変電所があって、変電所って建物の横にジャングルジムみたいに鉄塔がたくさん集まっているでしょう。ある時あれに登ろうと大人の注意も聞かないイタズラ連中20人くらいで金網の破れたところから侵入して、鉄塔を登り始めたんです。そしたら僕だけ高圧線に手を掛けたらしく、感電して3mくらい落ちたみたい。気がついたら病院にいました。当時まだ9歳。助かった! という気持ちばっかりで、これからどうしようなんて考えられませんよ。電撃症による両腕切断手術を受け、退院して小学校に戻ると先生が、水村はクレヨンではなく筆を使ったらどうか、と言ってくれ、僕は口にくわえて水彩絵の具でやってみた。そうしたら描けたんですよ、絵が。忘れもしない青い花瓶に挿したアジサイが“僕の絵”になっている。やった! 描けた! また絵が描ける! 目の前がパアッと明るくなって、うれしくてうれしくて、もっと描くぞ! とやる気がものすごく湧いてきた。鳶の道は断たれたけど絵が描けるのだから、もう何でも頑張りました。版画の授業では彫刻刀を足の指にはさんでガスタンクの風景画を彫ってみたら、先生が驚いて友達は拍手をしてくれたんです。ケガした僕が頑張ったというのではなく、絵を認めてくれたのがすごくうれしかったし、墨田区の展覧会にも入選したんですよ」
「憧れの池袋モンパルナスの画家に会える! まるで夢のようでした」

──どんな学校生活でしたか。
「中学2年の時、江戸川養護学校ができて、そこに転校しました。もともと勉強が苦手な上、中学から蓄積ゼロの英語も増えてどうにもならず、立たされてばかりです。新しくできた養護学校には都知事はじめ偉い人が見学に来るものだから、立たされている僕はみっともないやら悔しいやら。こいつは何とかしなきゃ、と初めて自分のことを真剣に考えましたよ。伊藤先生という英語教師に目をつけ、この人に食らいついて勉強しようと決めたんです。1年間学校の寮で徹底的に勉強のやり方を教わり、2年目からは寮を出て家で猛勉強です。春夏冬の長い休みには先生の家に毎日通って、先生が山形に帰省する時も夏は水泳、冬はスキーがしたいとついて行った。一緒に帰省できなかったある年の休み明け、“山形から東京まで歩いて帰ってきた。日本がこんなに美しいとは思わなかったぞ”と先生が言ったんです。僕は何だか悔しくなって先生みたいな旅をいつかやってやると思いましたね。大学は、伊藤先生が文系に進むなら入学金を出そうと言ってくれ、獨協大学英語学科を受けました。美大のほうも親父に内緒で予備校的な美術研究所に通っていたのですが、うちにはお金がないのでキッパリ諦めました」
──「画学生」とは違う道を歩き始めました。
「獨協に合格してからも英語の教員免許を取ろうと勉強は続けました。絵のほうは、美大は諦めたけど画家を諦めたわけではない。中一の時に油絵と出会って画家を意識した気持ちは変わらない。おふくろがこっそり高い油絵の具を買って応援してくれたことも忘れていない。19歳の時には『口と足で描く芸術家協会』の奨学生(のちに会員 ※1)にもなった。大学入学後も絵の先生の指導を受け、画家の集まりに出かけ、絵の勉強も続けていました。そんな時、これからの進路に踏ん切りをつけたかったんでしょうね、ふと伊藤先生のあの旅を思い出したんです。僕も歩くぞ、旅で何かつかめるかもしれない、どうせ行くなら遠い鹿児島だ、と肚を決めた。体力はある、友達に話したら餞別が5万円集まった、もう最後まで歩くしかない。大学2年の春休み、真冬の2月4日の朝、3冊のスケッチブックを鞄に入れ、鹿児島に向かって出発しました。静岡県の沼津まで行った時、岸壁に腰をおろし三島のお寺でもらったお握りを頬張っていたら、黒塗りの車が近くに止まってスーツ姿の男4人が降りてきた。聞けば警察関係の人で、僕のかっこうを見て身投げとまちがえたらしい。事情を話したら上司らしい人が、県内ではもう誰何しない、“あなたがつつがなく夢を果たせるよう祈っています”と礼を尽くして言ってくれた。涙が出そうになりましたよ。それからは駐在所に寄るたび、ああ君か、とラーメンを取ってくれたり泊まれそうなお寺を教えてくれたり、ありがたかったなあ。45日かかって鹿児島まで歩き通しました。ご馳走になった上に小遣いを渡され、御礼に色紙に絵を描いたら、その御礼だとまたお金を包まれ、出発の時の5万円が7万円に増えていた。人間、必死でやれば何とかなる、そんな自信が持てた旅でしたね」
※1:病気や事故等で手の自由を失った画家たちが自立を目ざす国際的な団体。1957年設立、リヒテンシュタインに本部を置く。
──画家として生きる、と決心した経緯は?
「大学は英語の教員免許を取って卒業、絵も先生について勉強し、美術団体に入って展覧会にも出品していました。ただ歴史のある団体は親切に指導してくれましたが、いろいろな決まりがあってどこかなじめず……池袋モンパルナスってご存じですか。大正から第二次大戦頃まで池袋周辺にアトリエ村があって、そこに画家や詩人などが集まって自由にやっていたんです。僕はそんな世界に憧れていたから、自分が今の場所にいていいものか確信が持てないまま28歳になっていました。庫田叕先生(※2)に人を介して出会えたのはまさにそんな時です。先生は国画会の重鎮、国画会は須田剋太、棟方志功各氏らも所属した由緒ある美術団体です。庫田先生のアトリエには、国画会に出された日本的な絵と並んで、若い頃の熱い思いが感じられる絵もあって、すごく共感したのを覚えています。先生が絵を見てくれるとおっしゃるので、後日喜び勇んで持って行ったら会ってくれない。もう来るなという感じの時もあったけど何度も何度もお願いに上がったら、遂にその日が来た。運河や工場を描いた風景画と静物画を持って訪ねると、僕の絵を見て言ったのではないだろうけど、“貧乏を恐れず続けなさい、パレットが乾いたら絵描きではないよ”と励ましてくれました。一方、日本を代表する国画会とは画風が違うとも指摘され、君はもっと自由に描ける主体美術協会という団体が向いている、とその創立者の大野五郎、寺田政明両先生を紹介しようとおっしゃった。夢かと思いましたよ。ふたりとも憧れの池袋モンパルナスで活躍された方で、失礼な話、有名すぎて亡くなったと思っていたくらい遠い存在の絵描きさんに会えるんですから」
※2:明治40年(1907)~平成6年(1994)。著名な洋画家。梅原龍三郎に才能を認められ、高村光太郎からも高く評価された。
「年を重ねドクダミやアザミ、そんな隅っこの花が愛しくて描いています」
──どんな人たちと出会いましたか。
「庫田先生のおかげで憧れの寺田、大野両先生に会う夢が叶ったんです。さっそく主体美術協会に作品を出したら入選し、それから毎年出品し続けて7年後、35歳で会員になりました。板橋にあった寺田先生のアトリエにはどれだけ通っただろう。その御縁でご子息の俳優、寺田農さんとも知り合いました。農さんは幼い頃から画家たちに囲まれて育ったから美術への造詣が深く、後に静岡県の池田20世紀美術館の運営委員に就任されます。去年の開館50周年記念展に僕を推してくれたのも農さんです。初めての個展は31歳の時ですが、何よりも忘れがたいのは寺田先生のおかげで開催できた洲之内徹さんの現代画廊での個展ですね。洲之内さんは当時、『芸術新潮』に『気まぐれ美術館』というエッセイを連載していて、よく知られた人でした。個展には随筆家の岡部伊都子先生もいらして、あとから励ましのお手紙まで頂き感激しました。会って御礼を伝えたい! と京都の御宅まで訪ねると、『竹紙』という竹の子の皮を漉いた紙をくださった。竹紙は作家の水上勉先生が自身の『若州一滴文庫』で技術伝承している紙で、繊維が粗く一枚一枚全部質感が違うんです。岡部先生は、気に入ったら竹紙に絵を描いて水上先生にお持ちするようにと言われ、作品ができたところで会いに行きました。すると水上先生は大変喜んでくださり、“この紙にずっと描き続けてほしい”とおっしゃった。先生が亡くなられてからも、僕はこれを遺言だと思って今も竹紙の画集やカレンダーを作り、先生の言葉を守っています」


──朝、目を覚ましたら何を考えますか。
「朝起きたらまず、うれしい、ですね。晴れてもうれしいし雨もまた良し、“今日も描けるぞ!”と元気が湧いてくる。でも、気持ちはあるけれど力が及ばない、まだまだだという感じもします。ずっとそんな気持ちで描いてきたし、これからもそうでしょう。ふだんは相変わらず絵を描いています。海外こそ出なくなりましたが絵の題材になるような景色を求めて日本をあちこち、そう神保町にも時々来ますよ。庭には季節になると忘れずにドクダミやアザミが咲くんです。若い頃はそうでもなかったけれど年を重ねると愛しく見えてきて、そんな隅っこの花も描くようになりました。親父は鳶の親方として頑張った、下町育ちの明るい母親は家族を守り抜いた、僕は事故にあったおかげで絵描きになれた、みんな隅っこでそれぞれの運命を生きただけなんでしょうね。僕はこれまでたくさん旅をして、多くの人にお世話になりました。その中で、人はそれぞれ違う考えを持っているんだなあ、と感じています。でも人は違ってもあたたかさには通じるものがあって、絵を頑張ってきた僕はたくさんのあたたかい人たちと出会え、たくさんの人に絵を見てもらえて、今はありがたい気持ちでいっぱいですね」

水村喜一郎(みずむら・きいちろう)
1946年、東京都向島にて鳶の親方の長男として生まれる。幼少期から絵に夢中になるも、9歳で変電所の高圧線に触れ電撃症により両腕切断。鳶の道が断たれる一方、絵画への思いが強まり初志を貫いて独自の画業を確立。主体美術協会、口と足で描く芸術家協会会員。国内のみならず世界へ旅をして、各地で個展開催。画集『旅で出会った風景とこころ 竹紙絵集』『水村喜一郎画集』。2026年、池田20世紀美術館にて回顧展が開かれ図録『水村喜一郎展 生きて、旅して、絵を描いて…』を出版。
取材・文/福永十津 撮影/三島 正 作品写真提供/口と足で描く芸術家協会







