文/濱田浩一郎

織田信長の兄・信広はなぜ謀反したのか?
尾張国統一までの織田信長は、骨肉の争いを繰り広げてきました。信長と対立した親族と言えば、弟の信勝(信行)が有名ですが、信長の腹違いの兄・信広も信長に反旗を翻したことがありました。信広は、父・信秀の在世中、三河国安祥城の城主を務めていました。同城は、織田と対立する今川氏や松平氏との最前線。そうしたことを考えると、信広は信秀の長男として、その器量を認められていたのでしょう。信広の生母は不明ですが、その身分は低かったと推測されます。よって、正室・土田御前から生まれた信長が信秀の後継者となったのでした。
さて、天文18年(1549)11月、太原崇孚が率いる今川軍により、安祥城は攻められ落城。信広は今川方に生け取りとなります。今川方の捕虜となった信広ですが、人質交換によって解放されます。この時、交換されたのが、織田方に人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)です。解放されて尾張に戻った信広ですが、前述のような理由によって、父・信秀死去後は、異母弟の信長に仕えることになります。
ところが、弘治2年(1556)頃、信広は突如として、信長に謀反するのです。『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記)には謀反の理由は記されていません。これは筆者の推測となりますが、信秀の長子として自らが信長に取って代わりたいとの野心が信広には多少なりともあったのではないでしょうか。信長は家中でも評判の「うつけ」。その「うつけ」が織田家を率いるよりは自分がとの想いが芽生えたとしても不思議ではありません。
信広は、信長への謀反に際し、単独で行動したわけではありません。美濃国の斎藤義龍(斎藤道三の長子)と示し合わせて行動したのです。とは言え『信長公記』を見ていると、その軍事作戦は、斎藤氏が主導していたように感じます。同書に斎藤氏側の提案と思われる次のような一文があるからです。「敵が進出してくると、信長はいつも軽々に出陣し、立ち向かってくる。その時、三郎五郎殿(信広)も出陣され、清洲の町筋をお通りなされ。すると、城の留守をしている佐脇藤右衛門が出て来て、必ず、信広殿を馳走(接待)されるであろう。その際に佐脇を殺し、城を乗っ取るのです。そして、合図の狼煙を上げる。それに応じて美濃衆(斎藤氏の軍勢)は川を越えて、近くへと馳せ向かおう。信広殿も軍勢を出し、お味方の振りをして、信長が合戦に及べば、後方を衝くのです」。
この文言を見ていると、信広の野心を見抜いた斎藤氏が信長への謀反を持ちかけたようにも思えてきます。それはさておき、同書によると、ついに美濃衆は動き出しました。しかし、その動きは「うきうき」としていたようです。つまり、緊張感のない様子で川を渡り、国境に迫ったというのです。この知らせを信長はすぐに受けます。すると信長は「うきうき」した斎藤氏の軍勢にすぐ違和感を抱いたようです。そして直ちに「家中に謀反」あることを悟ったのでした。この辺りの信長の勘の鋭さは流石と言うべきでしょう。
信長は兄・信広の謀反計画をどのように防いだのか?
家中の謀反を察知した信長は、佐脇氏に「城から一切、出てはならぬ」と命じます。更には町人にも、外構えを堅固にし、木戸を固め、信長が帰陣するまでは人を入れてはならぬとの命令が下るのです。その上で、信長は出陣したのです。信長の軍勢が城を出たことを聞いた信広は、手勢を率いて、清洲に向かいます。庶兄・信広が清洲にやって来たにもかかわらず、彼らは清洲の町には一歩も立ち入ることは叶いませんでした。信長の厳重な対応を眼前に見た信広は(早くも謀反が露見したか)と不審に思い、早々と軍勢を引き上げたのです。これにより、国境まで出張っていた美濃衆も退くことになります。こうして信広と美濃衆の軍事作戦は、未遂・失敗に終わったのです。その後、信広が信長に処罰された形跡はありません。腹違いとは言え兄であるということ、謀反が結果的には未遂に終わったことから赦免されたと考えられています。
信長に謀反を企んだ信広は二度と信長に背くことはありませんでした。信長の親族として活躍しましたが、天正2年(1574)、伊勢長島の一向一揆勢との交戦の際、討死しています。信長は一向一揆勢からの降伏・助命嘆願を受け入れることなく、容赦なく撫で斬りにしていますが、それは1つには親族を殺された信長の恨みというものもそこにあったのかもしれません。ちなみに、長島の一向一揆との戦いにおいては、信長の弟・信興も戦死しています。
【主要参考文献一覧】
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人『織田信長』(KADOKAWA、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)
文/濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)

兵庫県相生市出身。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師、大阪観光大学観光学研究所客員研究員を歴任。現在、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。
著書『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『中学生からの超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)その他多数。











