はじめに-毛利輝元とはどんな人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する毛利輝元(もうり・てるもと、演:濱 正悟)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した大名です。祖父は毛利元就、父は毛利隆元(もうり・たかもと)。中国地方に広大な領国を持った毛利家の当主として、織田信長(演:小栗旬)や豊臣秀吉(演:池松壮亮)と向き合いながら、一族を率いました。
輝元は、祖父・元就のような「創業の英雄」として語られることはあまり多くありません。しかし、元就が築いた大勢力を受け継ぎ、それを維持し、さらに豊臣政権のもとで五大老の一人にまで上りつめた点で、きわめて重要な人物です。
この記事では、毛利輝元が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。
『豊臣兄弟!』では、領国の安泰を第一と考えている人物として描かれます。

毛利輝元が生きた時代
毛利輝元が生きたのは、戦国大名同士の争いが続く一方で、織田信長、豊臣秀吉によって天下統一が進められていく時代でもありました。
中国地方では、祖父・毛利元就の代に毛利氏が急速に勢力を伸ばし、山陰・山陽にまたがる大大名へ成長します。輝元は、その巨大な家を受け継ぐ立場にありました。
とはいえ、その道は平坦ではありません。織田氏の西進により、羽柴秀吉の軍勢と中国各地で衝突し、やがて信長の死後は秀吉と講和して豊臣政権に協力することになります。
さらに秀吉の死後には、豊臣政権を支える五大老の一人となり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将と見なされました。毛利輝元の生涯は、戦国大名から豊臣大名、そして徳川時代初頭の大名へと移る激動の流れそのものと重なっています。
毛利輝元の⾜跡と主な出来事
毛利輝元は天文22年(1553)に生まれ、寛永2年(1625)に没しています。その生涯を主な出来事とともに辿ってみましょう。
毛利元就の孫として家督を継ぐ
毛利輝元は、天文22年(1553)1月22日、毛利隆元の長男として生まれました。幼名は幸鶴丸です。永禄6年(1563)に父・隆元が急死したため、若くして家督を継ぎました。
当主となった時点で、輝元はまだ若年でした。そのため、祖父の毛利元就が後見役となり、さらに元就の死後も、叔父の吉川元春(きっかわ・もとはる)と小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)が補佐にあたります。
元就・元春・隆景に支えられ、毛利家を維持する
毛利家は、輝元の時代に入っても、なお祖父・元就の影響が強く残っていました。元就が没した元亀2年(1571)以後は、吉川元春と小早川隆景が輝元を補佐し、宗家・毛利氏を支えます。
元就没後、両叔父の補佐を受けて出雲(現在の島根県の東半部)の尼子勝久・山中幸盛らを追放し、備前(現在の岡山県南東部)の浦上宗景(うらがみ・むねかげ)を圧迫し、さらに讃岐(現在の香川県)にも兵を入れました。
このころの輝元は、元就や毛利両川の築いた体制の上に立ちながら、毛利家の広大な山陰・山陽10か国に及ぶ領国を守る存在として成長していきました。
足利義昭を迎え、織田信長と対立する
毛利輝元が本格的に中央政局に関わるのは、織田信長との対立が深まってからです。天正4年(1576)5月、京都を追われた前将軍・足利義昭を備後(現在の広島県東部)鞆浦に迎え、これを奉じて織田氏に対抗する決意を固めます。

同年7月には、毛利方の水軍が木津川口で織田氏水軍に大勝し、石山本願寺への兵糧搬入に成功しました。毛利氏は、播磨(現在の兵庫県南部)の別所氏や摂津(現在の兵庫県南部)の荒木氏などとも連携し、一時は中央政局に強い影響を及ぼします。
この時期の輝元は、織田信長と正面から対立する西国の有力大名として位置づけられていました。

秀吉の中国攻めと向き合う
しかし、羽柴秀吉が播磨へ進出すると、情勢は大きく変わります。
備前の宇喜多氏が秀吉方についたこともあり、毛利氏は次第に圧力を受けるようになりました。これにより、中国地方での戦いは毛利氏にとって厳しさを増していきます。
その大きな転機となったのが、天正10年(1582)の備中(現在の岡山県西部)高松城をめぐる講和です。

しかも講和成立の直後、本能寺の変で信長が討たれたことがわかります。このとき、吉川元春は秀吉追撃を唱えました。しかし、小早川隆景がその主張を退けます。
結果として、この決断は、秀吉に中央制覇の好機を与えることになったのです。
秀吉と協調し、豊臣政権の有力大名へ
天正11年(1583)には安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)を使者に立てて秀吉と境界を折衝し、領国保持を条件に豊臣政権へ協力することになりました。
その後、四国出征・九州出征において、ともに先鋒を務めます。毛利家ほどの大勢力が秀吉の天下統一に組み込まれていく上で、輝元の存在は欠かせませんでした。

広島城を築き、本拠を移す
輝元の大きな事績として忘れてはならないのが、広島城築城です。
もともと毛利氏の本拠は、吉田郡山(よしだこおりやま)城という山城でした。しかし、広大な領国を支配し、豊臣政権下で大大名としてふるまうには、平地の新しい城と城下町が必要でした。

天正17年(1589)に中国経営の本拠として広島築城に着手し、天正19年(1591)正月に郡山(こおりやま)城から移りました。
112万石を領し、五大老の一人となる
輝元は、豊臣政権下で巨額の所領を安堵されました。天正19年(1591)に安芸(現在の広島県西半部)・備後・周防(現在の山口県東部)・長門(現在の山口県西部)・石見(現在の島根県の西半部)・出雲(現在の島根県の東半部)・隠岐の全域と、伯耆(現在の鳥取県の中・西部)・備中の一部、合計112万石の朱印状を受けています。
さらに、輝元は五大老の一人となりました。これは、豊臣政権下の最高の職に位置する大名だったことを意味します。
文禄・慶長の役でも重責を担う
文禄・慶長の役でも、毛利家は大きな役割を担い、辛苦を重ねました。文禄の役では輝元自ら渡海し、慶長の役でも壱岐まで出陣します。
毛利勢は渡海軍勢の主力として動員され、豊臣政権の軍事を支える存在でした。五大老の一人としてだけでなく、軍事面でもなお大きな責任を負っていたことがわかります。
関ヶ原の戦いで西軍の総大将と見なされる
秀吉の死後、豊臣政権は不安定になります。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、輝元は大坂城西ノ丸にあって実戦には参加しませんでした。
しかし、西軍の総大将とみなされ、関ヶ原敗戦の結果、毛利家は大きく減封されます。広大な領国は失われ、残されたのは周防・長門の2国のみでした。
このことにともない、輝元は慶長5年(1600)に髪をおろして宗瑞また幻庵と号し、家督を幼い秀就(ひでなり)に譲りました。しかし実際には、その後もなお後見として藩政を主導したといいます。
萩城を築き、藩政の基礎を整える
関ヶ原の戦い後、輝元は新しい本拠として萩城の建設を進めます。慶長9年(1604)11月に長門国萩指月山へ築城して移りました。
知行の大削減により家臣の中には不満を抱く者もいましたが、輝元は慎重に一族・家臣の協和に努めたとされています。
晩年と最期
輝元はその後、大坂の陣では秀頼に同情しながらも、幕府の求めに応じて冬の陣に病を押して徳川方として出陣しました。豊臣家への恩義と、徳川政権下で家を守る現実のはざまで揺れた晩年だったといえるでしょう。
そして寛永2年(1625)4月27日、萩城内で死去しました。享年73歳でした。法名は天樹院前黄門雲巌宗瑞大居士です。
まとめ
毛利輝元は、祖父・毛利元就が築いた巨大な領国を受け継ぎ、戦国末の激動を生き抜いた大名でした。
広島城築城、112万石の安堵、五大老就任など、その歩みは華やかです。しかし関ヶ原の戦いで西軍の総大将と見なされた結果、毛利家は防長2国へと大きく削られました。
それでも輝元は、敗戦後に家を保ち、萩城を築いて新たな基盤を整えました。輝元の格言に「将軍家への御奉公をおこたらず、家名存続を第一に考えよ」があります。毛利家を「広げた」人物ではなくとも、「残した」人物として、その存在は大きいといえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











