
小泉セツ&小泉八雲の夫婦がモデルとなった朝の連続テレビ小説『ばけばけ』が注目されています。実はその小泉夫妻と、明治の文豪・夏目漱石と妻・鏡子は、不思議と重なり合う縁で結ばれていた、というのをご存じでしょうか。
夏目漱石の研究家として知られ、『心を癒す漱石の手紙』などの著書を持つ、作家で雑誌編集記者の矢島裕紀彦さんによると、二人の文豪とその妻たちには奇縁と呼ぶしかないような不思議なつながりがあると言います。
多数の文献や手記を紐解きながら、二組の夫婦の知られざる素顔を全26回の連載にて紹介します。
第19回では、八雲の妻・セツ、漱石の妻・鏡子がそれぞれに果たした役割についてご紹介します。八雲も漱石も、妻なくしてはこれほどの大業を遺せなかったに違いありません。
文・矢島裕紀彦
セツの口から語られることで誕生した、八雲の再話文学

小泉八雲夫人のセツは、妻として家庭を守るだけでなく、八雲の著作活動の補佐役もつとめていた。長男の一雄が、のちにこう語っている。
結婚後、母が父のよきハウスキーパーとなる傍ら、そのよきリタラリー・アシスタントとして活躍すべく、暇さえあれば著作の材料となる様な話をするようにと頻りと促されたそうだ。「英語どころか日本語さえ正しく話せなかった若い頃の事だもん。何を話したらええやら判らんで、真に困った事もあったがね」とは当時を回顧しての母の述懐であった。(略)父に最初に試みた話というのは「鳥取の蒲団の話」であった。これは鳥取から来た稲垣の聟為二より聞いた話であった。夜中、「兄さん寒かろう」「お前寒かろう」と云って泣く蒲団の怪談を母が語った時、父は「あなたは私の手伝い出来る仁です」と云って非常に喜んだとの事である。(『父小泉八雲』)
セツは子どもの頃から周りの大人たちがしてくれる物語を聞くのが大好きで、よく「お話してごすなさい」とせがんだという。それは20歳過ぎまで続いた。養母トミは出雲大社の社家で代々神官をつとめてきた高浜家の養女だったから、出雲の神々の物語や、生霊、死霊の話などを語り聞かせたという。つまり、セツには少女時代から、民衆の間に受け継がれてきた伝承譚を好んで聞き取る性向と能力が身についていたということだろう。
「鳥取の蒲団の話」は、《稲垣の聟為二より聞いた》とあるから、破局に終わったセツの最初の結婚の置き土産ということになろうか。この蒲団の話は、八雲の日本における最初の著作『日本瞥見記』(『知られぬ日本の面影』)の中に取り入れられている。
セツのこのようなアシスタントとしての働きは、年を経てさらに重要性を増していく。『耳なし芳一』『雪女』などを収載した八雲の最晩年の再話文学の傑作集『怪談』も、セツの存在抜きには誕生し得なかった。セツは語っている。
怪談は大層好きでありまして、「怪談の書物は私の宝です」といっていました。私は古本屋をそれからそれへと大分探しました。(略)私が昔話をヘルンにいたします時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を書いて置きます。それから委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。私が本を見ながら話しますと、「本を見る、いけません、ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければいけません」と申します故、自分の物にしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。(『思い出の記』)
そもそも、八雲は日本語の読み書きが堪能ではなかった。日本の文化や習俗を研究し、著作をなしていくのにできるだけ多くの時間を費やす必要があり、日本語を深く勉強するだけの余裕を持ち得なかった。再話文学では、セツが八雲の喜びそうな素材となる文献資料を集め、それをセツが読み込んで自分の中で消化し、八雲に繰り返し語り聞かせる。八雲はそれを文学的に再構成しながら英語でまとめ、米英の出版社から刊行する書物におさめたのである。
現在、富山大学の「ヘルン文庫」には八雲の書斎にあった2300冊余りの書籍が所蔵されている。関東大震災のあと、八雲の蔵書が散逸することを恐れたセツが、八雲の教え子の田部隆次に相談して実現した「文庫」だった。所蔵本のうち364冊が和漢書で、過半は木版刷りの和綴じ本。そのほとんどは、セツが古本屋をめぐって渉猟した説話や読本、浮世草子の類であった。それらの本には、傍線や丸印や書き込みが多くあって、セツが八雲のために尽くした痕跡が見られるという。
八雲にとってセツは、単に家庭における良き妻である以上に、仕事の上でも不可欠のパートナーだったのである。母セツにお伴した古本探しの一情景を、のちに長男の一雄が生き生きと伝えている。
明治三十六年(一九〇三年)の春でした。母は父に頼まれて私を伴ひ古本漁りに出かけました。目的は何か妖怪に関する歌の本を求める事にあつたのです。数軒買附の古本屋に立ち寄つた末、確か浅草の浅倉書店だつたと思ひますが此所で購入したのが狂歌百物語と申す本でした。嘉永六年に出版された挿絵沢山な神秘な裡にも十分の滑稽味を存する所謂江戸趣味の黄表紙の三冊ものです(略)母は是を求むるや俥を飛ばして帰宅、早速父に見せました處、父は一遍目を通してから『コウ面白イ!貴女忙シ無イノ時、是非読ム下サレ、私翻訳シマセウ』欣然として申しました。其の後、母に是を読ませつゝ(略)それからローマ字でせつせと写し取りました。そして此の中で面白いと思ふ歌を暇を見て英訳しました。(『小泉八雲手稿画本 妖魔詩話』序)
こんな逸話もある。あるとき八雲がセツに『万葉集』の歌について考証的な質問をした。セツは答えることができず、泣きながら自身の無学を詫びた。すると八雲はセツを書架の前に連れていって、そこに並べてある八雲の著作を見せ、これらは皆、妻であるお前の話を聞いて、お前のお蔭で書けたものだと説いて、こう結んだ。
「これだけの書物は、誰の骨折りでできましたか。あなたに学問があれば、こんな面白い話をしてくれません。あなた、学問ある時、私この本書けません。あなた学問ない時、私書けました」
単に学問的な解釈を説明したり英語のできる補佐役は、他にもいた。だが、著作の中に散りばめる民間伝承や逸話、庶民の暮らしぶりを知り、『怪談』を頂点とする八雲の再話文学を構成するためには、セツという個性を通して口伝えに語られる物語こそが、何より重要だったのである。
漱石が亡くなった後まで「木曜会」を支え続けた鏡子

漱石夫人の鏡子の方に目を転じよう。
鏡子には、漱石の創作を直接的に助けるような場面や行為は見当たらない。一方で、あるときには別居騒動があったことなども伝えられる。とはいえ、漱石が明治39年(1906)10月から自宅で催した「木曜会」を側面から支え続けた功績は、もっと評価されていいだろう。漱石山房における木曜会の雰囲気は、どんなものだったのか。哲学者の和辻哲郎が、『漱石の人物』と題する一文の中にこう記している。
木曜会の気分は私には非常に快く感じられた。(略)漱石を核とするこの若い連中の集まりは、フランスでいふサロンのやうなものになつてゐた。木曜日の晩には、そこへ行きさへすれば、楽しい知的饗宴にあづかることが出来たのである。がそこにはなほサロン以上のものがあつたかも知れない。人々は漱石に対する敬愛で集まつてゐるのではあるが、しかしこの敬愛の共同はやがて友愛的な結合を媒介することになる。人々は他の場合にはそこまで達し得なかつたやうな親しみを、漱石のお蔭で互に感じ合ふやうになる。従つてこの集まりは友情の交響楽のやうな風にもなつてゐたのである。
古参の門弟で評論家の野上豊一郎も、
我々の楽しいランデエヴウというような気持ちのする事があります。我々の最も自由な最も愉快な時間が其処で過ごされたのでありますから。(『木曜会の話』)
と語っている。
こうした明るく自由なサロンのような空気は、もちろん、漱石という「核」があって生まれるものであったことは言うまでもない。が、それを脇から支えている鏡子のことも忘れてはなるまい。多くの客人を家に迎え入れる手間や費用、気働きは、案外にかさむものだ。鏡子はそれを、嫌な顔ひとつするでもなく、10年にわたってやりくりした。
鏡子を“悪妻”として見れば、大雑把でぼんやりしていて、強情なほどの無神経さを有していたと言えようが、裏を返せば、細かいことは気にせず、呑気で気風のいい姐御肌だった。若い弟子たちのために、師たる漱石とは別の方面から、いろいろと面倒見のよさを発揮してもいる鏡子なのである。木曜会を、広く漱石の文学的活動の一貫ととらえるなら、鏡子もセツに劣らず、立派に補佐役をこなしていたと言えそうだ。
漱石は大正5年(1916)12月9日に没した。その後、木曜会は「九日会」となって継承された。漱石の祥月命日である毎月9日に、多くの門弟たちが主なき漱石山房に集ったのだ。その中心には、もちろん鏡子がいた。九日会は昭和初期まで20年近く続いた。
漱石の孫(長女筆子の娘)で大正13年(1924)生まれの松岡陽子マックレイン(オレゴン大学名誉教授)は、子どもながら九日会を楽しみにしていたという。曰く。
毎月大勢のお弟子さんたちが集まり、祖母はその中に混ざって楽しんでいたようである。大人には神楽坂の川鉄から取り寄せた鳥鍋を振る舞い、われわれ子供たちには美味しい卵ご飯のお重をとってくれたので、毎月九日に祖母の家へ行くのが、この上ない楽しみだった。(『漱石夫妻 愛のかたち』)
漱石の次男の夏目伸六は、孫の陽子より年長なだけに、もっと記憶は鮮明で、子どもらが食べたのは実際には「川鉄の親子」で、
黒塗りの四角い御重の蓋をあけると、厚く一面に、煎り卵が敷きつめてあって、その中には、柔かい鳥のささ身が一杯入って居た。
と詳しく説明し、さらにこうも綴っている。
まだ芥川さんや久米さんが学生時分のことであり、お弟子の中では先輩格の三重吉さんや豊隆さんでさえ、それ程の年輩ではなかったのだから、皆随分とよく食べ、よく呑んだ様である。(略)母が糸蒟蒻ばかり食べて居ると云うので、最初から同じ鍋を突ついて居た小宮豊隆さんが、酔と共に、いつの間にか、自分が御馳走でもして居る様な気になったのか、尤もらしく横から、口を出して、
「奥さん、奥さん。そう白滝ばかり食っちゃ損ですよ。もっと肉をお食べなさい、肉を」
と注意したとかで、もともと払いは母持ちときまって居るところから、
「あんた余計なお節介するのよしなさいよ。人が好きで食べてるのに」
と、逆にさか捻じを食わされて居る様な光景もあった。(『父・漱石とその周辺』)
妻と弟子のこんなやりとりを、漱石も仏壇から微笑とともに見ていただろう。
* * *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com
(この連載を通しての主な参考文献)
『漱石全集』全28巻、別巻1(岩波書店、1993~1999年)/夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫、1994年)/夏目伸六『父・夏目漱石』(文春文庫、1991年)/夏目伸六『父・漱石とその周辺』(芳賀書店、1967年)/高浜虚子『回想子規・漱石』(岩波文庫、2002年)/松岡陽子マックレイン『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新書、2007年)/荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社、1984年)/江藤淳『漱石とその時代』第1部~5部(新潮新書、1970~1999年)/『新潮日本文学アルバム夏目漱石』(新潮社、1983年)/『別冊國文学 夏目漱石事典』(学燈社、1990年)/『夏目漱石の美術世界』(東京新聞、NHKプロモーション、2013年)/出久根達郎『漱石先生とスポーツ』(朝日新聞社、2000年)/江戸東京博物館・東北大学編『文豪・夏目漱石』(朝日新聞社、2007年)/平岡敏夫『「坊つちやん」の世界』(塙新書、1992年)/恒松郁生『漱石 個人主義へ』(雄山閣、2015年)/小泉節子、小泉一雄『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』(恒文社、1976年)/小泉八雲、平井呈一訳『日本瞥見記』上・下(恒文社、1975年)/小泉八雲、平井呈一訳『東の国から・心』(恒文社、1975年)/小泉八雲、平川祐弘編『怪談・奇談』(講談社学術文庫、1990年)/小泉八雲、池田雅之編訳『虫の音楽家』(ちくま文庫、2005年)/『明治文学全集48 小泉八雲集』(筑摩書房、1970年)/小泉時共編『文学アルバム小泉八雲』(恒文社、2000年)/小泉凡監修『小泉八雲、開かれた精神の航跡。』(小泉八雲記念館、2016年)/池田雅之監修『別冊太陽 小泉八雲』(平凡社、2022年)/池田雅之『小泉八雲』(角川ソフィア文庫、2021年)/田部隆次『小泉八雲』(北星社、1980年)/長谷川洋二『八雲の妻』(今井書店、2014年)/関田かをる『小泉八雲と早稲田大学』(恒文社、1999年)/梶谷泰之『へるん先生生活記』(恒文社、1998年)/池野誠『松江の小泉八雲』(山陰中央新報社、1980年)/工藤美代子『神々の国』(集英社、2003年)/工藤美代子『夢の途上』(集英社、1997年)/工藤美代子『聖霊の島』(集英社、1999年)/平川祐弘編『小泉八雲回想と研究』(講談社、1992年)/平川祐弘『世界の中のラフカディオ・ハーン』(河出書房新社、1994年)/熊本大学小泉八雲研究会『ラフカディオ・ハーン再考』(恒文社、1993年)/西川盛雄『ラフカディオ・ハーン』(九州大学出版会、2005年)/西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち』(洛北出版、2024年)/池田雅之『日本の面影』(NHK出版、2016年)/ラフカディオ・ハーン『小泉八雲東大講義録』(KADOKAWA、2019年)/芦原伸『へるん先生の汽車旅行』(集英社インターナショナル、2014年)/嵐山光三郎『文人暴食』(新潮文庫、2006年)/河東碧梧桐『子規を語る』(岩波文庫、2002年)/『正岡子規の世界』(松山市立子規記念博物館、1994年)/『子規全集』18巻、19巻(講談社、1979年)/『志賀直哉全集』第8巻(岩波書店、1999年)/『芥川龍之介全集』第4巻(岩波書店、1996年)/瀬沼茂樹『評伝島崎藤村』(筑摩書房、1981年)/矢島裕紀彦『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫、2009年)/矢島裕紀彦『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(NHK生活人新書、2003年)/矢島裕紀彦『文士が愛した町を歩く』(NHK生活人新書、2005年)/矢島裕紀彦『文士の逸品』(文春ネスコ、2001年)











