信長の長女徳姫が徳川に嫁いで入った岡崎城。

ライターI(以下I):『豊臣兄弟!』第31回では、前週に信長(演・小栗旬)の妹の市(演・宮崎あおい)が、「私を娶れ」と柴田勝家(演・山口馬木也)に「求婚」した後日譚が描かれました。

編集者A(以下A):「私を娶れ」っていわれてみたいという人、いってみたいという人が意外に多かったみたいですね。世の中に「私を娶れ」というワードが広がったら、市も喜びますかね?

I:私は、市と羽柴兄弟は、仲が良いものと思っていたのですが、市の秀吉(演・池松壮亮)に対する思いは複雑なようです。

A:1981年の『おんな太閤記』では、夏目雅子さん演じる市が「(息子の)万福丸を殺した秀吉を許すことができない」旨の台詞がありました。現在では万福丸は市の実子ではない説が主流ですが、それにしても浅井家の嫡男ですからね。

I:『豊臣兄弟!』の市は、そうした私怨というより、織田家の権力を簒奪しようとする秀吉のことを敵認定した、という感じですよね。

信長長女徳姫との比較

I:市と茶々、初、江の三姉妹は、浅井長政が信長に反旗を翻して討ち死にした後に、信長の庇護のもと生活していました。『豊臣兄弟!』で時代考証を担当している黒田基樹先生の著書『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(朝日新書)の受け売りですが、実際に面倒を見ていたのが当初は信長の叔父信次で、信次が長島一向一揆で討ち死にした後は信長に面倒を見てもらっていたようです。

A:実は、柴田勝家と市の縁談のくだりを視聴していて、「お市同様に、織田家に戻って来ている姫がもうひとりいたよな」と思い出しました。

I:あ、信長長女の徳姫(五徳とも/以下徳姫)ですね。徳川家康嫡男松平信康に嫁いだ女性で、信康が築山殿と同時期に「粛清」された事件があまりにも有名です。

A:徳姫は、信康との間に登久姫と熊姫とふたりの姫を授かりました。天正7年(1579)に夫の松平信康自刃の後に、徳川家を離れて織田家に戻る様子が、2023年の大河ドラマ『どうする家康』でも描かれました。ふたりの娘は徳川家に残していかざるを得なかったのです。「本能寺の変」が起きた頃、徳姫はまだ23歳です。36歳の市に柴田勝家との縁談が持ち上がったのであれば、徳姫にも縁談はなかったのだろうかと、思ったのです。

I:なるほど。

A:徳姫の母は、嫡男信忠、次男信雄と同じともいわれています。織田家の序列としては市よりも上位だったかもしれませんね。そういえば、『どうする家康』では久保史緒里さんが徳姫(劇中では「五徳」)を演じていました。戦国の時勢に翻弄されて織田家に戻らざるを得なかった徳姫と市、茶々……。彼女たちが語り合う場面を見たかったりします。せっかくですから、久保史緒里さんには再度登場いただいて、井上和さん演じる茶々とのやり取りをしてもらって……。

I:それはまさに「乃木坂46共演」……。またそんな勝手なことをいう……。ところで、「その後の徳姫」はいったいどのような生涯だったのでしょうか?

A:再婚の話もなく、「本能寺の変」後は、兄織田信雄の庇護を受けたといわれています。その信雄が改易された後、江戸初期に実家の織田宗家は2万石の大名として上野国小幡(群馬県甘楽町)で存続しますが、「岡崎様=徳姫」を庇護するほどの財力はなかったようです。尾張など幾度か転居を繰り返し、京都で生涯を終えたといいます。亡くなったのは寛永13年(1636)1月。夫信康の死から57年、父信長の死から54年。徳川将軍は第3代家光で、同年、日光東照宮の陽明門が完成しています。「遅れてきた戦国大名」伊達政宗が亡くなったのも同年です。完全に時代が移り変わっていました。

I:徳姫は安穏に暮らせていたのでしょうか。

A:徳姫が松平信康との間でもうけた登久姫は小笠原秀政に、熊姫は本多忠勝の嫡男忠政に嫁ぎました。小笠原家は信濃の戦国大名でしたが、武田信玄に滅ぼされていた家です。武田家滅亡後に再び大名として取り立てられていました。

I:なるほど。

A:徳姫の生涯について、興味深いエピソードがあります。『徳島新聞デジタル』に連載されていた「蜂須賀めぐり」の受け売りになります。徳姫の玄孫(孫の孫)にあたる蜂須賀千松丸(後の3代藩主蜂須賀光隆)が誕生した際には、光隆の母・繁姫は、実母の亀姫(当時明石藩の小笠原忠真正室/繁姫の実父小笠原忠脩は大坂夏の陣で討死したため忠脩弟の忠真に再嫁していた)に乳母の選定を相談しました。このとき亀姫は自身の祖母で京都に住んでいた「岡崎様=徳姫」に相談したというのです。

I:徳姫は1559年生まれですから、もう70歳を超えていたはずです。

A:登久姫と熊姫の流れを汲む小笠原家、蜂須賀家、本多家からすれば、「岡崎様=徳姫」は尊敬・敬愛の対象だったのだと思います。ちなみに蜂須賀千松丸は、蜂須賀小六正勝からも徳姫からみても玄孫になります。徳姫と信康の長女登久姫は、小笠原秀政に嫁いで忠脩、忠真などの男子のほか、氏姫という女子がいました。氏姫は曽祖父の徳川家康の養女となったうえで、蜂須賀至鎮(よししげ)に嫁いだのが、蜂須賀家との縁の始まりです。

I:その縁組は、関ヶ原合戦直前に太閤遺訓に背く行為として弾劾された縁組のひとつですね。

A:そうです。一方で、徳姫と松平信康の二女熊姫は、本多忠勝の息子忠政に嫁ぎ、ふたりの間に亀姫が誕生します。この亀姫が姉登久姫の息子小笠原忠脩に嫁ぐのです。従兄妹婚になりますが、徳姫が生んだ登久姫と熊姫の系統がつながりました。そして、小笠原忠脩と亀姫の間に誕生した繁姫が蜂須賀至鎮の嫡男忠英に嫁ぎ、ふたりの間に誕生したのが千松丸になります。小笠原家と蜂須賀家は濃密な縁戚関係を築くことになるのですが、これは「岡崎様=徳姫」の意向もあったのではないかと推察します。

I:織田信長の長女で、かつては徳川家嫡男の正室だったわけですからね。皆々から尊敬を集める存在だったんでしょうね。

A:これも前述の「蜂須賀めぐり」の受け売りになりますが、乳母の選定を託された「岡崎様=徳姫」が選んだ乳母は「万」という女性でした。父は宮津藩京極氏の家臣で、夫の伊藤忠兵衛は福島正則の家臣だったそうです。福島家が改易された後は浪人生活を送っていたといいます。蜂須賀家の跡継ぎの乳母に福島正則家臣が選ばれたというのも感慨深いです。蜂須賀家の若君千松丸が2歳で初めて江戸に登る際には、京都に立ち寄り「岡崎様=徳姫」のもとに数日滞在したそうです。千松丸はやがて、徳島藩第3代藩主蜂須賀光隆になるわけですが、徳姫はその襲封を見守ることなく、寛永13年に亡くなります。前述のように「本能寺の変」から54年が経過していました。

I:織田から豊臣、さらに徳川と「天下人」は移ろい世の中も変わりました。そうした「世」を徳姫はどのような思いで見つめていたのでしょうか。

※宮崎あおいの「崎」は正しくは「たつさき」。

●編集者A:書籍編集者。かつて『完本 信長全史』(「ビジュアル版逆説の日本史」)を編集した際に、信長関連の史跡を徹底取材。本業では、11月10日刊行の『後世に伝えたい歴史と文化 鶴岡八幡宮宮司の鎌倉案内』を担当。

●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好き。愛知県出身なので『豊臣兄弟!』を楽しみにしている。神職資格を持っている。

構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり

 

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