はじめに-別所賀相とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する別所賀相(べっしょ・よしちか、演:田中美央)は、播磨(現在の兵庫県南部)の有力国衆・別所氏の一門として、三木城の戦いで重要な役割を果たした人物です。別所長治(べっしょ・ながはる、演:下川恭平)の叔父にあたり、若くして家督を継いだ長治を支える「後見」の立場にあったと伝えられています。
名の知れた戦国大名に比べると、賀相その人の事績は多く残っているわけではありません。しかし、三木城の戦いの軍議に加わり、支城の守りを担い、別所家の最後まで一門の中核にいたことは確かです。
この記事では、現存する限られた史料をもとに、別所賀相が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。
『豊臣兄弟!』では、長治を説得して毛利方に寝返らせる人物として描かれます。

別所賀相が生きた時代
別所賀相が生きたのは、織田信長の勢力が畿内から西へ伸び、播磨がその最前線となった時代でした。播磨では、守護・赤松氏の一族である別所氏が三木城を拠点に東播磨へ勢力を広げており、地域の有力国衆として大きな存在感を持っていました。
ところが、天正5年(1577)以後、羽柴秀吉が中国攻めのため播磨に進出すると、地域の国衆たちは難しい選択を迫られます。織田方につくか、毛利方と結ぶか。別所長治は最終的に毛利方へ傾き、三木城に立てこもる道を選びました。
そのとき、一門の年長者として長治を支えたのが賀相です。
別所賀相の生涯と主な出来事
別所賀相の生年は不詳、没年は天正8年(1580)です。少ない資料から、その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
別所長治の叔父として後見に立つ
賀相は弟の重棟(しげむね)とともに、若くして家督を継いだ当主・長治の後見となります。
戦国期には、若年の当主を一門の年長者が補佐することは珍しくありません。別所氏のような有力国衆においては、当主個人の決断だけでなく、一門衆の合議や支えが家の命運を左右しました。賀相もまた、その中心にいたのでしょう。

三木城の戦いで別所家を支え続ける
天正5年(1577)10月、織田信長は羽柴秀吉に中国地方の毛利攻めを命じます。この時、別所長治も織田方について秀吉に協力することを約束していました。
しかし、天正6年(1578)、長治は秀吉と対立し、毛利氏と結びます。
2月、秀吉は播磨に入り、書写山圓教寺に陣を置きました。播磨の国衆の多くが秀吉に従う中で、長治をはじめ別所氏は三木城に立てこもります。

この三木城の戦いは、天正6年(1578)3月から天正8年(1580)1月17日まで続いた長期戦でした。これは羽柴秀吉を主将とする織田方と、毛利輝元を後ろ盾とする別所長治方との一大攻防戦だったともいえます。
この長い籠城戦の中で、賀相のような一門衆は欠かせない存在だったでしょう。若い長治だけで城中の統率を保つのは難しく、叔父として家中をまとめ、支城防衛や軍議で役目を果たした賀相の働きは小さくなかったと考えられます。
三木合戦の軍議に加わる
賀相の姿が具体的に見えてくるのは、三木城の戦いのさなかです。
『日本歴史地名大系』(平凡社)によれば、天正7年(1579)2月6日の平山合戦前夜の軍評定において、賀相は総人数を長屋村に伏せ置き、川向こうの羽柴秀吉勢を挑発し、川を渡りきったところで包囲して討ち取る策を提案しました。
結果としてこの案は久米・志水両氏によって退けられたとされていますが、賀相が別所方の軍略を考える一人だったことは間違いありません。
三木城落城が決定的に
天正7年(1579)9月10日、賀相は城内から出撃して兵糧を運び込もうとしましたが、羽柴秀吉が笠坂(加佐坂)を攻め下り、多くの武将が討ち取られ敗れます(平田大村合戦)。このことが、三木城落城を決定づけました。
10月7日、平田大村合戦で勝利した秀吉は、付城を築き、三木城の包囲網をさらに狭めます。これ以降、毛利方からの兵糧搬入はなくなり、三木城内の食糧は尽きていきました。そのことで、餓死者が数千人出るなど「三木の干殺し」の状態になります。

中央上の赤枠で囲んだ部分に、「加佐村」「平田村」「大村」が確認できる。
三木新城が攻め落とされ、その拠点には秀長が入る
天正8年(1580)1月11日には、羽柴秀吉が賀相の守る三木新城(君ヶ峰城)を攻め落とします。その後、三木新城には羽柴秀長が配置されました。
別所家の最期を見届けた一門衆
天正8年(1580)1月15日、別所重棟らが長治・賀相・友之(長治の弟)に切腹を促し、長治は城兵の助命を条件に秀吉の降伏勧告を受け入れました。そして17日、長治ら一族が自害することで三木城は開城します。
まとめ
三木城の戦いの経過を丁寧に見ていくと、賀相が別所家の最後を支えた中心人物の一人であったことが浮かび上がります。若い当主の背後には、こうした一門衆の支えがありました。
別所賀相の事績は、戦国時代の合戦が、名高い当主だけでなく、その家を支えた叔父や一門衆によって成り立っていたことを教えてくれます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











