松尾芭蕉像。

「一句として辞世ならざるはなし」

松尾芭蕉 元禄7年(1694)10月12日没。50歳(数え51歳)

NHK朝ドラ『ばけばけ』のモデルで、日本文化をこよなく愛した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、俳句にも強い興味と共感を有していた。子どもらの唄う歌を覚えて一緒に口ずさむのと同じように、古人の詠み残した名句を覚え口誦していたという。とりわけ松尾芭蕉が好きで、「古池や蛙とびこむ水の音」を英訳して自著の中にも紹介した。また、自分自身でも俳句をつくった。セツ夫人(小泉節子)はこう追憶している。

《発句を好みまして、これも沢山覚えていました。これにも少し節をつけて廊下などを歩きながら、歌うように申しました。自分でも作って芭蕉などと冗談いいながら私に聞かせました》(『思い出の記』)

ギリシアのイオニア諸島のひとつ、レフカダ島で生まれ、アイルランド、英国、アメリカなど、世界各地を経巡って極東の国・日本にたどりついた八雲だから、日本における紀行文の最高傑作『おくのほそ道』の作者でもある芭蕉には、余計に親しみを覚えていたのだろう。

庵を譲り渡し、命がけの旅に出る

芭蕉は寛永21年(1644)、伊賀国阿拝郡の土豪出身の農家の次男坊として生まれた。本名は松尾宗房。俳諧の世界に手を染めたのは、齢19(数え年)の頃。伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良精(よしきよ)の家に召し抱えられ、良精の三男・良忠に仕えたのがきっかけだった。良忠は蝉吟の俳号を持ち、京の国学者・北村季吟に師事して俳句を嗜んでいたのである。

10年ほど仕えるうち、良忠は早世した。当時、桃青と号していた芭蕉は、これを契機に俳諧宗匠として身を立てようと江戸に赴いた。桃青はほどなく頭角をあらわしたが、俳諧宗匠として安穏な暮らしを貪り続けるのはどうにも飽き足らなくなる。37歳のとき、意を決して深川の草庵に隠棲。質朴の日々と旅暮らしの中で、自己の作品を文芸として磨き上げる求道者の道を選んだ。ちなみに、芭蕉の俳号は、深川に結んだ草庵の傍らに、門弟が植えたひと株の芭蕉に由来する。

いわゆる「おくのほそ道」紀行の始まりは元禄2年(1689)、芭蕉46歳の春。西行の500回忌にあたる年であるのに発心し、江戸・深川の庵を人に譲り渡し、3月27日、門弟の曾良(そら)を道連れにはるか陸奥(みちのく)への旅路についた。白河の関を越え、仙台、松島、平泉、尾花沢などを経めぐり、山形の立石寺(山寺)を詣でる。その後、最上川をくだり、月山にも登り、道中最北の地となる象潟へ。さらに、越後出雲崎で佐渡島を望む荒波の情景に心打たれ、越中、金沢、敦賀を経て美濃の大垣にたどり着くのは夏の終わり(8月21日頃)である。その大垣も「行く秋」とともに船出し、伊勢へと向かっていく。

この600里(約2400キロ)にもおよぶ旅の途次で詠まれたのが、

「行く春や鳥啼き魚の目は涙」
「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」
「閑さや岩にしみ入(いる)蝉の聲」
「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがは)」
「蛤(はまぐり)のふたみに別れ行く秋ぞ」

といった名句の数々であった。

『おくのほそ道』に《古人も多く旅に死せるあり》《若(もし)生きて帰らばと、定めなき頼(たのみ)の末をかけて》と記されたことからもわかるように、この遠路の旅は命がけの所業だった。

芭蕉はこれ以前にも何度か大きな旅をしている。初めてものした紀行文を『野ざらし紀行』と題したところにも、行き先で待つ門弟たちによる歓待とは別の、当時の旅人が置かれた厳しい環境が窺える。「野ざらし」とは行き倒れの骸骨に他ならず、紀行文の冒頭には、自身が野ざらしとなることを心に思い描いた悲愴な寂寥感の覗くこんな句が書きつけられている。

「野ざらしを心に風のしむ身かな」

やがては俳聖とも呼ばれる芭蕉だが、簡単に行き着く境地ではない。惑いや回り道もあった。元禄3年(1690)の『幻住庵記』に、芭蕉は綴っている。

《ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて暫く生涯のはかり事とさへなれば、終(つい)に無能無才にして此一筋につながる》

自分も若い頃は、仕官し武士として出世した人たちをうらやんだり、仏門に帰依して禅僧となろうと思ったこともあった。それでも結局、漂泊の俳人となって花鳥風雅を吟詠する一筋の道に入っていく身となったというのである。引用文中の「無能無才」は、自身の俳諧を「夏炉冬扇」と両断した厳しさや覚悟、無常観と通ずるものだろう。

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

元禄7年(1694)9月、芭蕉は奈良、生駒暗峠を経て大坂に赴いた。「軽み」へと至り着いた自身の俳風を関西に普(ひろ)めるとともに、門人の之道と珍硯の間に生じた不和を仲裁するのが目的だったという。

前年に齢50(数え年)を迎え、すでに体調の衰えを自覚していた芭蕉は、大坂で倒れ、10月3日、南久太郎町御堂前の花屋仁左衛門宅の離れ屋敷で病床に伏した。赤痢に罹患していたとも言われ、度重なる下痢症状に悩まされた。門人で医師でもある木節が近江から呼び寄せられ、他の弟子たちとともに治療と看護に当たった。病状はなかなか改善せず、木節は別の医師にも診てもらい新たな治療法を探ってはどうかと師に進言したが、芭蕉は、「心遣いはうれしいが、元からさずかった寿命はどうなるものでもない。自分の息のあるうちは、どこまでも木節を頼りにする。ほかの医者に見せる必要はない」と応じたという。

10月8日深夜、芭蕉は隣に寝(やす)んでいた弟子の呑舟を起こし、できたばかりの発句を書き留めさせた。それが、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」だった。翌9日朝、「身を清めたい」という芭蕉の意を受け、弟子たちが湯で体を拭き、蒲団や召しものも新しいものに取り替えた。その3日後の10月12日午後4時頃、眠るように息絶える。享年51(満50歳)。その死は「埋火(うずみび)のあたたまりの冷むるがごとく」であったという。

文暁の『芭蕉翁反故文』や路通の『芭蕉翁行状記』によれば、芭蕉は、以前から《きのふの発句はけふの辞世、けふの発句はあすの辞世、わが生涯、いひ捨てし句々、一句として辞世ならざるはなし》《平生(へいせい)則(すなわち)辞世なり、何事ぞ此節にあらんや》と周囲に伝えていたとも言われ、死の4日前に詠まれた「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」は、とくに辞世と伝えていなくても、いかにも旅に生き旅に果てた漂泊の俳人・松尾芭蕉の最期にふさわしい一句となった。

旅先での「客死」は、芭蕉のかねてから望み覚悟するところだった。それも、草の上、土を枕にしたものでなく、立派な褥(しとね)の上で、大勢の門弟に囲まれての逝去となれば、やはり幸福であったと言うべきだろう。芭蕉は死の床で、遺言状を弟子たちに書きとらせてもいた。内容は、自身の埋葬や草稿の始末の仕方、知己への離別の挨拶などであった。

その遺言に従って、亡骸は、門人らが舟に乗せて淀川を遡り、13日午後、近江の義仲寺に着いた。14日に葬儀。門人のほか、数百人の大人数が会葬に訪れた。寺の境内が狭いので、表から入った人は焼香をすませたらそのまま裏へ抜けられるよう、田の刈りあとに道をつくり混雑を避けたという。

亡骸はその後、木曽義仲の墓の隣に葬られた。

(主な参考文献)石寒太『芭蕉の晩年力』(幻冬舎)、『校本芭蕉全集』第6巻(富士見書房)、『国民の文学15 芭蕉名句集』(河出書房新社)、小泉節子『小泉八雲 思い出の記』(恒文社)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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