
ライターI(以下I):『豊臣兄弟!』第42回です。なんだか、物申したいという感じですが、ぶちまけてください。
編集者A(以下A):「薩摩の島津氏を降伏させた」と、九州平定をナレーションで終えるという驚天動地の展開になりました。同じように感じている視聴者も多いかと思います。『豊臣兄弟!』では、長宗我部元親(演・磯部寛之)、信親(演・林裕太)が登場していたので、九州平定の過程で起きた「戸次川(へつぎがわ)の戦い」は描かれると思っていたのですが、見事にスルーされました(笑)。「大河ドラマと長宗我部」といえば、これまでちょっとだけ登場が2作ほどあっただけ。数回にわたって主要場面で登場するのは初めてのことですから、長宗我部ファンは期待していたかもしれません。
I:戸次川の戦いというのは、元親嫡男の信親が討ち死にした長宗我部家の運命も四国の運命も変えてしまった合戦ですよね。せっかく長宗我部元親に磯部寛之さんをキャスティングしたのですから、戸次川の戦いを見たかったですね。
A:この九州平定では、秀吉が自ら出陣して、薩摩領国内に入り、現在の薩摩川内市にある泰平寺で島津義久の降伏を受諾しています。薩摩を行軍する秀吉の姿を大河ドラマで見たかったですね。余談ですが、秀吉が陣を敷いた泰平寺は明治の廃仏毀釈で徹底的に破壊され、現在ある本堂は大正時代の再建なのだそうです。薩摩国内は、廃仏毀釈が徹底的に行われ、島津家歴代藩主の菩提寺だった福昌寺も明治2年(1869)に、徹底破壊されました。鹿児島に取材に行った際に福昌寺跡に立ち寄りましたが、藩主の墓石を除いて破却されたことに衝撃を覚えた記憶があります。
I:私は、奈良の山の辺の道をよく歩いたのですが、大伽藍の内山永久寺も壊滅的な被害を受けたといわれています。廃仏毀釈、恐るべしです。
A:余談の余談になりますが、秀吉の九州平定のきっかけとなったのが、大友宗麟による「陳情」です。大友宗麟が大坂まで足を運んで秀吉に島津の横暴を抑えてほしいと要請したのです。もとより大友宗麟の「陳情」なくとも、九州を統一しようとしていた島津軍の勢いは秀吉にとって目障りだったはずですが。
I:大友宗麟はキリシタン大名なんですよね。この頃の九州はざっくりと「大友」「龍造寺」「島津」が覇を競っていたといいますが、島津が優勢になっていたということですね。
A:そうです。キリシタン大名の大友宗麟は、西の高野山と称された大伽藍「千燈寺」などの寺院をこれまた徹底的に破壊したと伝えられています。『サライ』連載「半島をゆく」の取材で旧千燈寺跡に行ったことがありますが、こんな巨大な伽藍を破壊したのかと驚愕した記憶があります。
I:大友宗麟も秀吉の九州平定に絡んでくるわけですから、毛利輝元、大友宗麟、島津義弘にも大河ドラマでバチバチやってほしかったですね。でも、ホームドラマテイストの『豊臣兄弟!』では難しいリクエストなんでしょうね。
「中世的思考」を捨てきれない名門
A:秀吉は泰平寺から、大坂の寧々宛て(侍女のこほ宛て)に手紙を書いています。桑田忠親先生の『太閤秀吉の手紙』(昭和40年/角川文庫)にも収録されています。天正15年(1587)の5月3日に泰平寺に着陣した秀吉は、寧々の侍女こほが4月8日付で送った手紙を5月9日に泰平寺で読み、返書をしたためます。そのなかに興味深い記述があるので引用します。「島津頭(こうべ)を刎ね申し候べく候ところに、頭を剃り、一命を捨てて走り入り候間、是非に及ばず候。いのちを助けまいらせ候」。
I:島津義久の首を刎ねるつもりだったけれど、剃髪して降伏してきたので命を助けたということですね。後年の関ヶ原の戦いのときもそうですが、秀吉、家康ともに島津を潰すことがなかったのが不思議ですね。島津を潰していたら、日本の歴史はそうとう変わったと思いますけど。
A:島津は、初代島津忠久が源頼朝の庶子であると主張しています。薩摩の地も源頼朝から与えられているという「武家の名門」意識がすさまじく、農民出身の秀吉を「由来無き仁」と蔑んでいたといわれています。秀吉の出自を論(あげつら)うのは三木城攻めの際に別所一族からも出ていたので、当時の武家名門の共通認識だったのでしょう。『豊臣兄弟!』では、そこまで描かれませんでしたが、足利義昭が薩摩に使者を派遣して島津義久に「降伏勧告」をしています。秀吉の出自をあげつらう一方で、その時点で未だ現職の征夷大将軍だった足利義昭の斡旋は無視できなかったというのが面白いんですよね。「中世的思考」を捨てきれない名門――という構図は、現代でも参考になるんだと思います。
I:足利義昭が九州平定戦の中で島津陣営に使者を送っていたエピソードは、『豊臣兄弟!』第42回の秀長(演・仲野太賀)と義昭(出家して昌山/演・尾上右近)との「昔語り」につながるわけですね。
最南端の物語
A:さて、劇中では描かれませんでしたが、九州平定で秀吉が陣を敷いた泰平寺が、秀吉の足跡が残る最南端ということになります。現在の薩摩川内市の周辺になります。余談ですが、最南端ということで思い出すのが、日本最南端の前方後円墳の取材で鹿児島県肝付町の塚崎古墳群を訪ねたことです。古墳に関心がないとただの森林なのですが、大和発祥の前方後円墳が大隅半島まで伝播していたのかと感慨深いものでした。
I:『サライ』の古墳特集の際に取材したのですよね。
A:はい。もう10年以上前になります。同じ町内には重要文化財「二階堂家住宅」があります。鎌倉時代に鎌倉から下向した二階堂家が江戸時代に建てた屋敷で、昭和時代に田中角栄側近として知られた二階堂進さんの実家になります。二階堂家住宅の存在を教えてくれたのは通商産業省出身の評論家八幡和郎さんで、「二階堂家住宅」を一緒に訪問したのですが、帰路に鹿児島県曽於市の山中貞則元衆院議員の墓参もしました。
I:長らく自民党の税調会長を務めた重鎮ですね。
A:今では、墓参当時にはなかった「山中貞則顕彰館」が建設されているようです。山中貞則議員は「税調のドン」と称されたほか、沖縄開発庁の初代長官として沖縄の本土復帰に尽力した政治家として知られています。「顕彰館」のホームページには、「薩摩藩の琉球侵攻は昔の歴史とはいえ過ちは過ちである。島津の人間として知らぬ顔で過ごすことはできない」と、藩政時代の琉球支配に対する贖罪の意識が強かったことが掲げられているのです。実際に沖縄県への思いが深く、国会で多数の法案を通したことで知られています。
I:薩摩藩による琉球や奄美地方からの搾取でできた蓄財が、明治維新への原動力になったともいわれています。
A:豊臣秀吉の九州平定の物語からやや脱線しましたが、「最南端の物語」が、来年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』へとつながるエピソードに達しました。
I:歴史っていろいろなところでつながるのですね。
●編集者A:書籍編集者。かつて『完本 信長全史』(「ビジュアル版逆説の日本史」)を編集した際に、信長関連の史跡を徹底取材。本業では、11月10日刊行の『後世に伝えたい歴史と文化 鶴岡八幡宮宮司の鎌倉案内』を担当。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好き。愛知県出身なので『豊臣兄弟!』を楽しみにしている。神職資格を持っている。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり







