はじめに-太田垣輝延とはどのような人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する太田垣輝延(おおたがき・てるのぶ)は、但馬(現在の兵庫県北部)の名城として知られる竹田城の城主です。戦国時代の但馬で、守護山名氏のもとに勢力を持った太田垣氏の一員として、織田信長(演:小栗旬)と毛利氏のはざまで揺れる地域情勢の中を生きました。

知名度の高い戦国武将に比べると、輝延について伝わる記録は多くありません。しかし、竹田城の運命、さらに但馬が織田方に組み込まれていく過程を考える上で、見逃せない人物です。

『豊臣兄弟!』では、生野(いくの)銀山を支配する人物として描かれます。

太田垣輝延
太田垣輝延

太田垣輝延が生きた時代

太田垣輝延が生きたのは、織田信長が畿内から中国方面へ勢力を広げていった時代でした。但馬は山名氏の勢力圏にありましたが、周辺では毛利氏、織田氏、丹波(現在の京都府の中部と兵庫県の東部)の国衆らの動きが複雑に絡み合い、情勢はめまぐるしく変わっていきます。

その中で太田垣氏は、山名氏の重臣として朝来(あさご)郡を中心に勢力を持ち、竹田城を拠点としていました。竹田城は但馬の内陸部を押さえる要衝であり、播磨(現在の兵庫県南部)・丹波・但馬をつなぐ軍事上の重要拠点でもありました。

しかし、永禄12年(1569)以後、織田信長方が但馬へ手を伸ばし、さらに天正年間に入ると毛利方も深く関与するようになります。

太田垣輝延の生涯と主な出来事

太田垣輝延の生没年は不詳です。少ない資料から、その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

山名氏の重臣・太田垣氏の一員として

太田垣輝延は、太田垣朝延の子です。

太田垣氏は、但馬守護の山名氏の有力な重臣で、応永7年(1400)頃には朝来郡方面の守護代、あるいは郡代のような立場にあったと考えられ、嘉吉3年(1443)には竹田城を築いたと伝えられています。

やがて山名氏の「四天王」の一人に数えられるほどの家となりました。

父・朝延の時代と生野銀山をめぐる争い

輝延を理解するには、父・朝延の時代から見ておく必要があります。『日本歴史地名大系』(平凡社)によれば、天文11年(1542)ごろには生野銀山の開発が本格化し、山名祐豊(やまな・すけとよ)の支配下にありましたが、のちに太田垣氏がその領有権を奪ったとされます。

この銀山は但馬の政治・軍事に大きな意味を持ちました。永禄12年(1569)、織田信長方の木下藤吉郎、のちの秀吉が但馬へ侵攻した背景にも、生野銀山の存在がありました。

生野銀山
現在の生野銀山

織田方と毛利方のはざまで

永禄12年(1569)、秀吉ら信長方が但馬へ入り、生野銀山を接収すると、但馬の国人たちもひとまず信長方の制圧下に入ります。

ところが、天正元年(1573)になると、吉川元春(きっかわ・もとはる)が因幡(現在の鳥取県東半部)へ進出し、因幡守護・山名豊国が降伏したことで情勢が一変。このことで、山名祐豊や太田垣氏らは毛利方についたといわれています。

天正3年(1575)には、毛利氏との和平交渉、いわゆる「芸但和睦」にも太田垣輝延が関わっていたことが見えます。輝延は、但馬の有力国人として、一方的に従うだけでなく、但馬の生き残りを図っていたのでしょう。

竹田城をめぐる攻防

天正5年(1577)、羽柴秀長の軍が真弓峠を越えて但馬へ侵攻し、岩洲(いわす)城に続いて竹田城を攻略しました。

ただし、ここで輝延の勢力が完全に消えたわけではありません。天正7年(1579)ごろには、吉川元春が竹田城を対織田戦線の重要拠点とみなし、輝延が再び竹田城に復帰していたことがうかがえます。

現在の竹田城跡
現在の竹田城跡

羽柴秀長軍との最終決戦

輝延の運命を決めたのは、天正8年(1580)の羽柴秀長軍による再侵攻でした。三木城落城後、織田方は改めて但馬の制圧に乗り出します。『信長公記』によれば、このとき毛利方の援軍はなく、竹田城の輝延は大きな抵抗ができないまま降伏しました。

豊臣秀長
豊臣秀長

竹田城と太田垣氏の終焉

輝延の降伏によって、太田垣氏による竹田城支配は終わりを迎えました。以後、竹田城には桑山重晴、さらに赤松広秀らが入り、のちに大規模な石垣の城へと改修されていきます。現在よく知られる竹田城跡の壮大な石垣は、太田垣時代のものというより、織豊期の改修によるものと考えられています。

一方、太田垣氏の時代の竹田城については、石垣下の斜面や観音寺山城の遺構に、戦国期の姿が残るとされています。畝状竪堀や竪堀群で防御を固めた中世城郭であり、のちの総石垣の城とは異なる姿だったようです。

輝延の最期と没年

輝延の没年は、はっきりしません。天正8年(1580)の降伏をもって、太田垣輝延は歴史の表舞台から姿を消したとみていいでしょう。

まとめ

華々しい逸話の多い戦国武将ではありませんが、太田垣輝延の生涯には、中央の大勢力に翻弄されながらも、在地の城と領地を守ろうとした地方武将の現実がにじみます。竹田城の歴史をたどるとき、忘れてはならない城主の一人です。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki

肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)

 

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