文/濱田浩一郎

三木城攻めで秀吉が将兵に伝達した恐怖の厳命とは?
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では羽柴秀吉による播磨国攻略が描かれていました。
播磨三木城(兵庫県三木市)の別所長治は、当初は織田方でしたが、天正6年(1578)に織田を裏切り、毛利方に付きます。これにより三木合戦が始まるのです。秀吉は三木城を兵糧攻めによって、追い詰めました。いわゆる三木の干殺しです。秀吉は三木城の周囲に多くの付城を築き、敵方による兵糧の搬入を防いだのでした。
「播磨別所記」には秀吉が築いた付城の様が描かれています。築地の高さは「一丈余」、二重塀や柵も多く構築され、人の通行を警戒していたとされます。昼であっても夜であっても「人を撰びて」通行させたとのこと。つまり、誰でも彼でも通行させたわけではないということです。闇夜となれば、篝火が焚かれ、まるで「白昼」のようであったと言います。同書によると、秀吉は警備を「油断」した者は身分の上下を問わず「成敗」するとしました。罪の重い者は磔、軽い者でも「誅殺」するとしたのです。どちらであっても「殺す」ということです。この秀吉の厳命に人々は大いに「恐れ」たと言います。
厳重な警戒の甲斐あって、三木城の食糧は次第に尽きていきました。城内の「旧穀」(前年などに獲れた穀物)は悉く尽き、餓死する者は「数千人」(「播磨別所記」)に及んだと言います。城内の将兵は初めは糠や馬草を食べていましたが、それが無くなると牛馬、鶏犬を喰らう。それも尽きると「人の肉を刺して食ふ事限りなし」という極限状態に陥りました。同書はこのようなことは「本朝」(日本)においては「前代未聞」のこととしています。そうした有様でしたので、三木城の落城も時間の問題でした。天正8年(1580)1月、ついにその時がやって来ます。
三木城最期の日と城兵の悲惨な運命とは?
同年の1月6日、秀吉は別所友之(長治の弟)が立て篭もる宮の上の砦を軍勢でもって乗っ取りました(『信長公記』)。友之は「一戦」もせず、三木城の「本丸」に退いていきます。それから5日後。秀吉は宮の上から、別所吉親(長治の叔父)の居城「鷹の尾」を攻めんとします。吉親は居城で秀吉軍と戦うのは困難と判断し、彼もまた三木城の本丸に撤退していきます。同年の1月になってジワリジワリと三木城が追い詰められていることが『信長公記』から分かります。
秀吉は城に攻撃を仕掛けたところ、本丸から別所方の「侍」たちが出撃してきて応戦。秀吉は後方から次々と兵を繰り出し、これと戦います。そうしている間に、本丸から火が出て、焼けてしまいます。別所一族でありながら秀吉の「与力」となっていた別所重棟は、城内から小森与三左衛門という者を呼び出し、別所長治・吉親・友之に「尋常に腹を切」ることを勧めます(1月15日)。摂津国の荒木村重や丹波国の波多野氏のような末路となっては末代まで人々の嘲りを受けようから、潔く自害してはどうかと勧告したのです。この勧めに長治らは「3人とも腹を切ろう。その代わり、その他の兵士の命は助けて欲しい」と書状でもって応じます。
この態度に「感嘆」した秀吉は三木城の兵士の命を助けることを約束します。そして城中に「樽酒」を送るのでした。別所長治は妻子や兄弟、家老などを呼び集めて、1月17日に腹を切ることを伝えます。そして互いに盃を取り交わし、今生の暇乞いをしたのです。別所吉親にも腹を切ることが伝えられましたが、吉親は「腹を切ったならば、首は晒され、安土に進上されるであろう。それは無念であるので、城内に火を懸け、焼け死ぬ」ことを考えます。その後、家に火が懸けられ、諸士が吉親を殺害したと『信長公記』にはあります。
さて1月17日の夕方、別所長治は3歳になる幼子を膝の上に置き、涙をおさえて、これを刺殺。また「女房」を引き寄せ、刺し殺しました。別所友之も同じように「女房」を刺殺したとのこと。別所長治・友之兄弟は手に手を取って、広縁に出ます。そこには将士が参集していました。長治は将士に対し、厳しい籠城戦を経てきた将士を「前代未聞の働き」と労います。そして我らが死んで諸士の命を助けることができることは喜びであると伝えるのです。
その後、別所兄弟は切腹して果てます。長治の辞世の句は「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」というものでした。「今はもう誰を恨むこともない。皆の命に代わって死んでゆく我が身のことを思えば」という意味です。最後まで家臣、城兵のことを思い死んでいった長治は「名君」と言えるでしょう。長治が自分の生命に代えて守ったはずの城兵の命。ところが彼らは三木落城後、一か所に集められて、悉く殺害されたと言います。それは秀吉が命じたものと思われます。秀吉は長治との約束を破ったのでした。
文/濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)

兵庫県相生市出身。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師、大阪観光大学観光学研究所客員研究員を歴任。現在、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。
著書『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『中学生からの超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)その他多数。











