徳川家康像。

「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し」

徳川家康 元和2年(1616)4月17日没。73歳(数え75歳)

徳川家康が征夷大将軍の職を三男の秀忠に譲ったのは、慶長10年(1605)4月のことだった。時に家康、数え64歳。続いて、隠居城の場所を駿府に選定し駿府城の主におさまっていく。

7年前に亡くなった豊臣秀吉は62、織田信長49、武田信玄53といった同時代の戦国武将たちの鬼籍入りの年齢と比するとき、自身に残された時間にも限りがある。そのことを意識しての決断だっただろう。

だが、これはただの隠居などではなかった。表向きは秀忠を将軍職に引き上げながら、家康は「大御所」として政治も軍事も主導した。駿府城の大規模な修築工事は諸大名に使役を課す「天下普請」とし、近くの安倍川の築堤も薩摩の島津に命じた。その後、二条城での豊臣秀頼との会見、方広寺鐘銘事件を経て、大坂冬の陣、夏の陣で豊臣を滅ぼし、武家諸法度や禁中並公家諸法度を制定、さらに秀忠の後継に家光を据える。

つまりは、64歳での「隠居」後の最晩年に、家康はその後260余年の長きにわたって続く徳川幕藩体制の基礎を築き上げた。粗食を貫き、鷹狩りや水泳にいそしむ健康志向も幸いしてか、家康にはなお11年もの歳月が用意されていた。「定命(じょうみょう)」という仏教用語を想起する。人にはやはり、生まれ落ちたときすでに定められた寿命というものがあるのかもしれない。

山岡荘八の小説が敵役のイメージを一新した

日光や久能山の東照宮にも伝わる、家康の遺訓として有名な言葉がある。

《人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し いそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし 堪忍は無事長久の基 いかりは敵とおもへ 勝(かつ)事ばかり知てまくる事をしらざれば害其身にいたる おのれを責て人をせむるな 及ばざるは過たるよりまされり》

家康は天文11年(1542)、三河岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれたが、早くに父を亡くし、青少年時代は人質生活を送っていた。桶狭間の戦いを機に独立を果たすも、その後、幾多の戦乱をくぐり、あるときは正室や嫡男を死に追いやる忍従まで強いられた。辛抱の連続であった。「遺訓」はそんな家康にいかにも相応しいものに思えるが、実際には後代の創作らしい。

一方で、江戸末期にはこんな狂歌が流布していた。

「織田が搗き、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」

信長や秀吉が苦心惨憺してつくりあげた天下を、家康はただ座して待っていて「イイトコどり」したというのである。腹黒い狸オヤジというイメージも、そこに重なる。

明治末から大正にかけて子どもたちを圧倒的に魅了した立川文庫の物語世界でも、家康は秀頼ら大坂方を奸計によって破滅に陥れる狡猾な敵役。そんな家康や太閤の恩顧に背く外様大名たちを向こうに回し、真田十勇士をはじめとする豪傑や忍者が豊臣家のため縦横の活躍を見せるのである。

年若い読者をわくわくさせた物語は、講談や演劇の題材にもなり、判官贔屓の心情と結びついて、大衆の胸の底に静かにしみわたった。昭和に入っても家康には暗い印象がつきまとった。

大衆文化史の上でこれを払拭したのは、山岡荘八の小説『徳川家康』であろう。この歴史小説は昭和25年(1950)から北海道新聞の夕刊で連載が始まり、のち中部日本新聞や西日本新聞にも同時連載され、結局、昭和43年(1968)まで足かけ18年の長期連載となった。並行して、昭和28年(1953)から単行本化が進められたが、当初はさして話題にもならなかった。それが徐々に売れ始め、やがて爆発的なベストセラーとなっていく。

出版ジャーナリストの塩澤実信によると、きっかけのひとつは昭和37年(1962)3月、「週刊文春」が「経営者はクビを切らなくなった-社長さんの虎の巻は、いまや『徳川家康』だ」という特集を組んだことだったという。小説『徳川家康』では戦国期の数多の人物が躍動し一大群像劇を繰り広げていくが、その中で、家康と個性的な家臣団との主従関係はとりわけ魅力的に描かれていた。経営者やビジネスマンを中心とした読者の心を掴み、全26巻の単行本として完結したこの歴史小説は、その後もいよいよ部数を延ばし、昭和40年(1965)には1000万部を突破。帝国ホテルで行なわれた祝賀パーティには、時の総理・佐藤栄作や田中角栄の姿もあったという。昭和58年(1983)にはNHK大河ドラマの原作にもなった。累計発行部数は6000万を優に越え、今も読み継がれるロングセラーである。

山岡荘八は、家康を、けっして急がず、艱難辛苦の末に大望を実現する、深謀遠慮の大人(たいじん)として描き切った。山岡は太平洋戦争末期、特攻隊基地のある鹿児島の鹿屋で2か月間、報道班員として働いたことがあった。特攻隊の若者たちの最後の言葉を記したノートが、山岡の手許に残された。山岡は終戦後、戦争と平和について深く思いを致し、260余年続く泰平の礎を築いた世界でも稀有なリーダー、徳川家康とその時代を描こうと決心したのだという。『徳川家康』第1巻の「あとがき」に山岡は記す。

《私は徳川家康という一人の人間を掘り下げてゆくことよりも、いったい彼と、彼をとり巻く周囲の流れの中の、何が、応仁の乱以来の戦乱に終止符をうたしめたかを大衆とともに考え、ともに探ってみたかった。(略)これは世に言う歴史小説とは少しく違い、(略)描いてゆく過去の人間群像から次代の光を模索してゆく理想小説とも言いたいところである》

山岡荘八の描いた家康像が一般に広まるとともに、神格化され“出来すぎ”の感もあった神君家康公の「遺訓」も、いつしか庶民の胸に素直に落ちるものとなった。

黄泉への旅路の先に見える明るさ

大坂夏の陣の後始末も落ち着いた元和元年(1615)10月、駿府の家康は秀忠に誘われるままに江戸入りし、11月いっぱいにかけて、戸田、岩槻、川越、越谷、千葉、佐倉、東金、船橋と、江戸の周辺を経巡るように鷹狩りに明け暮れた。

家康は若いころから鷹狩りが大好きだった。『徳川実紀』には、次のような家康の言葉が記される。

《おほよそ鷹狩は遊娯の為のみにあらず、遠く郊外に出て、下民の疾苦、士風を察するはいふまでもなし、筋骨労働し手足を軽捷ならしめ、風寒炎暑をもいとはず奔走するにより、をのづから病など起こることなし》

確かに民情視察や健康維持という実用面はあろうが、それ以上に冒頭の「遊娯の為のみにあらず」の一文に着目したい。人質として過ごした少年時代から、鷹狩りに興じ続けた家康なのである。まして、長年の懸案だった豊臣のことも決着がついたあとだから、慶長20年の鷹狩りは、いつにも増して、いや生涯の中で一番のびのびとした気分で臨んでいたのかもしれない。

年が明けた元和2年(1616)も、家康は正月から駿河で鷹狩りを楽しんだ。1月21日も駿府郊外の田中で鷹狩りを催したが、夜中、突然の腹痛に見舞われた。京からやってきた茶屋四郎次郎が、そのころ都で流行の榧実油で揚げた鯛の天ぷらをすすめ、これを食べ過ぎたことがきっかけだったと伝わる。医師の片山宗哲の投薬でいったん落ち着き、24日に駿府城へ戻った。

知らせを受けた秀忠が駿府へ駆けつけると、家康は宗哲の投薬を拒み、自分で調合した薬ばかりを飲んでいた。家康はもともと薬づくりを趣味としていた。中国の古典的医薬処方集である『和剤局方』を戦場にも持参して熟読し、家臣らが体調を崩すと手製の薬を与えたという。関ヶ原の合戦で鉄砲傷を負った井伊直政に手ずから膏薬を塗ってやった、との逸話もある。『本草綱目』を手に入れ研究も重ねており、医学知識はそんじょそこらの医師には負けない、という強い自負心も抱いていただろう。

家康の病状を案じた秀忠は、宗哲に「お手製の薬はおやめ下さいと申し上げよ」と言いつけ、宗哲はこれに従った。ところが、家康は「無礼もの」と激しく怒り、宗哲を流罪にしてしまった。「堪忍の人」家康は、意外に短気な一面があったらしい。坂口安吾は「我、事において後悔せず」を旨とした宮本武蔵を、何かにつけ後悔しやすい性格だったに違いないと喝破したが、家康の「堪忍」にも安吾流解釈が当てはまったのか。あるいは、ことここに至って、家康自身、己の「定命」というものを感じとっていたのか。いずれにしろ、その後、家康の病状は深刻化していく。

4月になると、自身の最期を明確に意識した家康は、本多正純、南光坊天海、金地院崇伝を枕辺に呼んだ。死後の処置を命じるためであった。その内容は、駿河の久能山に埋葬すること、葬儀は江戸・増上寺で行ない、位牌は三河・岡崎の大樹寺におさめること、一周忌がすんだら下野の日光山に小祠を建てて勧請(かんじょう/霊を移して祀ること)をすること、などだった。

4月11日、家康は1万冊におよぶ駿河文庫(駿府城内の書庫の蔵書)の処置について、林羅山に指示をした。晩年の家康は武断から文治へと移りゆくべき政治状況の変遷をにらみ、古書・古記録の収集から銅活字の鋳造による出版事業まで文化政策にも力を入れていた。とはいえ、最後の最後まで戦国武将の気概はゆるみなく体内に蔵していた。この数日後には、家康は愛蔵の三池典太の太刀で試し斬りをさせ、病床でその血刀を握って三度振り、「この太刀の剣威をもって子孫の末までも鎮護せん」と宣言し、太刀を久能山に納めるよう命じたという。
4月17日午前、数え75歳(満73歳)で死去。遺骸はその日のうちに久能山に移され、翌年には日光に家康を祀る神社が造営される。これが現今の日光東照宮の基礎となった。

『東照宮御実紀』に記された家康の辞世は、「嬉しやと再び覚めて一眠り浮世の夢は暁の空」。再び目が覚めたら、なんとも嬉しい気持ちになって、またひと眠りしよう、現世で見た夢は東から世を照らす夜明けの空だった。そんな意味だろう。

黄泉への旅路の先に、ほんのりと明るさが感じられる。

(主な参考文献)小和田哲男監修『別冊太陽 徳川家康』(平凡社)、『現代視点 徳川家康 戦国・幕末の群像』(旺文社)、磯田道史『徳川家康 弱者の戦略』(文春新書)、山岡賢次『いまなぜ家康か 父・山岡荘八と徳川家康』(講談社)、『現代語訳徳川実紀 家康公伝』(吉川弘文館)、『歴史と旅臨時増刊号 立川文庫傑作選』(秋田書店)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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