木造織田信長公坐像(重要文化財)
織田信長の菩提寺である「大徳寺 総見院」の本堂には
秀吉が奉納した木造織田信長公坐像(重要文化財、通常非公開)が安置されている。
その大きさは高さ三尺八寸(約115cm)の等身大で、慶派の仏師・康清によって作られた。

はじめに-織田信長の葬儀とはどのようなものだったのか

本能寺の変で織田信長が命を落としてから、およそ4か月。天正10年(1582)10月15日、京都の大徳寺で信長の盛大な葬儀が営まれました。

主催したのは、信長の子でも織田家筆頭の宿老でもなく、山崎の戦いで明智光秀を破った羽柴秀吉でした。

葬列には数千人が参加し、棺には信長をかたどった木像が納められたともいわれています。

一見すると、主君を弔うための盛大な葬儀です。しかし、その背後には、信長亡き後の織田家を誰が動かすのかを天下に示そうとする、秀吉の政治的な意図も隠されていたと考えられます。

信長の葬儀は、秀吉と柴田勝家の亀裂を決定的なものとし、翌年の賤ヶ岳の戦いへとつながる重要な出来事だったのです。

この記事では、「織田信長の葬儀」についてご紹介します。

信長の死から葬儀まで

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変によって織田信長が倒れ、嫡男・信忠も二条御所で命を落としました。

知らせを受けた秀吉は、交戦中だった毛利氏と和睦し、備中(現在の岡山県西部)高松城から畿内へ引き返します。いわゆる「中国大返し」です。そして6月13日の山崎の戦いで明智光秀を破り、「信長の仇を討った武将」として織田家中で急速に発言力を高めました。

山崎合戦之地
山崎合戦之地

同月27日に開かれた清洲会議では、信忠の嫡男である幼い三法師が織田家の後継者に決まりました。織田家の政務については、秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興らが担う体制が整えられます。

しかし、秀吉と勝家の対立は次第に表面化していきました。そのような状況の中、秀吉は自らの主導で信長の葬儀を行います。

信長を弔うと同時に、織田家の家督や政務に関する事柄を自分が取り仕切る立場にあることを、武将、公家、僧侶、そして京都の人々に広く印象づけようとしたと考えられています。

関わった人物

信長の葬儀に関わった主な人物についてご紹介します。

【羽柴方】

羽柴秀吉

豊臣秀吉
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)

信長の葬儀を主催した人物です。山崎の戦いで光秀を討った秀吉は、清洲会議を経て織田家中で大きな影響力を持つようになっていました。葬儀では太刀を捧げ持ち、信長の棺の後ろに続いたと伝えられています。

秀吉が喪主に立てたのは、清洲会議で織田家の後継者となった三法師ではなく、信長の四男で、秀吉の養子でもあった羽柴秀勝でした。

この人選は、秀吉が信長の家族や家督に関する事柄を主導できる立場にあることを示すものと受け取られました。秀吉自身が織田家の正式な当主になったわけではありませんが、信長の権威を受け継ぐ存在として、自らを強く印象づける効果があったと考えられます。

葬儀は信長への追悼であると同時に、秀吉の権力と存在感を内外へ示す大規模な政治的演出でもあったのです。

羽柴秀長

豊臣秀長
羽柴秀長(のちの豊臣秀長)

秀吉の弟で、この葬儀を軍事面から支えた人物です。『国史大辞典』(吉川弘文館)によると、秀長は信長の葬儀に際して大軍を率いて上洛し、柴田勝家や滝川一益ら織田家の宿老を牽制する役割を果たしました。

また、大徳寺や葬列の警固を担ったとも伝えられています。

織田秀勝

織田秀勝
織田秀勝

信長の四男で、秀吉の養子となった人物です。信長の葬儀では喪主を務めたと伝えられています。

清洲会議で織田家の後継者に選ばれたのは信忠の嫡男・三法師でした。にもかかわらず、秀吉が自らの養子である秀勝を喪主に立てたことは、織田家の後継問題を自分が取り仕切る姿勢の表れと見られました。

秀勝を前面に立てることで、秀吉は信長の血筋と自らの羽柴家を強く結び付けたのです。

【織田家の一門・宿老】

織田信長

織田信長
織田信長

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で明智光秀に襲われ、命を落としました。

本能寺は炎に包まれ、信長の遺体は見つからなかったといわれています。そのため大徳寺の葬儀では、信長の姿をかたどった等身大の木像を棺に納めたと伝えられています。

三法師

三法師
三法師

信長の嫡男・信忠の子で、のちの織田秀信です。清洲会議では、幼くして織田家の後継者に選ばれました。しかし、信長の葬儀では喪主を務めず、秀吉の養子・秀勝がその役割を担っています。

柴田勝家

柴田勝家
柴田勝家

信長の宿老で、北陸方面を任されていた有力武将です。本能寺の変の際には越前北ノ庄を拠点に上杉氏と対峙しており、光秀討伐に出遅れました。その結果、山崎の戦いで勝利した秀吉に主導権を奪われることになります。

清洲会議では信長の三男・信孝を後継者に推しましたが、秀吉が推した三法師が選ばれました。さらに、信長の葬儀には出席できないよう仕向けられたとされています。

この葬儀を契機として、両者の対立は決定的になっていきました。

滝川一益(たきがわ・かずます)

滝川一益
滝川一益

信長の重臣で、本能寺の変のころは関東方面を任されていました。秀長が大軍を率いて上洛した背景には、柴田勝家だけでなく、滝川一益ら有力宿老を牽制する意図もあったとされています。

信長の葬儀の内容と結果

天正10年(1582)10月、京都の大徳寺で信長の葬儀が行われました。葬儀に関する一連の儀式は7日間にわたったとされ、10月15日には大規模な葬列が組まれました。

葬儀の舞台となった大徳寺は、京都の紫野にある臨済宗の寺院です。室町時代には一休宗純が再興に尽力し、戦国武将や堺の豪商、茶人からも厚い信仰を集めていました。

葬列には、およそ3000人が参加したと伝えられています。五山をはじめとする寺院の僧侶も多数加わり、京都の人々が見物のために沿道へ多く集まりました。

このとき秀長は、大軍を率いて上洛し、柴田勝家や滝川一益ら宿老を牽制する役割を果たしたといわれています。

また、本能寺から信長の遺体が見つからなかったため、棺には信長をかたどった木像が納められたと伝えられています。

木造織田信長公坐像(重要文化財)
木造織田信長公坐像(重要文化財、通常非公開)

金銀などで飾られた棺の前方は池田恒興の子・池田輝政、後方は喪主を務めた羽柴秀勝が担い、秀吉は太刀を捧げて後ろに続いたとされます。

華麗な葬列と、それを守る多数の兵。葬儀に集まった人々は、秀吉が信長の後継者にも匹敵する威勢を持っていることを、目の当たりにしたことでしょう。

重要なのは、清洲会議で織田家の後継者に選ばれた三法師ではなく、秀吉の養子である秀勝が喪主を務めたことです。

秀吉が信長の血を引く養子を前面に立て、自らは太刀を捧げて付き従う。そこには、信長への忠誠を示しながら、その権威を羽柴家へ取り込もうとする巧みな意図があったのでしょう。

一方、柴田勝家は葬儀に出席できないよう、仕向けられたといわれています。

その結果、信長の菩提を弔う儀式そのものが、秀吉を中心とする新たな政治秩序を示す舞台に。秀吉は民衆、公家、僧侶、武将たちの注目を一身に集め、織田家中での存在感をいっそう高めたのです。

その後

信長の葬儀を境に、秀吉と柴田勝家の対立は修復が困難なものとなりました。勝家は上杉景勝らと連絡を取りながら、秀吉に対抗しようとします。しかし、冬の越前は雪に閉ざされ、勝家が自由に動くことは困難でした。

秀吉はその隙を突き、天正10年(1582)12月、勝家の養子・柴田勝豊が守る近江(現在の滋賀県)長浜城を攻めて降伏させます。続いて美濃(現在の岐阜県南部)へ進み、岐阜城の織田信孝にも圧力を加えました。

翌天正11年(1583)4月、秀吉と勝家は賤ヶ岳の戦いで全面対決します。

賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は越前北ノ庄城へ逃れ、信長の妹である妻・市とともに自害しました。山崎の戦いから清洲会議、信長の葬儀へと続いた秀吉の政治的優位は、賤ヶ岳の勝利によって決定的なものとなったのです。

同じ天正11年(1583)、秀吉は信長の菩提を弔うため、大徳寺山内に総見院を建立しました。総見院は信長の法名にちなむ名称で、信長のほか、信忠、信雄、信長の正室・濃姫らの墓が残されています。

信長公一族の墓碑
中央が信長公、右側が信忠公(嫡男)、左側が信雄公(次男)の墓碑。

秀吉は総見院に寺領を寄進して厚く保護しました。さらに天正13年(1585)には、総見院を中心に信長の追悼茶会を開いています。

大徳寺は信長の葬儀と総見院の創建を契機に、諸大名との関係を深め、寺勢を大きく伸ばしていきました。のちには千利休をはじめとする茶人とも深く結び付き、桃山文化を象徴する寺院の一つとなります。

まとめ

羽柴兄弟はこの葬儀を通じて、織田家の宿老たちをしのぐ組織力と存在感を示しました。

一方、葬儀の中心から外された柴田勝家との亀裂は決定的となり、翌年の賤ヶ岳の戦いへとつながっていきます。

信長の葬儀は、ひとつの時代の終わりを告げる儀式でもあったといえるでしょう。しかし同時に、それは秀吉が信長の威光を受け継ぎ、天下人への道を進み始めたことを人々に印象づける、新たな時代の幕開けでもあったのです。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

取材協力/大徳寺 総見院

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

Instagram:@kyoto_monokaki note:@kyoto_monokaki
Facebook:@kyotomedialine

肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)

 

関連記事

ランキング

サライ最新号
2026年
9月号

サライ最新号

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Youtube
  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

市毛良枝『百歳の景色見たいと母は言い』

花人日和(かじんびより)

和田秀樹 最新刊

75歳からの生き方ノート

おすすめのサイト
dime
be-pal
リアルキッチン&インテリア
小学館百貨店
おすすめのサイト
dime
be-pal
リアルキッチン&インテリア
小学館百貨店