種田山頭火像。写真:photoAC

「雑草として生き、枯れてしまへばそれでよろしい」

昭和15年(1940)10月11日没。57歳

尾崎放哉没後13年目となる、昭和14年(1939)の10月下旬――。
小豆島・土庄(香川県)の西光寺にある尾崎放哉の墓を、ひとりの男が詣でていた。男は放哉の墓前に酒を供え、そのお裾分けをいただいて、泉下の放哉と盃を交わしていく。坊主頭に丸眼鏡、顎下に長い鬚を生やしたこの男こそ、四国巡礼の途次、小豆島を訪れた種田山頭火だった。
種田山頭火と尾崎放哉。両人ともに酒を愛した漂泊の俳人、俳誌『層雲』を拠り所としてきたが、ついに現世での面談かなわず、差し向かいで酒杯を傾けることはできなかった。いま彼岸と此岸を隔てながらも、しみじみと飲む酒であったろう。
山頭火の作句「墓に護摩水(ガマズ)を、わたしもすすり」
護摩水は、もちろん、酒の異名である。

思えば、不思議な宿縁であった。
放哉の死とほぼ時を同じくする大正15年(1926)4月半ば、山頭火は熊本市北方、植木町の味取観音を出て、一笠一鉢、行乞流転の長い旅に出た。心の内には、解く術もないほどの惑いを背負っていた。
「分け入つても分け入つても青い山」
これが、その頃の山頭火の心境を吐き出した一句であった。
そして13年後、四国巡礼の途中、放哉の墓参をする。この巡礼を終えれば、愛媛・松山に落ち着こうとする山頭火であった。

旅の道連れの網代笠を句友に贈る

山頭火は明治15年(1882)、山口県佐波郡西佐波令村(現・山口県防府市)の生まれ。生家は「大種田」と呼ばれる大地主の資産家で、自宅から最寄り駅の三田尻駅まで、およそ800 メートルの道のりを、他人の土地を踏むことなく行き着けるのが、家の者の自慢だったという。山頭火(本名・正一)はその7代当主となるべく、生を受けたのである。
歯車が狂ったのは母の自殺から。まだ少年だった山頭火の心に深い傷が残り、色に溺れて妻を死に追いやった父は社会的信用を失った。
その後、山頭火は早稲田大学に進学するが、強度の神経衰弱から中退し帰郷。家運も衰退著しく、一家は父祖伝来の家屋敷を売り払って酒造業に再起を賭ける。父の勧めで山頭火は結婚もした。しかし、酒造の酒が腐敗するなどして、一家は結局は破産。父は行方をくらまし、山頭火は妻子を伴って、逃げるように熊本へと落ち延びた。
しかし、この熊本の地こそ、漂泊の俳人・山頭火の出発点だったろう。金も名誉も失い、妻子との暮らしにも行き詰まりを覚える山頭火に、酒と俳句が寄り添っていた。独身に返った山頭火は、熊本市内の報恩寺で出家得度し、植木町の味取観音(曹洞宗瑞泉寺)の堂守となった。そして、先述の如く、放哉の逝去と時を重ねるようにして、行乞流転の果てしない旅へ赴いていったのである。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」

四国巡礼ののち落ち着こうとする松山は、かの正岡子規の故郷でもあり、昔から俳句が盛んで俳人に理解のある土地柄。山頭火には、どこよりも居心地のいい場所であったかもしれない。新しい住まいは、松山高等商業学校教授の高橋一洵が探してくれていた。道後温泉から西へ徒歩20分余り、御幸寺(みゆきじ)の境内にある小さな空家だった。昭和14年(1939)12月15日の日記に山頭火は記す。

《一洵君に連れられて新居へ移つて来た、御幸山麓御幸寺境内の隠宅である、高台で閑静で、家屋も土地も清らかである、山の景観も市街や山里の遠望も佳い。京間の六畳一室四畳半一室、厨房も便所もほどよくしてある、水は前の方十間ばかりのところに汲揚ポンプがある、水質は悪くない、焚物は裏山から勝手に採るがよろしい、東々北向だから、まともに太陽が昇る(此頃は右に偏つてゐるが)、月見には申分なからう》

その住まいは「一草庵」と名づけられた。やがて、山頭火は、《わが庵は御幸山裾にうづくまり、お宮とお寺とにいだかれてゐる。老いてはとかく物に倦みやすく、一人一草の簡素で事足る、所詮私の道は愚をつらぬくより外にありえない》との前書きを添え、こんな一句を詠む。
「おちついて死ねさうな草萌ゆる」
放哉が瀬戸内に浮かぶ小島の庵に死に場所を求めたのと同じような心持ちに、山頭火もとらえられていたのだろうか。

山頭火が長年の旅の道連れとしてきた網代笠を、高橋一洵に贈ったのも、この頃だったろう。頂点付近が破れ、内側に「一洵老へ 水音のうらからまゐる 山頭火」の墨跡のある山頭火遺愛のその笠を、私は以前、松山の高橋家で見せてもらったことがある。
死に場所を得ることで、ようやく、流浪の旅にも終止符を打とうとの思いが芽生えていたからこそ、山頭火は高橋一洵へこの笠を贈ったのだろう。私にはそう思えた。

「あれこれと厄介をかけないで、めでたい死を遂げたい」

一草庵の山頭火は、貧窮暮らしの中で2つの願いを持っていた。少し前の日記に、次のように記述がある。

《私の念願は二つ、たゞ二つある。ほんたうの自分の句を作りあげることがその一つ、そして他の一つはころり往生である。病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介をかけないで、めでたい死を遂げたいのである。(私は心臓麻痺か脳溢血で無造作に往生すると信じてゐる)》

昭和15年(1940)10月10日の夕刻、一草庵で句会が催された。この年の1月からはじめられた句会には、「柿の会」という呼び名がつけられていた。高橋一洵をはじめ、安井月邨、村瀬純一、高木和蕾、広瀬無水らの俳人が、山頭火を囲んで集まるのだった。
俳友たちが集っても、この日の庵主は蒲団の上に倒れたように横になったままだった。だが、酒に酔ってこうして倒れている山頭火の姿は、けっして珍しいものではなかった。なにせ、托鉢の旅の途中、酔いつぶれて知らぬ間に野宿してしまい、
「酔うてこほろぎと寝てゐたよ」
の句を生み出している強者なのである。いつもより寝息が大きい気もしたが、念のため脈を調べてみると異常はない。無理に起こすのは却って無粋と考えて、一同は句座についた。

句会が終わったのは午後10時頃。山頭火は相変わらず眠ったままだった。高橋一洵は、それから小一時間ほど山頭火の様子を見守っていたが、とくに変調も感じられないので帰宅した。ところが、床に就いたものの、なかなか寝つかれない。眠れぬまま、なんだか、だんだんに山頭火の身の上が案じられてくる。午前2時頃、高橋は寝床を抜け出して、再び一草庵へ向かった。
庵に到着した高橋が山頭火の体にふれると、さきほどまでと違って硬直しているかのようだった。眠りも、昏睡状態といったものに変わっていた。呼んでも答えがない。何度も呼ぶうち、山頭火はうっすらと目を開き、高橋が握る手をかろうじて握り返してくる。だが、すぐにまた深い眠りに落ち込んでいった。脳溢血と思われた。高橋は走った。まずは御幸寺の住職に知らせ、そのまま急いで医者を呼びに行く。月に照らされた道をひた走りに走った。医師に往診を頼んで、ひと足先に駆け戻る。しかし、このときもはや山頭火の息はなかった。のちに高橋は記している。

《ひしと亡き骸に取りすがれば胸の温くみは残りて生けるものゝ如し。これはと驚ろいて見直せばあくまで眉は秀で静かにも眼を閉ぢ口を絞めて、あごひげ銀の如く光り頬に紅色さへ止めて其の容貌神の如く澄む。思はず合掌を捧ぐ》(『なにやかや日記』)

午前5時20分、医師が到着した。死亡推定時刻は午前4時、死因は心臓麻痺と診断されたという。その死にざまは、まさしく本人が望んでいた通りのコロリ往生だった。生前の山頭火は、こんな言葉も遺していた。

《私は雑草的存在に過ぎないけれど、それで充ち足りてゐる、雑草として生き伸び咲き実り、そして、枯れてしまへばそれでよろしいのである》

【主な参考文献】
『山頭火虚像伝』(木下信三、三省堂選書)、『新潮日本文学アルバム 種田山頭火』(新潮社)、『山頭火アルバム』(村上護責任編集、春陽堂)、『放哉と山頭火』(本田烈、踏青社)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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