文/晏生莉衣

「永遠のベストセラー」といわれ、近年、売上増加が続いているという注目の聖書。キリスト教のベーシックスとして、前回のレッスンでは旧約聖書のキーワードである神と人間との「契約」について『創世記』から取り上げましたが、旧約聖書にはもう一つ「律法」というキーワードがあります。
「立法ならわかるけど、律法とは?」そんな疑問にお答えすると、律法とは、旧約聖書において神がイスラエルの民と結ばれた契約によって守らなければならないとされたすべての掟(おきて)や規則を集めたものです。律法を守り従うことで、神との契約の恩恵が保証されると考えるとわかりやすいでしょう。
その律法を神から初めて授かったのがモーセでした。モーセといえば、海を割ってイスラエルの民を率いて進んでいくクラシック映画の壮大な場面が有名ですが(レッスン43等参照:https://serai.jp/living/1256910)、旧約聖書によると、出エジプトのリーダーであるモーセは、エジプトを脱出後、神に呼ばれてシナイ山に登り、そこで神が語られた律法を民に伝えるという重要な役目も果たしました。
そのモーセの働きによって神と民との契約が結ばれることになったのですが、モーセ契約ともいわれるこの契約は、前回レッスンで出てきた神とアブラハムとの契約とは違って、律法を守るという条件がつきました。
その律法の中心的な掟が「十戒」です。モーセは再び神に呼ばれてシナイ山に登り、神が指で書いた十戒の石板2枚を託されたのです。
十戒はなにを命じているのか
旧約聖書を実際に読んでいるという人は少数派と想定される日本でも、モーセや十戒については世界史の授業などで習ったから知っているという方は多いでしょう。それでは、その記憶を呼び起こして「『十戒』の内容をすべて挙げてください」と言われたらいかがでしょうか。
神が語られた10の戒め(いましめ)=「十戒」をどう区分するかはカトリックとプロテスタントで多少の違いがあり、プロテスタントの宗派でもルーテル教会はカトリックと同じ区分を採用しています。解釈や言葉づかいにも若干の相違がありますが、おおまかにまとめると以下のようになりますので参考にしてください。カトリック、プロテスタント共通のものは(共通)、ルーテル教会を除くプロテスタントのものは(プロテスタント)、カトリックやルーテル教会のものは(カトリック、ルーテル)と示しています。
◆ わたしのほかに神があってはならない(共通)
◆ 偶像を造ってはならない(プロテスタント)
◆ 神の名、主の名をみだりに唱えてはならない(共通)
◆ 主の日、安息日を聖なるものとせよ(共通)
◆ あなたの父と母を敬え(共通)
◆ 殺してはならない(共通)
◆ 姦淫してはならない(共通)
◆ 盗んではならない(共通)
◆ 隣人に関して偽証してはならない(共通)
◆ 隣人の妻を欲してはならない(カトリック、ルーテル)
◆ 隣人の財産や家を欲してはならない(共通)
モーセの光と影
モーセといえばこのような活躍から偉大なスーパーヒーローといったイメージが浮かびますが、旧約聖書に描かれたモーセの人生は実に波乱万丈で、失敗者の一面もあることはあまり知られていないかもしれません。
旧約聖書によると、モーセはイスラエル民族の始祖といわれるアブラハムの直系の子孫ですが、エジプトのファラオの残虐な命令から逃れ、イスラエル民族でありながらエジプトの王子として育てられました。赤ちゃんのときから偽りのエスニックアイデンティティのもとに成長することをモーセは余儀なくされたのです。
そうした複雑な生い立ちながらも王子として何不自由なく育ち、優雅な宮廷生活を送っていたモーセですが、あるとき、同胞のイスラエル人を虐待していたエジプト人を義憤にかられて打ち殺してしまいました。この件で、モーセはエジプトの王子から一転して殺人者、そして逃亡者となったのです。
エジプト脱出に成功後の試練
そして荒れ野の地で出会った娘と結婚し、羊飼いとして静かな生活を送っていたのですが、40年が過ぎたある日、老境に入ったモーセに神が突然語りかけ、エジプトに戻ってイスラエルの民をそこから導き出すという壮大な使命を与えました。
よく知られた「出エジプト」の歴史物語の始まりです。神の言葉に従い、いくつもの困難を乗り越えてイスラエルの民をエジプトから導き出したモーセでしたが、救われたはずの民は、荒れ野で「水がない」「食べ物がない」「肉が食べたい」などと次々と不平を訴えるようになりました。奴隷状態から解放してくれた神と、自らの命を投げ出す覚悟で民を導いたモーセに感謝するどころか、「これならエジプトで死んだほうがよかった」とまで言い出す始末でした。
モーセにとってはまったく報われない話です。それでもモーセは、民がさまざまな不平を訴えるたびに神に助けを求めて水や食べ物を与えてもらうのですが、こうした民の反抗は、モーセが神から授かった十戒や律法を民に伝え、民がそれに従うと約束したあとも繰り返されたのです。そんな事態が続くなか、モーセは常に神と民の間の仲介者として働き、満足することを知らない民が罰を受けないように神に祈り、とりなしの努力を続けました。
しかし、やがて神の怒りは反抗の民に向かい、神に不平を言った20歳以上の男性は約束の地に入れないという罰が神から下りました。その結果、不信仰の罪を犯し続けたこれらの世代が死に絶えるまで、イスラエルの民は40年間荒れ野の旅を続けることになったのです。
イスラエルの民をエジプトから連れ出すという重責を見事に果たしたものの、その後は成功とはほど遠い、徒労や挫折の連続のような体験が続いたモーセ。くだけた言い方をすれば、骨折り損のくたびれ儲けのような後半人生を、モーセは送ったのでした。
神の裁きがモーセに下された
そしてモーセにとって最大の挫折は、モーセ自身も神から罰せられて、約束の地に入ることが許されずに生涯を終えたことでした。
それは40年間の荒野の旅が終わりにさしかかる頃のこと。飲み水がないと詰め寄る民の不平を聞いて神に助けを求めるモーセに、神は「杖を取り、岩に向かって水を出せと命じなさい」と告げますが、けっして満足することのない民を前に我慢の限界に達したのか、モーセは激怒して、「聞け、反逆者たちよ。私たちがこの岩からあなたがたのために水を出さなければならないのか」と言い放ち、神が示した方法ではなく、杖で岩を二度打って水を出しました。
モーセが「私たち」といっているのは、神からモーセの補佐役を命じられ、エジプト脱出の前からモーセを支えていた兄のアロンを含めているためです。このときも、モーセはアロンとともに神の指示を聞いていました。
この行いのあと、モーセとアロンは約束の地に入ることはできないと神から告げられたのですが、キリスト教の解釈では、2人は神の言葉どおりの行いをしなかった不従順の罪と、神ではなくあたかも自分たちが岩から水を出す奇跡を起こすかのような発言をした傲慢の罪を犯したため、神の罰が下されたというように説明されています。
神から命じられて苦難の中で民をひたすら導き続け、神と民との間を忠実にとりなし続けたモーセでしたが、神は、ささいにも思えるようなこの一度きりのモーセの間違いをゆるしませんでした。
神はモーセに厳しすぎると思えるかもしれませんが、旧約聖書には、神が友と語るように親しく、顔と顔を合わせてモーセに語りかけたという描写がたびたび出てきます。神は、忠実なしもべとしてモーセに深い信頼を寄せていたからこそ、重要な律法をモーセに授けたわけで、そのモーセがたった一回のことであっても神の言葉に従うという律法を破ったなら、その罪は大変重いものとなるのだということでしょうか。神の信頼を裏切ったことの代償は、あまりにも大きいものでした。
兄のアロンはこの出来事のあと、まもなく亡くなり、モーセは約束の地であるカナンを目の前に見渡しながらもそこに入ることはゆるされないまま、120歳で静かに最期を迎えました。
モーセのような預言者は、イスラエルには再び現れなかった――モーセの死に際して、旧約聖書はそのように記しています。
以上、モーセの物語のダイジェスト版となります。旧約聖書のモーセ五書とよばれる正典のうち(レッスン46等参照:https://serai.jp/living/1268948)、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記には、モーセの生涯の光と影が律法とともに描かれていますので、さらにくわしく知りたい方はご一読ください。
現代によみがえる「十戒」
2024年、アメリカ競売大手のサザビーズのオークションに「十戒」が刻まれた現存する最古の石板が出品され、真贋が問われるものの、予想額をはるかに超える約500万ドルで落札されました。
石板は1913年に現在のイスラエル南部の発掘調査中に発見され、価値が認識されないまま長く放置されていたそうですが、関係者によると、この発掘品は十戒がもつ起源の深さと永続的な影響力を証明しており、今日の世界を形成している信仰や文化に共通するルーツとしての重要性が高く評価された結果の高額落札だったということです。
これとは別の話になりますが、同じく2024年に、アメリカのルイジアナ州で「十戒」を公立学校の教室に掲示することを義務づける州法が成立しました。以後、アメリカでは「バイブルベルト」(Bible Belt)と呼ばれる南部の州を中心に、公立学校に十戒を掲示することを義務化する動きが広がって、現在もその合憲性をめぐる議論が続けられています。
はるか昔の旧約聖書の世界から現在の私たちの世界に語りかけるかのように、「十戒」が今、再び注目されています。これもアメリカや英国で起こっている聖書ブームの一現象なのでしょうか(レッスン45参照:https://serai.jp/living/1265604)。神の戒めの言葉に、人々はなにを求めるのでしょうか。
文/晏生莉衣(あんじょう まりい)
教育学博士。国際協力専門家として世界のあちらこちらで研究や支援活動に従事。国際教育や異文化理解に関する指導、コンサルタントを行うほか、平和を思索する執筆にも取り組む。著書に、日本の国際貢献を考察した『他国防衛ミッション』や、その続編でメジュゴリエの超自然現象からキリスト教の信仰を問う近著『聖母の平和と我らの戦争』。











