文/濱田浩一郎

信長はなぜ「うつけ」と呼ばれたのか?
豊臣秀吉は天文23年(1554)に織田信長に仕えたとされますが、ではそれまで信長はどのような人生を送ってきたのでしょうか。信長が生まれたのは、天文3年(1534)のことでした。父は織田信秀。尾張国(愛知県西部)下四郡を支配する守護代・織田大和守家に奉行として仕える立場でした。信長の母は、土田御前。土田政久の娘(諸説あり)とされますが、詳しいことはわかっていません。
信秀は勝幡城(愛知県愛西市・稲沢市)を居城としていました。『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記)には、信秀は取り分けて「器用の仁」(優れた人)と記されています。諸家の優れた者と交際し、自らの味方としていたようです。そんな信秀は、まだ幼い信長(幼名は吉法師)を那古野城に入れるのです。林通勝・平手政秀といった家老を付けて、信長を那古野城主としたのでした。
信長が元服したのは、天文15年(1546)、12歳の時です。元服したのは、信秀が築いた古渡城(愛知県名古屋市中区)であり、その際には盛大な祝宴が催行されたとのこと。そしてその翌年(1547)が信長の初陣でした。家老の平手政秀がその後見をします。信長は紅筋の頭巾・馬乗り羽織という出立ちで、駿河の今川勢が籠る三河国吉良大浜に出陣したのです。『信長公記』を見ても、本格的な戦闘はしておらず、あちらこちらに火を放ち、野営し、翌日には那古野に帰陣しています。
天文18年(1549)頃、信長は美濃国の斎藤道三の娘(名は不明であるが、濃姫と呼称されることが多い)と結婚します。その頃までの信長は、乗馬の稽古を朝夕こなし、3月から9月までは川に入り「水練」するとの生活を送っていました(『信長公記』)。ある時、竹槍の叩き合いを見た際には「竹槍は短くてはいけない」と主張して「三間柄」「三間半柄」の長槍に変えさせたということです。これだけ見てくると、若き日の信長は武芸に励み、合理的精神を有した優れた若殿といった感じでしょう。確かにそれはそうなのですが、その頃の信長は「大うつけ」(馬鹿者)と世間の評判となっていました。髪を茶筅髷にし、朱鞘の太刀をさし、町を通行する時には、瓜や餅を頬張り、人に寄りかかって歩くという態度や風体が人々の顰蹙をかっていたのです。
若き信長の逸話が示す非凡さとは?
しかし、そうした時であっても、信長は弓・鉄砲・兵法の師匠について、稽古に励んでいたのですから、「うつけ」ではないでしょう。信長はなぜ奇抜な格好をしていたのかについては、敵を油断させ欺くためなどの見解がありますが、定かではありません。信長は舅(妻の父)の斎藤道三と正徳寺で会見(1553年頃か)することになりますが、会見のそもそもの契機となったのが、道三の家臣らが口々に信長のことを「大たわけ」と罵ったからだそうです。道三はその非難を聞いても「人々がそう申すということは、決して阿呆ではないだろう」と思っていましたが、その真偽を目で確かめたいと感じ、会見を申し込んだのでした。信長の「うつけ」振りが美濃国まで伝わっていたことがわかりますが、もし信長が他国の者を油断させるために、奇抜な風体をしていたとすると、その目論見は見事成功していたと言えるでしょう。
信長は道三との会見場に向かう際も、茶筅髷で、腰の周りには瓢箪や火打ち袋を複数ぶら下げるという格好でした。しかし、道三と会見する段になると、しっかりと髷を結い、正装して登場したのです。この信長の素早い変化を見た道三の家臣らは「日頃のうつけ振りはわざとであったか」と驚いたのでした。
この正徳寺の会見の前年(1552)、信長の父・信秀は病没しています。信秀の葬儀は尾張国の万松寺で盛大に執り行われましたが、信長はその場にも、奇抜な格好で登場したとされます。そればかりか、仏前に出てきて、抹香を投げ付けて退場するという不適切な行為をしているのです。当然、この出来事はすぐに広まり、人々は信長のことを「大馬鹿者よ」と囁き合ったのでした。ところが、筑紫(九州)から訪れた客僧1人だけが「あの人こそ、国持ち大名となる人よ」と断言したとのこと。その理由については『信長公記』に記載されていませんが、推測するに、客僧は信長の豪胆さを見抜いたのでしょう。一方、信長の後見だった平手政秀は、信長の日頃の不行儀を嘆き、ついには切腹して果てています。
さて、秀吉が信長に仕えたと思われる年(1554)、信長は今川方が籠る村木城(知多郡東浦町)を攻めてこれを落としています。信長の号令一下、次々と敵城に飛び込んでいく織田方の若武者たち。彼らの凄まじい奮戦により、城は落ちたのです。だが、負傷者や死者も多く出て、慘状を呈します。本陣にいた信長は、戦死した小姓たちのことを聞き、涙を流したのでした。信長のためならば命を惜しまない部下たち。その死を嘆く大将・信長。ある意味、「理想的」な主従関係が形成されていたと言えます。村木城攻めの信長の姿を伝え聞いた斎藤道三は「恐るべき男よ」と漏らしたとされます。人々の顰蹙をかう行いもした若き日の信長ですが、一軍の将としての素養をしっかりと身に付けていたのでした。
【主要参考文献一覧】
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人『織田信長』(KADOKAWA、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)
文/濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)

兵庫県相生市出身。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師、大阪観光大学観光学研究所客員研究員を歴任。現在、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。
著書『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『中学生からの超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)その他多数。











