
現在の神奈川県の大部分にあたる「相模国」。鎌倉幕府が置かれた地として知られていますが、戦国時代には小田原城を本拠とする北条氏が支配し、関東へ勢力を広げる足場となりました。
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも、相模国を本拠とする北条氏政が登場します。氏政は北条氏の4代目当主として広大な領国を受け継ぎましたが、やがて天下統一を進める豊臣秀吉と対峙することになります。
秀吉による小田原攻めによって、大きく歴史が動いた相模国。その名前の由来と、戦国時代の歩みを見ていきましょう。
「相模国」の読み方と名前の由来
まずは、読み方から確認します。
「相模国」の読み方は……
「さがみのくに」です。
「相州(そうしゅう)」とも呼ばれ、現在の神奈川県の大部分にあたります。『日本大百科全書』(小学館)によると、『古事記』では「相武(さがむ)」、『和名抄』では「佐加三(さがむ)」とあり、古くは「相摸」という表記も使われました。
国名の由来については諸説あり、はっきりしていません。『倭訓栞(わくんのしおり)』によると、武蔵国と相模国はもともと「牟佐(むさ)」という一国で、それが「牟佐上(むさがみ)」と「牟佐下」に分かれ、のちに「さがみ」「むさし」になったとする説があります。
また、足柄や箱根の坂から見下ろす国だったため「坂見(さかみ)」から転じたという説も伝わっています。
戦国時代の「相模国」の変遷
戦国時代の相模国は、やがて小田原を本拠とする北条氏によって大きく姿を変えていきます。北条氏はどのように相模国を支配し、そこから関東一円へ勢力を広げていったのでしょうか。まずは、その始まりとなった小田原進出から見ていきましょう。
小田原を本拠に北条氏が台頭
戦国時代の相模国を語る上で欠かせないのが、北条氏です。
明応4年(1495)、北条早雲が小田原城を攻略し、相模国へ進出しました。以後、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり、小田原を本拠として関東で勢力を拡大しました。
とりわけ氏康の時代には領国支配が整備され、関東一円に覇を唱えるほどの勢力となります。相模国内には、本城である小田原城のほか、玉縄城、三崎城、津久井城などが置かれ、城と城を結ぶ支配体制が築かれました。

氏政の時代、秀吉との対立へ
氏政の代にも北条氏は関東の有力大名であり続けました。しかし中央では、信長の死後に秀吉が急速に勢力を伸ばし、天下統一を進めていました。
やがて両者の対立は避けられなくなります。
天正17年(1589)、秀吉は北条氏に対して討伐を決定。翌天正18年(1590)、自ら大軍を率いて関東へ進みました。秀吉軍は箱根を越えて相模国に入り、小田原城を包囲します。さらに小田原城を見下ろす石垣山に城を築き、北条氏に圧力をかけました。
約3か月に及ぶ籠城の末、氏政の子・氏直は秀吉に降伏。氏政は弟の氏照とともに切腹し、5代およそ100年にわたって関東に勢力を誇った北条氏は滅亡しました。
その後、徳川家康の統治下に置かれて小田原藩となり、大久保忠世(おおくぼ・ただよ)が治めることになります。
最後に
相模国は、箱根・足柄という関東への入口を抱え、海にも面した交通上の重要な国でした。北条氏はその中心に小田原城を構え、相模国を土台として関東へ勢力を広げていったのです。
しかし、氏政の時代には天下統一を目指す秀吉の巨大な勢力と向き合うことになりました。
北条氏にとって繁栄の出発点であり、最後の舞台にもなった相模国。その歴史を知ると、『豊臣兄弟!』に登場する氏政と秀吉の対立も、より深く見えてくるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)











